コ2【kotsu】特別インタビュー 韓競辰導師に訊く「韓氏意拳とは何か?」 第三回(最終回)

| コ2【kotsu】編集部

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いよいよ今年も韓氏意拳創始者である韓競辰導師の来日講習会が開催が近づいてきた。
毎年恒例で行われている講習会では、まったく初めての方から熟練者まで、直接韓競辰導師に触れられる貴重な機会となっている。
とはいえ韓導師の高名さと、どこかに漂う韓氏意拳の敷居の高さから及び腰の方もいらっしゃることだろう。

そこでコ2【kotsu】では、前回来日時に収録した韓競辰導師のインタビューを全三回で公開!
韓氏意拳が求める武術の核”状態”から導師ご自身のことはもちろんお父様である韓星橋老師のことまでお話をご紹介したい。

最終回の今回は韓氏意拳が考える”味”について伺った。

コ2【kotsu】特別インタビュー

来日講習会記念企画
韓競辰導師に訊く「韓氏意拳とは何か?」

第三回(最終回) 「韓氏意拳とは「味」である」

インタビュアー・文コ2【kotsu】編集部
取材・写真協力日本韓氏意拳学会
監修光岡英稔師範

 

何が”自然”なのか?

コ2編集部(以下、コ2) 徹底的に不自然性、作為的なものを排除しているわけですね。

韓競辰導師(以下、韓) そうです、まずは固定観念を崩し観念を変えていきます。それから不自然な運動習慣とは何かを理解し、自然と排斥できるようにしていきます。まずは固定化した観念と不自然な運動の習慣を捨てて行きます。その時に、初めて真実が見えてきます。自らの中から自然本能の働きが見えてきます。

アメリカに行って「自然な行為とは、自然とは何か」について韓氏意拳の教義したことがあります。私は学生たちに聞きました「皆さんは水を飲む時にはどのようにしますか?」と、そうすると皆が皆、そろってコップを手に持って口元へ持ってきて飲む仕草をするのです。そこで私は皆に片手で水をすくって飲む動きをし「これではどうでしょうか?」とたずねました。

精力的に講習会を指導する韓先生。(2016年4月23日撮影)

 

コ2 アメリカの生徒たちは何と答えたのでしょう?

 彼らの答えは「ノー」と言いました。じゃあ、こうやって飲むのか?と頭を下げ顔を水に近づけて飲む動きをしました。彼らは水を手ですくってこうやって飲む、あるいは顔を水に近づけてこうやって飲むことを第一に想定してなかったようです。水を飲むのに先ずは何か容器を見つけて、それに水を入れて飲む必要があると思ったいたようです。しかし、そもそもコップも人が自然にある物を加工して作らない限り自然界の中にもともと存在していないものですね。

何故この手で水をすくったり、口を水につけて飲むでしょう?それは一切の人工物や道具を無くし、自分の体一貫になった時に私たちに残された体とその構造しか頼りどころがないからです。水辺に行って水を飲む時には、このように身体を用いなければ水は飲めません。また、流れて行く水を手で掴んで飲むわけにはいかないので、身体を屈めたり、手の構造を変え、水をすくえる形にして飲むしかない、それが自然の中では真実となります。

自然に近づけは近くほど私たちは自らの身体やその姿形、構造に頼らざるえないのです。その動きを行う身体は私たちが思惟して設計したものではなく、生来から与えられた姿形をしています。自然な行為とは、生来から与えられた姿形や構造に従い自然と発生した行いのみを指します。それは私たちが人為的に設計したものでない生まれた時から与えられた姿形を最大に生かすことでもあります。例えば其処に置いてある石を掴む時もこうやって(手の甲側から物を掴もうとする動きを示しながら)は掴みはしません。

コ2 確かにそうですね。

 講習会などで皆に自然はどういうものかをよく訊ねますが、皆は「どうしてこんなこと聞かれるのか?」と変な顔をします。それは「どうやってこれに答えたらいいんだ」という感じで誰もナカナカ答えられません。

そこで私は改めて皆に訊ねます、

今、皆さんどこにいますか」と。

そこで皆の中から「私は今、部屋の中にいます」「建物の中にいます」と答える人や、さらに具体的に「何々市、何々町、何々通りにいます」と答える人もいます。しかし、私は皆に問います、

あなたは自然の中にいませんか?」と、

中にはハッとする人もいれば、「ここは自然の中じゃあないよ」と困惑した顔をする人も少なからず居ます。そこで私は更にこう問います、「家や建物はその自然の中にはないんですか?」と、そこで初めて大多数が気付いてくれます 、私たちが人為的、人工的に与えた全ての条件は自然の中の一部であることを。

コ2 自分の頭の中で“自然とは人工物や人間の社会性のないところ”だと考えていたのですね。ただ、経験的に自然とは一人一人違うものですから、先生が「これが自然だ」という絶対的な教え方ができないのが大変ですね。

 ええ、教える側が一人一人に注目していかないといけません。その人がどういう問題を抱えていて、どういう課題があるかを見てあげないと、その人の自然は見つかりません。だから、大きい人や小さい人も、背の高い人や低い人も、また見た目だけでなく一人一人持っている条件が違うので、ある形式を用いて教えていても皆に同じことを一律に教えることはできません。

 

一人で学習する難しさ

コ2 先生は指導をされている中で、「この人が自然にやっているか、やっていないか」が、見ただけで分かると思いますが、それはどこで分かるのでしょうか?

韓先生を囲む生徒達。(2016年4月23日撮影)

 

 まず韓氏意拳を教える上では、人の形体言語というものをよく理解しないといけません。その人の仕草や行動の裏にある心境を見ていきます。教える上では、この形体言語とその裏にある心境を読む必要があります。その形体言語が理解できると、ある仕草や動作、行動からその人が自分の行いを自然に感じているかどうかも見て取れます。

コ2 そうしたことを踏まえた上で、やはり先生と常に一緒にいるわけにはいきませんので、一人で稽古をすることが多いと思います。その場合、例えば一人で站椿(たんとう)の練習を行う際に鏡を見ながらおこなうということは良いことなのでしょうか。

 鏡を見た時には自分の表面的な姿形や動作しか見えません。自分自身の内面の状態を鏡で見ることはできません。腰の高さが高いか低いか、膝は曲っているか、左右の傾き具合はどうかとか、その程度の表面的な身体の形態しか見えません。

コ2 むしろ自分の中に目が向かなくなるわけでしょうか?

 自分自身を見ていくには、やはりその目安が自分の中にあるので、鏡の中の格好や様子に気を取られていてはナカナカ自分の身体の状態には注目が向きません。

コ2 その目安を見つけるのが最初は、大変ですね。

 そこが難しいからこそ韓氏意拳では、そこに焦点を当て教学を進めています。しかし、その最も難儀に感じられるところは練習中に皆が自然と何かができた時にあり、それが何でもないように感じられるところにあります。何も問題が感じられないところにこそ自然があり、同時に本人が最も無自覚に感じるところがそこでもあります。

コ2 問題は確認できるけど、自然であればある程その時は確認の取りようも無いんですね。ますます大変です(笑)。

 

韓氏意拳とは「味」である

 父に昔に尋ねたことがあります。「お父さん、意拳とは何ですか?」と。父は「それは味である、意拳とは味である」と答えました。

コ2 「味である」? 先生はその答えをどういうふうに理解されたのでしょうか。

 今日の講習会で私が用いた言葉で説明するなら、それは「穴もなく切れ目もない」状態こそが「味」の意味となります。

生命が発現し、生命が表れたらどういう現象が生じるのか?

自然の中で泳いでいる魚を例にとって説明すると、産卵の時期に魚が海から河へと上流し、卵を産み、卵が孵り子が生まれ、子が下流へと渡り、海の中で成長し、再び産卵のために数年後には上流し、卵を産んだ後は世を去ります。道家の中にある教えで「味」とは、その自然に生命が従うということにあります。

また、例えば自分の目を覆い隠すと目の前が何もないかのようになります。その時にも「味」が発生します。古の時代から教えを伝えて来た皆は「味」と表して状態や運動を表現していたと考えられます。

コ2 日本では「味」というと、一人一人の個性を指すことが多いですが、それとは違うわけですね。

 辛味などを例に「味」の具体的な話をする時もあります。たとえば、異なる人が“同じ辛い物”を口に入れても「辛い」と言う人や「別に辛くない」と感じる人もいます。その個々の感覚における感受性の違いも確かに「味」の特徴を表してますね。

これは決まったスタンダードとしての味、標準的な味というものがないことを表してます。ある味覚の研究家が辛味のある食べ物を食べた時に、「これは大した辛味もなく、特にこれは辛くない」と論文を書くと、別の味の専門家が同じものを食べて「ウワー!これは辛すぎて人間には食べられない!」と異なる経験を論文にし記述します。その場合、どっちが正しいでしょうか?

その時どの味の専門家の人の話を聞きますか? そこで「名前が知られている先生が正しい」と安易に結論付けられるでしょうか?
そこには、その人の知名度とは何ら関係のない“個々の経験からなる事実”があります。

また、その時点で、その人がどれだけ有名な専門家であろうと、その人がどれだけの知識や情報量を持っていようと、その人は“自身の味覚”といった個人の感覚的な経験から結論を導き出していることになります。

中国でも明代の初期にこういう本が出てます。人というのは社会の中であることに対して、それは泣くべきことなのか、笑うべきことなのか。社会のルールの中で起きたことに対して、このことについて泣くべきか、そのことについて笑うべきか、それを教えてくれている本です。

これは “この味はこうです”と他人が私たちの味覚の基準を決めてくれる問題とも関わってきます。

今の私たちは他人からの情報を基に“これは美味しい”“これは不味い”や“ここは塩味が少なく辛味が多い”などの感覚的な判断を他人に委ねています。そして、自分で考えずに判断を知名度の高いの発言に委ねてしまうと、どっちの名声が高いかといったことに問題にすり替わってしまいます。

今の社会の中では、すでに自分で自分のことが感覚的に分からなくなっている人が多く、自分が感じていることを纏めて考えることでさえ出来なくなってきています。現代社会に生きる私たちは、その様になっています。

コ2 たしかに、今の社会の中で自分が感じていることを自分自身の思考で纏めることの難しさは感じます。そうした難しさがある現代社会の中で、韓氏意拳は “自分にとっての自然、自然な感覚” を求めるための拳学として世に問うているわけですね。そうした自然を求める修行の先にあるものは、自然であるが故に最終的には一人一流派になっていくものなのでしょうか?

 私は常々、

韓氏意拳是毎个人自己的拳 = 韓氏意拳とは一人一人、自ら己の拳である

と教えています。拳学にしろ、武術にしろ誰でも自分が行っていることについて語ることはできます。それは個々の経験による是非の判断となるので間違いではありません。ただし、それだけでは自分の拳学、武術が独り善がりになっているのか、核心や本質へ向かっているのかは分かりません。

そこで改めて拳学、武術における教学が為す役割の大切さを見直す必要があります。武術や拳において人の同種同士としての生理的条件が殆んど互いに同じなのに、私の細胞だけが特殊で韓氏意拳に向いていたり、私の父や王向斎の細胞だけが特別に意拳に向いていることなど有り得るでしょうか?
また、個々の感覚に個体差があるなかでも、他と「味」の感じが全く同じになることなど可能でしょうか? それと同じです。

自分が感じたことの経験から学び、語り、行動を起こしつつも、私たちは常に先人や古人の経験から「味」となる核心や本質を学んでいます。その様にして拳学や武術の教えは代々一人一人の経験を通じて我々の代まで遺されて来ました。その「味」が分かる者は分かるし、その「味」が分からない人は別の味を探しに行くでしょう。

ですから、ある個人やある流派が核心に近づいているかどうかとは別に武術、拳学の流派はどんどん増えていきます。そこで本当に“一人”の一流派まで辿り着ければ「味」となる核心へとその人は向かいます。また、同じ条件や価値観をもっている人は同じように感じ、見て取り、同じ「味」を求めてそこに集うでしょう。これは人間社会の中で文化が形成され行く現象でもあります。

韓先生は 講習会では一人一人の手を取り“状態”を体感させていた。(2016年4月23日撮影)

 

コ2 先ほどの「味」、つまり個人ではなく、連綿とつながる自然の本質として「味」が基準にあり、正しく稽古ができていれば誰であろうともそこへ行き着くということですね。

 古い仏教などで派、とても不思議な文化現象があります。それは、古い文化の中での教えで “何も喋ってはいけない” と言った教えです。仏は「不立文字」ということを言い遺しました。その「不立文字」についても万巻の書にその教えの意味や解釈が書かれています。実は「辛い、辛い、辛い!」「だから今はそれどころでなく喋れない!」それが本当の「不立文字」です(笑)。

それは半分冗談ですが、仏教の「不立文字」について仏は語れないと言っています。核心については文字を立てられないと仏が言ったにも関わらず後世はそれでさえ万巻の書で其のことを述べようとしました。その仏の教えを一番多く書物に遺したのが中国です。中国には賢く頭の聡明な人が多いのかも知れません(笑)。また、どうして喋ってはいけないのか、喋れないのかについても、万巻の書があります。

「不立文字」とは老師が何か質問をされたが、トイレに行きたい時に質問されるとトイレにでさえ行けなくなる。そういうものなのです。「不立文字」というのは、本当はトイレに行きたくて、喋らないんじゃなくて、喋れない……これも冗談ですから、仏教界の方々を敵に回すので余り本気にしないでください(笑)。

コ2 「韓先生、その通りです」というお坊さんが一人ぐらいいるといいですね(笑)。たしかに禅や仏教では「不立文字」と言いつつも経本や先人の教えを遺した書物が大変多いですね(笑)。

 

理想の「拳」とは「自然から生じる」

 今日は冗談なども交えて本質的な話しや核心に迫る話しをさせてもらいましたが「今の現実社会が迫って来るなかでも自分は自分自身の理想の中に生きる」私はそういったタイプの人間です。

コ2 それは御一緒させていただいて体感として伝わって来るものがありました。その「理想」についてですが、先生ご自身にとっての「理想の拳」とはどういうものでしょうか?

 拳しかり、スポーツや体育しかり、自然本能から生じる運動が一番すばらしいです。

コ2 やはりそこに戻るんですね。

 それはとても簡単なことです。自分の本能、生命、存在に対する理解が深まることが自分の自信となり、自分の中にある勇敢さ、勇気というものを示してくれます。それがいざという時には実際にやってみれる勇気になり、思い止まれる勇気にもなります。拳の攻防においては相手にやられず、そして相手をやってしまわないことへも繋がります。それが一番勇気ある拳ではないでしょうか。

コ2 拳学、武術における人間性の意味や、人として拳を修めることの意味を改めて実感しました。謝謝、本日はありがとうございました。大変勉強になりました。

 今日の話しは、中国で有名な『紅楼夢』という小説がありますが、それと同じく口語小説です。それは、一種のフィクションです。言ってみれば『ドン・キホーテ』と同じように理想と現実の相克を思うままに話しただけです、私の話したことは(笑)。

コ2 今日のお話しを伺っていて、それでこそ韓競辰老師が伝える意拳の理念に合っている気がします。

 そうですね。限られた時間の中で楽しく時を過ごし、好きな話ができたら一番いいですね(笑)。

コ2 本日はお忙しいところありがとうございました。

(終了)

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–Profile–

国際韓氏意拳総会会長 韓氏意拳創始人 韓競辰導師
韓星橋先師の四男で、きわめて明晰な拳学理論と、卓越した実力の持ち主。現在韓家に伝わる意拳の指導に力を注ぎ、意拳の更なる進歩発展のために努められている。
国際韓氏意拳総会会長。(日本韓氏意拳学会 Web Siteより)

Web site 日本韓氏意拳学会