“武蔵兵法”の読み方 第四回 「指先(さしせん)とはなにか」

| 高無宝良

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武術愛好家はもちろん、大凡日本人、いや世界的にも有名な剣豪といえば“宮本武蔵”だろう。

16歳で初めての決闘を始め、60予の戦いにすべて勝利し、二刀流の遣い手であるとともに、『五輪書』と題する兵法録を書き遺した希有の剣豪として名高い。その姿は吉川英治氏の小説『宮本武蔵』をはじめ様々なメディアで描かれ、今日では井上雄彦氏の描く人気コミック『バカボンド』へと続いている。しかし、改めて武蔵が求め、修めた武術がなんであったのかについては、意外なほどその真像は知られていない。そこで本連載では、自ら二天一流をはじめ、様々な武術を学ぶ高無宝良氏に、武蔵の兵法について記して頂いた。

“武蔵兵法”の読み方

第四回 「指先(さしせん)とはなにか」

文●高無宝良

 

無構えだけど、突いている

読者の皆様、長らくお待たせいたしました。
「武蔵兵法の読み方」第四回を始めさせていただきたいと思います。

前回の最後に、二天一流剣術(山東派)の一刀の形第一本目、「指先(さしせん)」という形について少し述べました。

今回は、それについて少し補足する形でお話をさせていただきます。

この形は一刀の形第一本目だけあり、二天一流の兵法観が凝縮されたたいへん結晶度の高いものです。ただそれだけに抽象的ともいえ、解釈の幅がかなり広いということも言えます。

実際、各派で伝承されている先生方の動きを見てみても、それぞれかなり違った動き(≒意識≒原理)で演じられていることが看てとれるのです。

この形で指定されている動き自体はとても単純なもので、先も書きましたが、仕太刀(主に技を遣う側。反対に受け役になる側は打太刀と呼ばれます)が右片手にだらりと提げた「無構(むがまえ)」からするすると歩み寄り、打太刀の切込みを僅かにハス(斜め)に躱すようしながら、喉元を突く。たったそれだけです。

この動きをするのに、多くの伝承者の先生方は、体術的な感覚で敵の斬撃をぎりぎりまで引きつけてから身を捻って躱し、大きく腰を落とし半身で開いた体勢で片手突きを入れる、といったニュアンスでされているように見えます。

ですがこの動きについてわたしの師、稲村清先生は、

  • 大きく身を躱す。
  • 腰を落とす。
  • 強い半身になる。

といった点すべてを不可であると指導されていました。加えていえば、そういった動きのために伴いやすい、

  • 間合いの直前で歩みを止めること。
  • 動き出しのタメを作ること。
  • 動き終わりにキメを作ること。

といった諸件も僻事として戒められていました。そして稲村先生の指示によれば、

  • 動きはタメなく、するすると歩み入る。
  • 敵の斬撃を躱さずに、真っ直ぐ突く。
  • 突く太刀は、道を聞かれた時に指し示すように、切先から無心で差し上げる。

といった動作で行うべし、とされていたのです。

しかし通常の観念では、このように身を捻らない動きでは、こちらの真っ向を斬り下ろそうとする打太刀の斬撃を躱すことはできません。

その点について当時稲村先生にいろいろな角度から訪ねてみても、いまいち取り合ってはもらえず、どうもお茶を濁されたようなお返事の上、とにかく「こうやるんだ」と言われるのみで、言葉での納得いく回答は得られませんでした。そういう時の稲村先生の昔気質な教示法については前回少し記した通りです。

疑問の中、ある時稲村先生がぼそりと、この形が始まる時の仕太刀の立姿勢の時の要件について「無搆でだらっとしてても、もう突いてる」と仰いました。そして実際に無搆の体勢から僅かに切先を打太刀の喉元の方へ指向させるような動きを見せてくれたのです。

その時なんとなく、その体や太刀の動きだけでなく、稲村先生の意識としての指向性も目に見えたように感じられました。

そこで初めて、打太刀として向かい合って稲村先生に技を遣ってもらったときに感じたちょっとした違和感のようなものと、横から客観的に見た「無構だけどもう突いてる」意識との繋がりが見えてきたのです。

これはさらに数年後、高齢の稲村先生がもう指導されなくなってから後のことですが、やはり武蔵の書き遺したと言われる「兵法三十五箇条」の第十条「いとかねと云事」に通ずる部分なのではないかと気付きました。

以下に岩波文庫版「五輪書」に付載されたその項を引用してみましょう。

十、いとかねと云事
常に糸かねを心に持べし。相手の心に、いとを付て見れば、強き処、弱き処、直き処、ゆがむ所、はる所、たるむ所、我心をかねにして、すぐにして、いとを引あて見れば、人の心能しるる物也。其かねにて、円きにも、角なるにも、長きをも、短きをも、ゆがみたるをも、直なるをも、能知るべき也。工夫すべし。

糸かねとは、木材や壁面など凹凸のある物の長さを測るための大工道具、今で言うメジャーのようなものと考えればよいでしょう。

地之巻でもこまごまと大工の要領について語っている武蔵ですから、こういったところで建築用の道具の名前が出てくることに不思議はありません。

その上でこの条項をざっくりと大意で訳すならば、

常に糸かねをイメージしなさい。相手の心にメジャーを付けてみれば、強いところや弱いところ、真っ直ぐなところや歪んだところ、張っているところや弛んでいるところなどが、自分の心を基準にして真っ直ぐに引き当てることで良くわかります。そのメジャーをもって、丸いものも角ばったものも、長いものも短いものも、歪んでいるものも真っ直ぐなものも、よく識別するといいでしょう。工夫してみてください。

といった感じになるでしょうか。

この、「相手の心に糸を付け、我が心を基準として相手のさまざまな状態を知る」という表現はとても重要なことを示唆しています。

この箇条が武蔵またはその兵法の伝承者のいずれかによる真筆ならば、武蔵の兵法にはこうした線状のイメージを彼我の空間上に思い描き、それによって距離や相手の諸条件を体感的に知覚するという技法が含まれていた、と考えられるからです。

興味のある方は、実際に身近な人に協力してもらって、ちょっとした実験をしてみてください。

まず誰かと対面して立って、相手にゆっくり前後ステップしてもらいます。自分はそのときに、相手の動きに応じて距離を変えないようにステップ移動します。

まずは何も考えずにそれだけをやってみて、次に、さきの「糸かね」のイメージをお互いの胸か腹同士の間に付け渡してやってみてください。

おそらくは、彼我の間の空間がより体感的に感じられ、目や頭で理解するより前に皮膚感覚レベルで対応した動きができるような感じがするのではないでしょうか。

実はこれ、兵法三十五箇条の記述にもあるように、慣れてくると同時に一筋だけでなく幾筋も糸を付けることができますし、距離だけでなく歪みや力みなどもなんとなくの感触を通して知覚できるようになってきます。

このように視覚的イメージを空間把握や触覚などに転用する技法は、ある種の共感覚的な要素を利用したものとも言えるかもしれませんし、もっと単純に解釈すれば、すなわち目測のための仮標を細かく連続的に定めているのだとも考えられるかと思います。

それはともかく、実はここに示されている内的な技法こそ、稲村先生の実技である一刀形「指先」での働きと共通するものではないかというのがわたしの気づきでした

どういうことかというと、話は単純です。

立合いの始まりの時点よりあらかじめ、「指先」の時に引っさげた仕太刀の無構の切先から、さきの糸かねのイメージ線を最終的な目標である敵の喉元へ付けてしまうと、どうでしょう。大きく分けて以下の二つの現象が現れてくると思います。

1.自身の感覚、動作の変化

①拍子と間合の知覚の変化

間合の感覚の鋭敏さ、そして確実さというのはある時点において人ごとにそれぞれですが、何もイメージしないときに比べて糸かねを付けるイメージを持ったとき、多くの人はその能力が増します。

何もイメージが無いと動き出すタイミングや刀を上げていく起動に迷いが生じてしまうのですが、予め切先から目標に糸かねを付けておくと、ある意味で予定調和のごとく、均整のとれた動きができるのです。

また後に別項で詳述したいと思いますが、総じて通常の人の間合感覚は剣術、とくに二天一流において要求される基準に比して「遅く」て「近い」です。素手の武術や格闘技をされている人でも、この点はそう違いありません。武器術で必要な間合い感覚はそれよりももっと広いものです。ところが立合いの時点から糸かねを付けることによって、誰でも易しく、適正な「早く」「遠い」間合感覚を持つことができるようになります。

ここでいう「早い」はあくまでタイミング=拍子のことであり、スピード(動きの速度)ではないことに注意してください

武蔵は五輪書水乃巻の一項、「太刀の道といふ事」にて「太刀をはやく振らんとするによつて、太刀の道さかいてふりがたし。太刀はふりよき程に静かにふる心也。(抜粋。太刀を速く振ろうとすることによって太刀の道が適正ではなくなり、振りがたくなる。太刀は振りやすいように静かに振る感じで)」と述べています。

その言に則れば、実戦時の機微はいろいろあるにしても、原理を集約表明したこの形においてはスピードを出そうとするのではなく、タイミングの感覚を磨いた方が趣旨に適っているでしょう。

ここで挙げたような知覚能力の変化ももちろん、普段から剣術や同種の稽古事を研鑽されてすでにその感覚を体得されている方にとっては、いま新たに糸かねのイメージを用いたとしてもさほど明らかでは無いかもしれません。ですが、未経験者や初心者の方であればこのイメージを描いてみるだけで、かなり明確に違いが感じられるだろうと思います。

指導を行う著者(高無宝良氏)。
指導を行う著者。

 

②手を上げる動作の変化

次に、自身の太刀を持った手を上げていく動作も変化します。

それは糸かねを目標に付けにいく以前に、まず右片手に無造作に引っさげた太刀の切先を意識した時点から始まります。

実のところ、未練達な普通の人が木刀なり太刀なりを手に持ってだらりと引っさげてみても、肩や肘や手などに不必要な力が入ってしまっていることが多いものです。ところが引っさげた状態で切先を意識すると、そこへ連なる構造物のすべての重みが順々に、中間で渋滞することなく感じられるようになります

このように力むでもなくまた太刀を取り落とすでもなく引っさげて立つとき、太刀を持つために主に参加する手・腕・肩周辺とそれぞれの関節部は自然にやや円弧を描いて下方に垂れます。

この無構の状態から前に歩み出つつ太刀を上げて行くのですが、稲村先生の教えではこの時、切先もやはりその始点と終点との間を直線に進むのではなく、「刀の反りに沿うように」ややふっくらと弧を描きながら上がっていくのです。

これはなぜでしょうか。

さきに述べた「重みを受けて下垂している」状態を可能な限り持続したまま、目標に向かい自然に切先が上がっていく動きを実際に試していくと、自ずと得るところがあります。

下垂した太刀とそれに連なる部分全体が、通常手を挙げる動作のように肩の吊り上げや肘の屈曲動作に依らず、むしろさらに下垂していく重みを増しつつ、しかし切先は目標に向けて上昇しようしてみてください。

その時太刀の切先は下垂する働きと目標への仮構の軌道との摩擦によって、あたかもカテナリー曲線(懸垂曲線)を描くようにせり上がっていくはずです。この軌道が、ひいては刀の反りと、それに連なる自然に垂らされた腕の内湾とに沿って延長された曲線とも重なるのです。

この動作はまた、稲村先生による「太刀の上げ方は道を聞かれて指し示すごとく自然に」という指示に適うものになっていると思います。

肘や肩など、普通主役として使ってしまいやすい部分に頼らず、全体の繋がりと重力とに則って太刀を運行させること、これが武蔵のいう「太刀をはやく振らんとするによつて、太刀の道さかいてふりがたし。太刀はふりよき程に静かにふる心也」という記述にも合致するものだといえます。

このように動作するメリットとはなんでしょうか?

たとえば腕を上げる動作なら、通常人の運動様式によるそれは、とかく動きの予兆が見えやすいものです。肩の力み、体軸の傾斜、表情の変化などがその代表的な要因です。

二天一流ではこれらの因子を排除していくことで、敵者に動きを察知されて予防反応される確率をなるべく下げていこうと考えるのです。

それによって敵は反応が遅れたまま、いつのまにか重要な間合を抑えられていくことになります。またこの予兆がない動き出しということ自体が迷い・不安といった心理現象を呼び、事項に挙げる敵者への束縛を生んでいきます。

2.応接者に対する働き、影響の変化

今度は、糸かねのイメージを持った動作は対峙する敵にとってどのような働きがあるか、挙げてみましょう。

まず敵の立場になってみれば、相手が糸かねを切先よりこちらの眉間ないし喉元に付けているような意識を持っていると、立合った時点から、何か差付けられているような、あるいは威圧感のようなものを感じるかもしれません

このような感覚が生じるかどうかには個人差があり、どれだけ敏感かによりますが、一方がそうしたイメージを持っている場合、対者はそれを多少なりとも感じるのが普通です。

そしてこの類の意識の指向のようなものを受け、感じた時、多くの人はその影響を受けて自分で自分の身を固めてしまうものです。

緊張が自縄自縛を招き、視界は狭まり、間合感覚は狂い始め、身体の動きは強張って制限されます。

この感覚を理解していただくためには、たとえば電車の中などでいきなり知らない人数人から睨まれ、こちらを指さされたらどういう感じになるか、想像してみてください。

たいていの人は緊張し、大なり小なり身が強張ると思います。これに似た心理現象が、糸かねのイメージを持ってこちらに付けられた敵の意識の影響です。

しかしこの時、仕太刀は切先からの糸かねだけをイメージするのではありません。もしそうであれば、打太刀はその一点だけに意識が向き、それに対応するための備えも変化していき、この技の前提となる条件から逸れていってしまうでしょう。

ポイントは、この時の仕太刀が糸かねのイメージを持ちつつも、あくまでそれより根幹的である天地軸(人中路)の感覚を優位に保ち、加えて相手を両脇からごく軽く挟み込むような意識なども併用するという点にあります

この状態の敵が歩んでくると、こちらはなんとも言えない真綿で包まれるような圧迫感を感じつつも、どこか茫漠として狙いが絞り辛い感じも受けます。

それに錯乱させられて、仕方がなく真っ向正面を打ちに行こうとしますが、仕太刀はそれよりも早く空間を制するようにゆったりと太刀を指し述べ、こちらの喉元に突きつけてしまう。

これが一刀形一本目「指先」の大方の理合です

以上で書いたように、二天一流では空間を制し、間合と拍子を掌握し、敵を迷いと自縄自縛の闇に封じ込めてしまうような術理が重視されています。このことが、二天一流の形の演武を観る人に「能の如き幽玄さ」と言われるようなある種独特の雰囲気を生む理由と考えてもいいでしょう。

とくにこの一本目「指先」では、その他の要素(接触した後の体の強さ、器械的技法など)を極力捨象し、空間掌握的な面のみを強調していると考えられます。

そして一本目の形にこのような理合を採用しているということは、二天一流ではこれらの要素を最重要視しているということは確信をもっていえるわけです。
ではこういった要素を意識して行うだけで、すぐさまこれらの効用だけが得られ、攻防において優位に立てるのでしょうか。

残念ながら、武術で想定している現場というのは無数の要素が絡み合う厳しい競合状態ですから、そんなに単純にいくわけではありません。
ここに述べたような要素自体は有用でも、安易にそれを実施しようとすることにはそれなりのリスクがあります。

ということは、そういったリスクをうまく緩和しながら運用するための前提条件があるということです。そしてまた、その条件を身に備えるための身体論と稽古法もなくてはなりません。

次回「武蔵兵法を読む」では、その点について述べていきたいと思います。

(第四回 了)

●ビデオ情報

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高無宝良 宮本武蔵の二刀流 ~実技とその変遷~
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–Profile–

 

高無宝良師範

高無宝良(Takara Takanashi
幼少期より各種格闘技、武術を学ぶ。
平成9年より古流剣術、居合術、柔術などを学習。
平成11年より数年間二天一流稲村清師範に師事。
平成21年より古武道学舎清風会を発足する。
平成22年 小用茂夫師範のもと刀禅を学習。
平成23年 新陰流兵法(疋田派)山本篤師範より同流指導の許しを得る。
平成27年  ユーラシア大陸横断旅行を機に会の名称を古武術是風会に改称。 現在まで、日本国内のほか米国・イタリア・ドイツ・スイス・ロシア・セルビア・ルーマニア・モンゴル・香港・台湾等諸外国にて指導。

Mail:zefukai.mail@gmail.com

平成29年5月20日、DVD「高無宝良 宮本武蔵の二刀流 ~実技とその変遷~」を発表。

高無宝良 宮本武蔵の二刀流 ~実技とその変遷~
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