コ2【kotsu】特別インタビュー 韓競辰導師に訊く「韓氏意拳という自然回帰」 前編

| コ2【kotsu】編集部

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今年も韓氏意拳創始人である韓競辰導師の来日講習会が開催される。そこでコ2【kotsu】では、昨年来日した際に行った韓導師へのインタビューを前後編の二回に渡りご紹介する。

前編の今回は韓氏意拳がもとめる”状態”について伺ってみた。

コ2【kotsu】特別インタビュー

2017来日講習会記念企画
韓競辰導師に訊く「韓氏意拳という自然回帰」

 「状態とは何か?」(前編)

インタビュアー・文コ2【kotsu】編集部
取材・写真協力日本韓氏意拳学会
監修光岡英稔

 

“状態”とはなにか?

コ2【kotsu】編集部(以下、コ2) 本日は講座を拝見させて頂きありがとうございました。相変わらずのパワーに圧倒されました。今回の講座を拝見して、改めて「状態」というものが、韓氏意拳の中で核心的な部分だということがよくわかりました。

韓競辰導師
講座中はほとんど休むことなく精力的に指導する韓競辰導師。

 

そこでお伺いしたいのは、先生ご自身は「状態」といものを、どういうイメージで捉えているのでしょうか?  例えば「身体のこの辺りで感じている」ということはあるのでしょうか。

韓競辰導師(以下、韓)状態をよく現代の中国武術で言われるような「内気」とか「内功」というようなものと混ぜて考えてはいけません。これは伝統的な言葉を使うなら「形意合一」と言われていることです。また現代の伝統中国武術で言われる「内勁」というようなものとも違います。

私たちは完備した“一つの生命体”であり、それを医学的に言うならば、私たち自身の体が一つの機構、働きです。頭、四肢、気管色々な内臓、神経、血管……と、それぞれを部分的に分けて身体を物質的なパーツとして考えてしまいがちですが、本当は私たちの身体はパーツとして分けられないということです。

例えば伝統的な用語を使ったとしても「神=(shen、シェン)」と言われている部分だけを練るというようなことはできないませんし、形(xing)だけを練るということもできません。また、それを後で結合させたり組み合わせることもできません。

私たちの生まれながら完備されている生命には「勁(jing、ジィン)」も「神(shen、シェン)」も全部備わっています。ですから、一般的に今の内家拳や外家拳で言うような内なる「勁」とか「功」とか、そういうものと“状態”は一緒の話しではありません。

コ2 ではもっと全体的な意味で、先生のなかで「状態」が「ある」「ない」ということについて、何か違いの分かるポイントがあるのでしょうか?

 まず状態がある時は全身が参加していること、全体が参加し整体していることです。身体の感じがバラバラに分離していないということです。今日も色々な形(xing、シン)を通じて状態へ注目する練習しましたが、後で状態と形の二つを合一させるという発想は其処にはありません。
今の伝統的な中国武術では、よく言うこの「合一」を組み合わせのように考えてしまう人もいますが、それは間違った捉え方です。私が「形意合一」を語る時には、形と意の二つのことの組み合わせる話をしている訳ではないのです。

コ2 そもそも身体は生まれながらにして完全体であるということでしょうか?

 もともと「合一」というのは、伝統的には「もう分けられない」という意味なんです。

コ2 站樁(たんとう)の状態というのは、もう既に合一している生まれながらの完全な「状態」を指していると言う理解でよろしいでしょうか。

 対対(そう、そう)。そこがその生まれながら完備されている完全な個体生命の始まりの部分です。一番最初がそこからです。

 

自然であるか、ないかが大事

コ2 今日は午前中は形体訓練で、最後は拳法まで見せていただきました。これは私のイメージなのですが、まず站樁という下部構造があり、それを維持したまま、形体訓練や技撃、拳法へと進むように思えたのですが?

 そういう分け方は間違いです。それも韓氏意拳の言うところの自然本来の姿ではありません。韓氏意拳は部分的なことを段階的に積み重ね上達するような体系ではなく、体系のどの段階でも一つに到達すれば全てに到達するようになっています。だからこそ、この「状態の問題」をいつも提起しています。站樁を通じて「状態の問題」を解決すれば、後の全てが変わり、自身に対する新たな理解へと行きつきます。

コ2 なるほど。もう少し質問と話しをさせて頂きますと、私の理解では站樁で経験した「状態」を捉え、今日の場合は五行拳にある5方向の動作を通じて動きのエッセンスを捉えて行く、というようなイメージを持ったんです。

 そういう風に考えてもいいと思いますね。

韓競辰導師
講座では一人一人の手を取る機会を必ず設けて指導されていた。

 

コ2 なぜそう思ったかと言いますと、自然な状態というのはコントロールができない状態なので、ちょうど今日の講座で先生に手を抑えていただいた時に、私がパッと考えることなく反応したのは、まさに「自然な状態」で、私の生理反応だったと思います。このコントロールが難しい生理的な反応が出来る「状態」を韓氏意拳では維持して、自分である程度のコントロールして、方向性や動きのエッセンスに置き換えていくのではないか、と。自然な「状態」を失わないまま、自分の任意の意思の下にコントロールしていく過程が韓氏意拳の稽古なのではないかと感じてお伺いしています。

 まずはコントロールするとか、コントロールできる出来ない、反応する、しない、とい言ったこととはちょっと違います。私たちは良し悪し是非正誤を見極める手段を一つしか持っていません。

それは「自然に行われたか」「自然でなかったか」のいずれかだけです。私が教え伝えることには、その二つ見分け方しかないのです。

コ2 今日の後半で見せていただいた崩拳の稽古では、ある程度そこには形と言える決まりごとがあったように思います。歩法にしても、右足を“くの字”に出すというような指導がありましたが、そうした部分を拝見して、からやはり最低限の決まりやコントロールがあるように思えたのですが。

 それも少し違います。それは身体に元から備わっている動きの要求なんです。自然な運動というのは、私に言わせれば「現象」にすぎないんです

私の研究によると、そういう動きや行為は自然な現象として発生しているだけです。私がそこで求めているのは「自然本来の姿であること」と、皆には“それを探求しなさい”と言っているだけです。その「自然本来の姿」から様々な動きが生じ、様々な変化をして行きます。これは例えば、こちらの通訳の方が今どういう姿をしていて、どういった格好で通訳しているのかと同じことなんです。70過ぎの老人であるとか、大学の先生であるとか、メガネをかけているとか、頭が白髪で真っ白になっているとか、これは私がこの方の本来ある姿をいろんな方面から表現しているだけです。その時に何か加えたり、修飾したりすることはありませんが、様々な解釈や表現ができます。

コ2 今回ご紹介された歩法というものは「状態」の、典型的な動きの表れを紹介しているということでしょうか?

 対(そう)。私が皆に求めていることは「自然本来の運動へ注目してください」ということです。ですから「拳術、武術における動きはどうあるべきだ」というような言い方はしません。

韓競辰導師

 

本来の姿へ戻るための道

コ2 崩拳の打ち方を説明されたのは、先生としてはどういう意図で説明をされているのでしょうか。

 自然本来の姿が先ずあり、その本来の自然から生じる一つの運動が「こういう形になっている」ということを指摘しているだけです。

例えば、私たちが物を取る動きをする時はどうでしょうか? なにか物を取る時には、自然と手と身体と、あるいは体と歩といった動きが全て自然と同時に起き、為されます。自然と問題なく動きは発生しています。これらは訓練して出てくる運動ではないんです。

コ2 今日やった崩拳や歩法は「こうやる」「この動き方」といった訓練ではない?

 対(そう)。そういう意味で私たち韓氏意拳の訓練は一般的な伝統武術や現代の武術で言われている訓練とは異なり、私たちが本来の姿へ戻る道を歩んでる訳です。この道しかない、姿形や格好、動き方に制約されることのない道です。
ですから、不自然に感じたことがあればなるべく私はそれを指摘します。不自然な要素を一つずつ見つけることで、本来の純粋な自然へと一歩近づくことができます。体のどこかが痒ければ、その時にそこへ手が行く、それが自然な行為です。感覚と行為は自然のなかでは同時に発生しています。身体の何処かが“痒い”と感じた時に、どういった掻き方で、どれぐらいの時間、どのくらいの力で掻こうか? と考えてから行動することは自然な行為ではありません。どのように掻くかは、その痒さによって決まることで誰しもが考えて行う必要はありません。つまり本来は痒いところを掻く時の動作の強さや速度は主観的、客観的に考えてから自分が決めるものではないということです。

コ2 その場に応じて自然発生的に生まれるものであるということでしょうか?

 そう。だから「自然産生」ということが韓氏意拳の一つのキーワードになります。自然界の猿がリンゴを見つけてサッと取る、この動きです。この時、“どういう風に取ろうか”と考えるお猿さんはいません。

コ2 多くの人は崩拳なり歩法なりを見た時、「これはこういういう形、動き方、速さのものだから、自分もそういう風に動くべきである」と考えるのですが、そうではないということですね。

 そう、その通りです。

 

自然運動と技能的な運動

 自然本来の運動と今の社会の主流となっている技能的/技術的な運動に違いがあることはよくわかります。また技能的/技術的な運動をする場合には、その技能や技術を常に高めていかなければならないという要求も生じます。
しかし、私が言う自然本来の運動のなかで見極めるところは一つだけ。それは「自然に行ったか、そうでないか」それだけなんです。それを古い教えでは不二法門(フジホウモン)と言います。そこに潜れる法の門は二つとない「自然に行ったか、そうでないか」くぐれる門は一つだけ、それだけです。韓氏意拳の教学のなかで、他の技能的・技術的な運動と自然本来の動きを見間違えることがあるかもしれませんが、私は「手の形格好がこうあるべきだ」「身体をどう動かすべきだ」と言っている訳ではなのです

自然のなかではそういう動きの探求の仕方はありません。ですからくり返しになりますが、私が見ているのは自然に行っているかどうかだけです。実際になにかを拳で打つ場合にどういう風に打とうと、自然にやっていれば全く問題ないです。逆に不自然であれば、どういう動きでも私は「NO」違いますと言います。

「技能的・技術的にこの動作や形はどう使うのか?」「どの様な運動や動き方で身体を動かせばいいのか?」などの問いの立て方は今の社会、武術界、スポーツや現代体育の中では一般的で普通とされている見方、考え方です。私たちはそういう物事の捉え方をする社会の中で生まれ育ってますので、そういう社会的な要求に合った、技能的・技術的な運動で物事を見ることにも慣れてしまっています。

無自覚にも知らないうちに物理的な説明や技術的な説明ができる「技能的な運動であるか?」かという捉え方で運動を見てしまい、その説明や技術を中心に訓練してしまいます。そのこと自体は別に間違っていませんし、そういう見方が社会の主流になっていることも確かです。ですので私は別にそれが悪いとは言いません。しかし、生まれながらの自然本来の運動を追求しようとした時に、その様な捉え方では間違った問いと答えが導き出されます。

コ2 教傳のなかでは、動きというものはある程度規定されていて、「こういう風にやるんだよ」というのがあると思うのですが、実際はその動作をそのまま行うことが目的ではないということでしょうか?

 自然のなかにおいて“その一時”の繰り返しはあり得ないということです。一見どれだけ同じように見える行為でも、それは既に独立した一回の行為として経験されていて“その一時”に為された行為を繰り返し行うことは実際にはあり得ません。
(前編 了)

 

韓氏意拳2007講座情報
日本韓氏意拳学会HPより

韓競辰導師、来日講習会情報

来る4月28日(金)から5月7日(日)、東京と岡山で、国際韓氏意拳総会会長・韓氏意拳創始人である韓競辰導師による講習会が行われることが決定、現在申し込み受付を行っている。会員向けの講座が中心だが、一般公開している講座もあるので、韓氏意拳に興味をお持ちの方は、この機会に実際に韓競辰導師に触れてみては?

詳しくはこちらへ。

 

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–Profile–

国際韓氏意拳総会会長 韓氏意拳創始人 韓競辰導師
韓星橋先師の四男で、きわめて明晰な拳学理論と、卓越した実力の持ち主。現在韓家に伝わる意拳の指導に力を注ぎ、意拳の更なる進歩発展のために努められている。
国際韓氏意拳総会会長。(日本韓氏意拳学会 Web Siteより)

Web site 日本韓氏意拳学会