達人対談2016「果てなき内的探究」 成瀬雅春 × 藤田一照 第三回 一生に一度の「死」を楽しむ

| 成瀬雅春 藤田一照

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2016年10月14日に行われるソマティックフェスタでは、コ2【kotsu】のコラボ講座が行われることが決定! そこで今回は「ソマフェスコラボ記念!」として、5月1日に行われたイベント「達人対談2016」の模様を、三回にわたってお届けしています。
最終回となる第三回は「一生に一度の死の体験を楽しむこと」について。成瀬雅春さん(ヨーガ行者)と藤田一照さん(曹洞宗僧侶)お二人の死生観が話し合われました。

対談/成瀬雅春×藤田一照

「達人対談2016 果てなき内的探究
——瞑想の実践」

第三回(最終回)  一生に一度の「死」を楽しむ

語り成瀬雅春、藤田一照
取材協力オーガニックライフTOKYO事務局
構成・撮影コ2編集部

 

有本匡男(以下、司会) 第二回では、瞑想によって起きる体験について、お二人の処し方をお話くださいました。いい体験からも悪い体験からも、自分が去るのではなく、瞑想をする中で勝手に去っていくもの。だからこそ、何かの体験が来たら「しっかり味わいたい」というお話が印象的でした
この「気づき体験」をめぐって、さらに何かあればお話いただけますか?

藤田一照(以下、藤田) 僕が成瀬さんの本で最初に読んだのが、この『空中浮揚(ヨーガ奥義書)』(成瀬 雅春 (著)、出帆新社)なのですが……。

成瀬雅春(以下、成瀬) そんな本出さないで。ヤダなあ(笑)。

藤田 「こんな体験をしている人がいるのか!」と思って、むさぼるように読んだ覚えがあります。今、後付けを見ると1992年発行ですから、まだ僕がアメリカに住んで5年経ったくらいの頃ですね。
そういった非日常的な体験、例えば高次の意識とのコンタクト体験といった、何か“超常的なこと”は、ふだんあまり喋らないものですか?

成瀬 いや体験はするけど、僕自身が別にあんまり興味がないから。それに対する執着も興味もないんですよ。「ああ、そうかな」というだけ。

本
一照さんが読み込んだという成瀬さんの本。

 

藤田 なるほど。でも皆さんは興味あるんじゃないですかね(笑)。
僕の場合、そういう体験ではないのですが、第二回で話したような、只管打坐で坐禅をする時、自分の“内”と“外”の境界線なくなったみたいな体験をしています。僕が何かを見ているという意識ではなく、見えているだけといいますか。
“僕が”見ている、聞いている、感じている……という、ある種の緊張や力みがない感じの体験をすることが、ある種の「気づき体験」なのだと思います。ああ、こっちの方が本来なんだなって。

成瀬 それは悟っている人だからできる体験ということ?

藤田 いやいや、一過性のものです。その時によって違うんですよ、体験の濃度のテイストが。最初に起きたとき、「えっ」という感じでしたね。音がしているけど静かなんです。音があるのに静かなんですよ。見えているし、物もあるのですが、透明な存在感というか、とてもビビッドなんです。

だから「世界ってこんなにも美しくて平和なんだなぁ」という感じがしみじみ湧いてくる。「こういう感じでいつもいられたらいいのに、何でいられないのかな」と思いました。でもその体験が過ぎ去ってしまうと、何でそういう感じがそのときそこに来たかも分からないし、何で消えちゃったのかも分からないんですけど、これがもっと続けばいいと欲で思ってしまったんでしょうね(笑)。
その後、感覚は元の木阿弥に戻ってしまったのですが、しばらくはそういう幸せな感じが、ずっとエコーのように残っていましたね。

でも師匠からも、そういう体験はあってもいいけど、「またそれを起こそうなんて思ったら、ますます遠ざかるぞ」と言われていたので、「ああ、たまたま起こっただけなんだ。でも、よかったな」と思ったくらいなんですけど。そういう体験はありますね。

成瀬 なるほどね。僕自身は、さっきも言いましたが、過去の体験とは終わったことなので、ほとんど興味がないんです。いろいろなことは面白いし、体験もするけどね。ディズニーランド行っても楽しいだろうし、何でも楽しいんですけど。

でももし「一番興味があるものは何ですか」という質問をされたら、それは自分の死の瞬間です。最高です。それ以外は大して興味がない。
その瞬間を考えると……フフッ(笑)、嬉しくなっちゃって。

藤田 うわ~、それはすごい(笑)。

成瀬 一生涯でたった一度しかできない体験って、死の瞬間ですよ。それ以外は、お金があったり、時間があったりすれば、ほぼ何でも解決できるし、何でも体験できる可能性はあります。
だけど「あれを体験しよう」としてもできないのは、死の瞬間だけ。なのでその瞬間は、絶対面白いはずなんですよ。もうワクワクしちゃって、今から。自殺願望はないですよ。死にたいんじゃないです。その瞬間が来たら、来た時に最高に楽しもうと思うんです

それ以上の楽しみってないですよ。どこかで何かを体験しても、遊園地に行っても楽しいけど、「あ、そうだな」という程度でしょう? 本当に楽しいと思えるのは、その瞬間だけじゃないかな。

藤田 この間、打ち合わせでお会いした時も、今のような熱のこもった言い方で「僕は自分の死をすごく楽しみにしているんだ」と言われて、「わあ、すごいな」と思いましたね。
一回きりの最高の死を迎えるために、今一生懸命備えをされているというか、そういうスタンスで今を生きているというのは、この人、本気なんだろうなと思いましたね。それが楽しめるんだったら、他のものなんかあんまり……どっちでもいいというか。

成瀬 うん、まあ、楽しいけどね。

藤田 僕らは、死を怖がっているから、なんても本当には楽しめないんだけど、死が楽しめるんだったら、もう残りは楽勝という感じですよね。

成瀬 ええ。怖いものがなくなりますね。

藤田 死を怖がるのは、今をどう生きているかということのある種の報いかもしれないですね。でもその怖さをどうやったら解消できるかという問題なんですけど、成瀬さんは、そもそも最初から死が楽しみだったんですか?

成瀬 それは自分に対する興味があるから。自分は生まれて、生きて、最後は死ぬんだなと。そうすると一番の興味というのは、ゴールでしょう。マラソンを走り出して、ゴールテープに興味がない人はいないですよね。「絶対ゴールするんだ」と、みんな思って走るわけですよ。同じことです、人生も。

ゴール=死だから、「ゴールするんだ」と走っているわけです。であれば、一番興味のある対象って死ぬ瞬間のはずなんですよ。本当は誰にとっても。

藤田 もう一回、ゴールから戻ってくる(=よみがえる)楽しみは?

成瀬 いやそれはね。大学卒業できないで留年したようなものだから。そもそも「留年したいんです」という人はあまりいないと思うんです。

講座風景

 

藤田 なるほど、卒業したいですよね(笑)。

司会 話が尽きない感じで、ずっと聞いていたいですね。本当にありがとうございます。ですが時間の都合もありますので、会場の皆さんから質問があればぜひ、お伺いしたいと思います。どなたか挙手をお願いします。

質問者1 大変貴重なお話をありがとうございました。私は3年くらい前から、曹洞宗のお寺で朝の参禅会に行ってまして。もっとしっかり安定して坐りたいと思って、成瀬先生の所に今年からハタヨーガを習いに行っています。

そこで質問です。禅宗では突き詰めると「無我」を求めていると思うのですが、ヨーガの場合はもっと「自我、真我」というか、自分に気づくということを言っていて。このままヨーガと禅を平行して続けていると、矛盾を抱えたまま、何かおかしいことにならないかなと思っていまして。

藤田 もっともな質問ですね。言葉で意識したら一方のヨガは「ある」、しかも「本当のやつがある」、もう一方の禅は「ない」と言ってるわけですからね。言葉の上では、どうやっても帳尻合わないです。

でも僕は、体験的というか、行の世界では全然矛盾していないと思っていますけど。仏教でも「縁起」と「空」って裏表なんですよ。「縁起」というのは、ポジティブに、「空」というのはネガティブに言っているだけで、どちらも同じあり方のことを言ってます。
だから
「真我(全てのことが連関している縁起のネットワークが本来の自分である)」は、自分をポジティブに表現した言い方
「無我(コロッとした実体的な自分はどこにもいない)」は、自分をネガティブに表現した言い方
として、矛盾していないと思っています。

成瀬 同じことを言ってるんですよ、結局。ベースが違うというだけの話なんで、あんまり深く考える必要はないんじゃないですかね。

藤田 行法が導いてくれるところに、素直についていけばいいと思います。これを「真我」と言うのか、「無我」と言うのかは、後から腑に落ちる時が来ると僕は思っています。

質問者1 分かりました。ではもう一つ、伺わせてください。成瀬先生のされているハタヨーガの本尊は、シヴァ神ですよね。でも、ブータンの仏教寺院にもまつられているのが、非常に面白いと思って。そういった「何を信じるか」は、あまり考えなくてもいいものなのでしょうか。

成瀬 一番何を信じてるかといったら、自分を信じているので。それ以外のものは信じちゃうとダメですね、僕は。
ただ、ヨーガの開祖がシヴァ神だと言われているから、シヴァ神を飾って横に並んでいる。シヴァ神もヨーガの行者、僕もヨーガの行者なので、向き合わずに並ぶんです。同じ行をしている、というだけのことです。別にブータン行ってもそうだし、仏教もベースはヨーガですからね。僧侶の方がいる前で何だけど。だからみんな同じ中にいるわけですよ。

質問者1 ありがとうございます。僕はヨーガとか瞑想とか詳しくないので、今日のお話はすごく新鮮でした。これまでずっとスポーツをしていて、よく「ゾーン」とか「フロー」とかいう状態があると聞くのですが。
瞑想とかヨーガをだんだん練習していくと、それに近づくと考えていいのでしょうか。

成瀬 まさにそのとおりですね。別にヨーガとか瞑想とかをしなくても、スポーツを究めていくと、そういうものを体験できるんです。だから、どのルートで行ってもいいんですよ。
余計なことがなく、そのことがポッと自分の目の前にあって、それだけに自分が憑かれる状態になれれば。別にヨーガを使わなくても、禅を使わなくても、釣りだったら釣三昧で。釣りで悟れるんですから。みな同じことです。

藤田 「ゾーン」といわれる状態は、身体と心と魂が調和したというか、調っている時のある状態みたいなのを言うんだと、僕は思っています。坐禅の時だけじゃなくてヨガでもスポーツでも、そういう状態になった時は、普通とは違う意識状態になる。

あるいは意識だけじゃなく、身体の状態も多分違っていて。身体の状態も多分違っている。だから、努力感がないままに高く跳べたり、速く動けたりするんだと思います。でもそれは、ふだんの稽古がムダなく発揮されている状態なんで、いくら僕がゾーンに入っても、ピアノの練習をしていなければ名ピアニストのようにピアノを弾けることは絶対ないわけですよ。

例えばマンガの『黒子のバスケ』[編註:藤巻忠俊 作。『週刊少年ジャンプ』誌上で連載された、高校バスケットボールが題材の少年漫画。超人じみた能力を発揮する選手たちの姿も、物語を盛り上げた]でも、ただ単に入りたいと思ったからってゾーンに入れるわけじゃない。チームのみんなと一緒の勝利のためにという自分を超えたところで願いを持った時にはじめて自然に出てくるようなものとして描かれていて、面白いなあと思ってます。

最近のマンガの中には、格闘技のマンガでも、単なる身体能力の凄さだけではなくて、当人の意識状態みたいなことをネタのするようなものが出てきています。そういうことが皆のコンセンサスというか、常識の中に入りつつあるので、面白い時代になってきたなと僕は思っています。

司会 まさかマンガにまで、話が及ぶとは思いませんでした(笑)。それではもう一つ、最後にどなたかご質問いただければと思います。

質問者2 質問というか、お話を聞いた感想になりますが。確かに原始仏教では無我を説きますけど、お釈迦様の最後の説法は「自己を拠り所にせよ」ですよね。「自灯明[じとうみょう]、法灯明[ほうとうみょう] 」ですから。

僕は大乗仏教を研究しているのですが、仏生とか如来像というのはまさに、ヨガ的なアートマンの思想につながるんじゃないかと、今までのお話の中で感じました。
一つだけ、シンプルな質問ですが。お二人の発言のなかに時々「悟り」という言葉が出てきたと思うのですが、「悟り」って何ですかね? それともないものなのでしょうか?
あるとしたら、「悟り」について、どういうお考えをもっているのかを聞いてみたいなと。

藤田 悟りのある/なしで言えば、多分あると思います。
それより前に一番本質的なことは、「自己」と「他者」の仕切りが錯覚だったということに、本当に気がつけるかどうかだと思います。そういう仕切りが錯覚だと知ったうえで、「自己」と「他者」という言葉を使う必要があります。その区別なしで社会生活を送るのは、難しいですから。

でも錯覚だと知らないままでいると、本当にそうだと思って使い続けてしまう。もし悟りというのがあるとしたら、悟りの中にそういう錯覚から目覚めることも含まれると思っています。

成瀬 「悟り」というのは体験ですよね。体験なので、さっき僕がチラッと言った釣り三昧も、あれも釣りを最高に楽しむ体験ですよね。分かる、理解するということは、悟りということでしょう。だからその意味では、それもある種の悟りです。

瞑想も悟りも、「なんとなく悟っちゃった」じゃなくて、やっぱり段階があるんです。ステップ・バイ・ステップの。ただ深くなってきたんじゃなくて「ここまで深くなった」「次はここまで深くなった」という段階があります。それをヨーガの行者はきちっと5段階に分けて、サマーディ[編註:集中して心が統一されている状態のこと。三昧、禅定と呼ばれることもある]までちゃんとあるわけです。「悟りってあるの? ないの?」という話に戻ると、自分のすべてを知るというのが最高の悟りです

だって、自分自身が謎な存在だから。生まれてきて死ぬまでの間に「自分って何なの?」という問いの答えが分からないまま死んでいくケースが多いけれど、もしそれが死ぬまでの間にすべて分かったら、「悟れた」と言えるんじゃないですかね。すべて分かったら、人間として生きている必要性がなくなるんです

だって、「人間って、自分って何なの?」を学ぶために生まれてきたので、学んで学んで、全部分かっちゃったら「大学卒業できますよ」というのと一緒。だからもう「この大学で勉強しなくていいですよ」という話でしょう。人間として勉強する必要がもうないですよ、もういいですよ、というのは「悟れた」ということだと僕は思うんですけどね。

司会 ありがとうございます。会場からのご質問も含めて、お話が非常に深いところまでいくので、さすが達人対談だなと思います。では最後になりますが、瞑想の実践について、皆さんにお二方からメッセージを頂ければと思います。

藤田 どうぞ年齢順に上の方から(笑)。

成瀬 俺は800歳だからね(笑)。
メッセージといっても、最初に言ったように、瞑想というのはただ坐って瞑想や坐禅の格好をしていても、意味がないとは言わないけど、それだけでは活きないよ、ということですね。活かすには日々の生活、毎日の生活のなかで活かしていく必要がある

「それは何なの?」というのは、一つ言うなら自分に対する興味をもつこと。自分は今、どんな状態なのかを見る。

例えば電車に乗ったあと、ドアが閉まって次の駅に着くまでの間に、パッと目を閉じる。そして目の前を見つめるとか、電車の音だけを聞くとか、何か一つのことに集中する。ほんの2分か3分でいいんですよ。それを日々の生活の中でやることで、瞑想能力はどんどん上がるんです。

1時間瞑想しても、1時間のうち58分が雑念だらけだったら、瞑想って2分しかしていないでしょう? そうするくらいなら、電車に乗って次の駅に着いて、ドアが開くまでの間のたった2分、しっかり集中できていたら、そっちの方がはるかに効率的にいいわけです。
そういうことを日々、していただくのが一番いいかなと僕は思います。

藤田 生きることを、瞑想とか坐禅という営みと切り離さないこと。それから、成瀬さんが体現されているように、何にでも興味をもって、ワクワクしながら飛び込むということですよね。

勉強だってイヤイヤやっていたら全然身に入らないし、試験が終わったら忘れてしまう。でも、面白くてやっている子たち、例えば電車が好きな子って、「こんなことまで詳しく知ってるのか!」というくらいやり込むわけでしょ。親から言われてやってるわけではなく、自分が面白くて全部自発的にやっているんですよね。だから驚くくらいのレベルに達してしまう。

だから瞑想も、生きることもですけど、自発性というのがすごく大事。自発性で自分は生きてるのか、ややっているのかを問い直してみてほしいですね。本当に自分が寝食を忘れるくらいやりたいことって何だろう? という問いかけをもって行うこと。それが本当の自分を知ることですからね。

たいてい僕らは、誰かに言われたプログラムをこなしているにすぎない。それじゃあ自分の人生を生きたことにはならないのではないか。そういう問題意識をもったらどうですか? ということが、メッセージですかね。

司会 瞑想は通常、テクニックありきのイメージで捉えられることがあるかもしれませんが、今回の達人対談では、日々のあり方すべて、というところまでお話いただけたかなと思っています。

皆さんの中でも気づきですとか、何かしら思うところがあったかと思いますので、ぜひそのあたりをおもち帰りいただき、今後、先生方から直接学べる機会がありましたら、さらに学びを深めていただければ幸いです。
先生方にあらためて大きな拍手をお願いいたします。成瀬さん、一照さん、今日は本当にありがとうございました。

(第三回 了)

 

–Profile–

講座風景

 

成瀬雅春(Masaharu Naruse写真左
ヨーガ行者、ヨーガ指導者。12歳の頃に「即身成仏」願望が生じ、今日までハタ・ヨーガを中心に独自の修行を続けている。1976年からヨーガ指導を始め、1977年2月の初渡印以来、インド、チベット、モンゴル、ブータンなどを数十回訪れている。2011年6月、ガンジス河源流ゴームク(3892m)での12年のヒマラヤ修行を終える。現在、日本とインドを中心にヨーガ指導、講演等の活動をおこなっている。著書多数。
Web site 成瀬ヨーガグループ

藤田 一照(Issho Fujita写真中央
曹洞宗国際センター2代目所長。東京大学大学院教育心理学専攻博士課程を中退し、曹洞宗僧侶となる。33歳で渡米し、以来17年半にわたってアメリカのパイオニア・ヴァレー禅堂で禅の指導を行う。現在、葉山を中心に坐禅の研究・指導にあたっている。著作に『現代坐禅講義 – 只管打坐への道』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(幻冬舎新書、山下良道氏との共著)、『禅の教室』(中公新書、伊藤比呂美氏との共著)、訳書に『禅マインド・ビギナーズ マインド2』(サンガ新書)など多数。
Web site 藤田一照公式サイト

有本匡男(Masao Arimoto写真右
(株)ホリスティックヘルスケア研究所マネージャー、(NPO法人)日本ホリスティック医学協会常任理事。幼少期に、仏教の考えに触れ、「幸せとは」について考え始める。2002年よりセラピストとして活動を開始、同時にヨガ、哲学を学び始める。2007年より「teate(てあて)セラピー」を始める。現在は講演、ワークショップを通じて、「teateセラピー」やホリスティックヘルスケアの普及につとめている。
Web site ホリスティックヘルスケア研究所

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