コ2【kotsu】特別インタビュー  “武の人”松田隆智先生を偲んで、初期弟子・須藤正裕氏に聞く(前編)

| コ2【kotsu】編集部

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2013年7月に松田隆智先生が亡くなられて今年で3年。中国武術を日本に広めたパイオニアとしての存在感はもちろん、生涯を通じて武術を追求したその姿勢は、弟子をはじめ多くのファンのあいだで没後なお語り継がれている。

そこでコ2【kotsu】では、松田先生の初期弟子のお一人であり、現在は役者として活躍しながらも、いまも武術の稽古を続けておられる須藤正裕氏にお話を伺った。

コ2【kotsu】特別インタビュー

 “武の人”松田隆智先生を偲んで、
初期弟子・須藤正裕氏に聞く(前編)

語り須藤正裕
取材・構成コ2【kotsu】編集部

 

新装増補版 謎の拳法を求めて

 

浪人時代に知った、松田隆智先生の名前

コ2編集部(以下、コ2) 須藤さんは高校時代にイギリスに留学して、その際に自分の日本人としてのアイデンティティのあり方に気が付いたのが、武術に目覚める切っ掛けだそうですね。

須藤 そうだね。高校2年生のときに40日間イギリスに英語留学してね。そのときにヨーロッパから来ている人達に対して「自分は日本人である」という意識が強くなって、「日本人として何が誇りなんだろう?」と思ってね。

コ2 もともと武術、武道に興味があったのでしょうか?

須藤 いや、そのときはまだ興味はなかった。スポーツはそれなりのレベルでやっていたけれど武道というのは意識していなかったね。中学は陸上で、高校はバスケットの強い学校だったからそこそこしごかれたな。

コ2 いまは役者としてご活躍中ですが、その頃から目指していたのでしょうか?

須藤 それもなかったんだよ。うちは家業でジャム会社をやっていたので、「それを継ぐものだ」というのがあったから。具体的に武術について、目覚めたのは高校三年生の時にブルース・リーの「燃えよドラゴン」を観てからだね。

コ2 ああ、やっぱりそこなんですね。

須藤 まあそうだね(笑)。それで当時まず習えたのが松濤館の空手だったんだよ。たまたま中学の後輩が道場に通っていたのもあって。

コ2 空手はどうでしたか?

須藤 元々バスケットボールをやっていたから、フットワークが良くて組手も最初からけっこうできた。当時は浪人生だから、「拓大に来い!」と先生に随分誘われたね(笑)。

コ2 スカウトですか(笑)。では空手の稽古をしながら中国拳法の勉強もしていた感じでしょうか?

須藤 通信教育から本まで、当時手に入れられる中国拳法の情報については、ほぼ全部手に入れていたんじゃないかな。漫画雑誌の裏の広告に載っているような怪しいものまで持っていたよ(笑)。

コ2 松田先生の名前を最初に知ったのは、なんだったのでしょう?

須藤 多分『少林拳』(『少林拳入門』産報社刊)だったと思う。小さい冊子でね、その後に『謎の拳法を求めて』だったんじゃないかな。

コ2 年表で見ると『少林拳入門』が1973年で『謎の拳』は1975年発行ですね。

須藤 ああ、ちょうど浪人時代だからそうだったんだな。

コ2 漫画もやっぱり読まれていたのでしょうか?

須藤 読んでたよ。あの頃は『男組』(少年サンデーに掲載された漫画。1974年より79年まで連載され松田先生が武術監修を務めた)や『空手バカ一代』(週刊少年マガジン 1971年より77年まで連載)もあったから。一般的なブームとしてはやっぱり『空手バカ一代』でしょう。

コ2 そうしたなかで極真には興味はなかった?

須藤 いや、もともとがイギリスでデカい外人に囲まれて目覚めたアイデンティティからだから、日本で多少身体が大きくても、体力勝負の土俵では「敵わないな」というのが最初からあったんだよ。だから「相手が誰でも通用するものを学ぼう」ということで中国拳法だった。そこで松田先生の本を読むと「三年かかっても良師を選べ」とか「発勁」とかあったわけで、「これをやらなければ!」と、「これならデカい外国人が相手でも倒せるだろう」となったわけだ。

コ2 最初からそういった発想があったわけですか。

須藤 あとは根が天邪鬼なんで、皆が「いい」という方向に敢えて行かないところがあって(笑)。まあそれは役者としてのいまでもそうで、観ている人がどう思おうと、自分の好きな方向に進んできているよね。だからいまも中国にいるんだろうな。結構のめり込むタイプで、一旦そこに入っちゃうと、人にウケようと、ウケまいと関係ないところにいっちゃうから。普通では面白くないというのがあるんだろうね。

 

探し当てた松田先生との出会い

コ2 本格的に中国武術の学習を始めるのは、明治大学に入学してからになるわけでしょうか。

須藤 うん、まあでも若かったから、結構遊んでもいた(笑)。入学当初はスキーの同好会に入ったりして、段々と中国拳法に入れ込んでいった感じだね。

コ2 その当時訪ねた先生はどんな方になるのでしょう?

須藤 最初は蘇東成先生だったと思う。その頃は川越で教えてらしたので通ったよ。ただ当時は松田先生の影響が強くて、松田先生は南派否定でしょ?(笑)。だから最初から「南派は駄目だ」という思い込みがあって、教えてもらいながらも「やっぱり松田先生に習いたいな」と思っていたね。

コ2 やっぱり実際に会うまでに時間が掛かっているんですね。

須藤 そりゃなかなか会えなかった。ただこちらは『男組』とかで八極拳や陳家太極拳、蟷螂拳とかへの幻想が広がっているからね(笑)。

コ2 (笑)

須藤 やっぱり「分からないが故の浪漫」だよね。そういう意味ではいまの人は可哀想だと思うよ。未だに外人が持っている忍者への浪漫と同じだったのかもしれないね。

コ2 松田先生に会うまでも、やはり三年くらい掛かっているのでしょうか?

須藤 いや、そんなに掛かっていないよ。大学一年の時に会えて、二年の夏に台湾の武壇に行ったと思う。

コ2 どうやって会ったんですか?

須藤 それは執念で色んなところから手を回したよ(笑)。とにかく調べられる限り調べたね。

コ2 当時はもう出版社に聞いても教えてくれない頃ですね。

須藤 教えてくれなかった。色んな人に当たったんだけど最終的には高橋賢先生のご紹介でお会いできた。とにかく書いている本に出てくる人に片っ端から当たる感じだったな。桜美林大学で中国語の翻訳なんかで当時松田先生を手伝っていた人を見つけて、手紙を書いて会ってもらったこともあった。そういうことをしているうちに、松田先生の方にもこっちが探していることが伝わったんだろうね。

コ2 初めてお会いした時はどんな感じでしたか?

須藤 どこかの体育館で先生の本で習い覚えた陳式(太極拳)をやって見せて。本には「この本を読めばできる」と書いてあったけどできないよね(笑)。

コ2 (笑)初対面の印象はどんな感じでしたか?

須藤 苦労したから「やったー! 探した当てた」というのはあったね(笑)。「これでこの先生がやっている拳法を直接学べる道ができた」と思ったから嬉しかった。

コ2 それで入門となったわけですか?

須藤 いや、その時は「俺は教えていないし、いまは教える気がない。台湾の武壇に行っている人もいるから君も行ってみたらいいんじゃないか」と、それで人を紹介されて台湾に行ったんだよ。

 

台湾・武壇での修業

コ2 いきなり台湾だったんですか。

須藤 そう。松田先生自身も、武壇というよりもその頃は蘇昱彰先生に個人的に習っている感じだったんじゃないかな。もう松田先生が台湾に行ってもう何年か経っていた頃で、日本人の学生がアルバイトをして中国拳法を習いに来るというのが武壇の方でも根付いてきた頃だったね。

『新装改訂版 謎の拳法を求めて』の出版を記念して、松田先生ファンが集まった席に須藤さんが登場! 武壇の門人証を見せてくれた。

 

コ2 松田先生が拓いた道ができていたのですね。武壇では誰に教わったのでしょう?

須藤 黄先生という人で弾腿と査拳の二路を教わった。あとは基本で、本当に初歩の初歩から教わった。

コ2 では台湾の武壇で習いながら松田先生にも学ぶような感じだったのでしょうか?

須藤 そうだね。段々と松田先生も教えはじめて、祐天寺の住区センターの小さな体育館で教えてもらったね。その頃は少林拳とかを教わった気がする。

コ2 八極拳は?

須藤 八極拳は相当後にならないと教えなかった気がするな。その後で大陸に行き始めると翻子拳とかが入ってきたね。

 

徐紀先生を追ってサンフランシスコへ

コ2 その後はどうされたのですか?

須藤 その後は徐紀先生だね。ただその頃丁度、アメリカに行ってしまって、松田先生はなんとか徐紀先生の新架式(陳氏太極拳)を習いたかったので徐紀先生に相談したところ、「(アメリカへ)習いに来るんだったら何人かで来なさい」ということで、自分たちに「おまえら行かないか?」と声が掛かったわけだよ。

コ2 どんな人達で行ったのでしょうか?

須藤 自分と飯塚さんと末吉さんと松田先生の四人だね。

コ2 当時お幾つだったのでしょう?

須藤 大学の三年だから22歳の頃だったと思う。

コ2 もう明治大学に中国武術研究会を作った後ですね。

須藤 そうだね。いまでもあるのかな? あんまり覚えてないんだよ(笑)。早稲田(早稲田大学中国武術研究会)にもあって、そっちにも教えに行ったりしていたから。

コ2 サンフランシスコにはどのくらい行かれたのですか?

須藤 40日くらいじゃなかったかな? 徐紀先生と松田先生が直接やり取りをして色々決めて、もう少し人を集めたかったみたいだけど、期間が長いからそんなに人も集まらなくて、結局四人で行った。その頃は徐紀先生もアメリカに移ったばっかりで、向こうで普通の仕事をしていたよ。

コ2 四人で共同生活をしていたわけですか?

須藤 そう。安いホテルで、シャワールームは共同だったな。英語ができるのが自分しかいなかったんだけど、完璧に会話ができるわけじゃなかったから、冷や汗かきかきで。ホテルの交渉からレンタカーの手配までして、平日は2〜3日おきに徐紀先生のガレージで、土・日はサンフランシスコ市内の公園で教わったんだよ。公園は町中のと郊外ので二カ所だった。

 

コ2 徐紀先生とのコミュニケーションはどうしていたんですか?

須藤 自分は英語だね。徐紀先生もまだ向こうに行ったばかりで上手くはなかったけど話は通じたよ。松田先生は筆談を交えながらだったね。

コ2 松田先生が中国語を喋っているのを見ましたか?

須藤 見たよ。本当に片言だったから筆談を交えてだったね。中国語は発音が大事だから、相当発音をやらないと通じる中国語にはならないよ。(コ2注:須藤氏は中国で役者として活動しているので当然ペラペラです)

コ2 稽古は四人だけですか?

須藤 平日はそうだけど土・日の公園は向こうの生徒がいた。日系人の男女二人がいて、女の子の方がちょっと自分に気がある感じでマズかった(笑)。

コ2 (笑)。40日間一緒にいてトラブルとかはなかったのでしょうか?

須藤 そりゃたまには「クソ!」と思うこともあったと思うけど、言葉の面では頼りにされていたしね。

コ2 徐紀先生に教わるとき以外はどうしていたんですか?

須藤 みんなで練習していたよ。

コ2 向こうでは主に何を習ったのですか?

須藤 自分は査拳の三路を習ったのと蟷螂拳を習った。皆別々のものを習ったんだよ。松田先生は新架式太極拳で、他の人はそれぞれ違うものを習っていた。

コ2 サンフランシスコで練習三昧ですか。

須藤 いや、最後の何日間は「折角来たんだから」ということで、ロサンジェルスに行って、ディズニーランドとユニバーサルスタジオに行ったよ(笑)。確か中国人がやっている旅行社に連絡して、お互い訛りのある英語に冷や汗をかきながらチケットを予約して、飛行機に乗って行った。

コ2 松田先生がディズニーランドですか(笑)。

須藤 ユニバーサルスタジオは大人でも楽しめるんだけど、ディズニーランドに男ばかりじゃな(笑)。松田先生も入ってそれに気が付いたのか「じゃあ、○時にここで会おう。それまで自由行動だ」って、どこかに行っちゃった(笑)。

コ2 (笑)

須藤 あとは松田先生が「拳銃を撃ちたい」と言ったので、向こうで日本人が経営している業者に来てもらって射撃場に行ったよ(笑)。その時に「前にも河原で撃ったことがある」って言っていた(笑)。

コ2 (笑)そういうお話はよく出たんですか?

須藤 時々ね(笑)。

(前編 了)

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–Profile–

須藤正裕(Masahiro Sudou
1956年12月17日生まれ。東京都出身。 本名同じ。明治大学在学中、松田隆智先生に師事、明治大学中国武術研究会を作り、NHKの「こちら600情報部」で蟷螂拳を披露している。卒業後、武道専門誌「空手道」「武術」の編集者を経て俳優にスカウトされる。以後、映画、テレビドラマと様々な作品で活躍、現在は中国のドラマや映画でも活躍中。武術は作家・今野敏氏が主宰する今野塾で沖縄首里手を学ぶ一方、小用茂夫氏が主宰する刀禅でも学んでいる。