やさしい韓氏意拳入門  第七回 「歩法篇~跟歩(こんぽ)、三角歩(さんかくほ)」

| 駒井雅和

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武道、武術好きなら一度は名前を聞いたことがある、韓氏意拳。興味はあるものの、どこか敷居の高さを感じて二の足を踏んでいる方も多いのではないでしょうか? そこでここでは駒井雅和教練にお願いして、できるだけ分かりやすく韓氏意拳について書いて頂きました。第七日目の今回は、「歩法篇~跟歩(こんぽ)、三角歩(さんかくほ)」です。

やさしい韓氏意拳入門

第七回 「歩法篇~跟歩(こんぽ)、三角歩(さんかくほ)」

駒井雅和

 

跟歩(こんぽ)と三角歩(さんかくほ)

みなさんごきげんいかがでしょうか!
お待たせしました。
今回はいよいよ歩法です。
ついに動きますよ

跟歩、三角歩、そして三角歩の間接用法の紹介、さらには構想では文字にすることの困難さが予想され過ぎていっそ飛ばして書こうかと思っていたのですが、書いているうちに、書かないで説明する方が困難だと諦めて、「歩法とはフットワークではない」と題して“重心転換”について書いてみました。
予想通り困難であったと告白しておきます。

コラムでは武術の「時間と汗」の問題に韓競辰師の論文を引用しながら、私の現在の思いを書き連ねました。

「フットワークじゃないって、韓氏意拳の歩法って一体全体ナニ?」

とうまく乗ってくれた方は、しばらくのお付き合いを願います。

 

跟歩(こんぽ・ごんぶー)

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1 技撃歩で立つ。手はお臍のあたり(按式)。

 

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2 前の足が出る。

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3 後ろの足がついてくる。前の足は入れ替えずに、しばらく続け適度に行ったあと前の足を変えて反対側も行う。

 

跟歩はすべての“歩法の母”と言っていいほど歩の中では特に重要です。
それは跟の意味に秘めることなく秘められています。

跟には「つき従う、あとについて行く」というような意味があります。
つまり歩は足の左右が独立せず、どちらが出ても必ずもう片方も付いてくることによって移動が成立するので、それを基本とするということです。

この話を聞いたり、読んだりすると混乱する方がいるでしょうがそれも当然です。
それは、この歩の説明が私たちが普通に行っている“歩き方”について解説しているだけで、特別なことではないからです。

ただ、実際に普通に歩くときは、右、左、右と前に出る足が交互に入れ替わるので、“足が付いてくる”という自覚はあまりないので、より一層分からなくなるのでしょう。

 

跟歩が分からない人にお薦めの邁歩(マイホ・マイブー)

さて、「跟歩があまりにも普通であるために、その性質が分かりにくい」と書きました。
赤を指して、「これが赤だ」と誰かに説明しても、その赤色の特徴を伝えるのは容易ではありません。
ですので、ここでは「そうでないモノ」を紹介します。
それが邁歩です。

邁歩は跟歩とは真逆で右、左と一歩、一歩分けて歩く様を表しています。
行進の練習で「イチ(右)、ニ(左)、イチ(右)、ニ(左)……」と歩いているところを想像していただくと分かりやすいかもしれません。
わざと不自然で意識的な歩である邁歩を行い感覚の違いを体験することで、自然で普通の歩である跟歩が分かりやすくなるのです。
普通が分からなくなった時は、“普通でないモノ”を行って対比して観察してみてると違いが明らかになるので、悩んだときは試してみてください。

 

三角歩(さんかくほ・さんじゃおぶー)

二番目の歩は三角歩です。※マイ歩は練習しなければいけない歩ではないので、数には入れません。跟歩の次で二番目です。
私が韓氏意拳以前に触れたことのある流派では“三角”という名前がつく歩は大体において、相手の攻撃を自分の位置を変えることで躱す歩として教えられることが多く見受けられました。
しかし韓氏意拳の歩は、位置関係の変化によって相手の攻撃を躱すのではなく、跟歩同様に相手に(やや斜めになりつつも)直線的に進入する形を用います。
跟歩との大きな違いは、身法による左右の転換にあります。
左右の転換によって身体に斜面・傾斜が生まれます。
賢明なる読者の皆様においては、「あれだろ?」というところかも知れませんが、この連載は「やさしい韓氏意拳」です。
この傾斜がどのように生きていくのかは、次号以降で詳しく解説予定です。
ですので、よろしければ次号配信までに練習してみてください。

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1 技撃歩で立ち、手は腰まで下ろす(按式)から始める。そこから右手を左へ持っていく(左右試力の感じ)。

 

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2 右手が動き始めるのに合わせて、左足が動き出し、右足を追い越して前へ。(写真は通り過ぎようとしているところ。実際には止まらずに一気に行うように)

 

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3 左足が前に出て入れ替わり、最後右足が跟歩のように一歩ついてくる。※左右行う

 

三角歩間接用法

1 技撃歩で立つ
2 手はお臍のあたり(按式)

ここまでは通常の三角歩と変わらずです。
違う点は、

3 前の足が一歩踏み出す
4 手が左(右)へ
5 後ろの足から出て、元々前だった足が付いてくる

※歩法にはこの他に小車歩、赶歩がありますが、今号では歩の基本となる跟歩、そして三角歩の紹介に焦点を当て、残り二つはまた別の機会に紹介したいと思います。

三角歩での手の運びについて

前号「技撃・大式椿」で紹介した技撃椿~順式から逆式~の変化を按式の高さで行うと考えていただいて間違いないです。※未読の方はチェック願います。
三角歩間接用法関節用法のポイントは、まず“一歩目”にあります。
この一歩目は相手に向かって進行していく一歩となります。
ですので、動きを覚えたり、形を確認する為にゆっくり行う時以外は、「イチ、ニ」と区切ったり、間をおいたりせず、全体を一つの過程とし流れるように行ってください。

韓競辰師はこの事を、
「まるで水に浮かんだ軽石を踏んで、進んでいくような」と例えて解説してくださいます。

つまり、
「軽石なのでグッと踏んでしまうと沈んでしまうから、体重を掛けずにサッと進んでいくように」

という意味ですね。
そして、相手に進行していくということは、言うまでもなくより危険な地帯に踏み込んでいくということです。
安全地帯を進んでいるわけでないので、繰り返しになりますが自分に“状態”があるかどうかが当然重要です。

歩要過人

これは歩法の重要性を教えてくれる金言です。
直訳的意味としては「人を通過するには歩が必要」となります。
この教えのポイントは、

「距離を詰めるのは手の仕事ではなく、歩の仕事である」

ということにあります。
人を目の前にすると、近づくのが怖いのと、気が焦るのが混ざって、つい手で打ちたくなりますが、それでは有効な打撃とならないだけでなく、距離が適切ではないため躱される可能性も高くなります。他にも「中門(相手の両足の間)を踏む」などという言葉がありますが、これも深く踏み込んでいくことの重要性を示しています。

 

後ろの足について

大きな相手を目の前にすると、「より強い力を出さねば」と、つい力感のある運動を選びたくなるのが人の常ですが、前回の配信でも書いたように、地面を押すことによって発生する力は、体を固定し動かなくなる働きを得るのと同時に、私の体重という大きな力を自らが背負うことになるしろものです。
瞬間的に運動状態とは真逆の状態、つまり居着いた状態となります。
相手にこちらの動きを悟らせない、そして居着きのない武術の運動とは外への力の拡散ではなく、更なる“状態の高まり・集まり”によって生まれるのです。

矢印

良い例は外側が状態に入っている感覚があり、運動が始まる瞬間に更に集まります。
ただしこれは動作についての話ではなく、状態上の変化についての話です。
画像の補足説明をすると、良くない例の矢印は、力を入れ、外側に力を発散することによって生み出す運動では、動作は起こっていますが、“運動状態が拡散している”ことを示しています。良い例は二重に書いた矢印の外側は、平常の拡散から運動状態の密度が増したことを表しています。内側の矢印は、運動を生み出す瞬間、状態の密度が更に増したことを示しています。

良くない例の話は拡散動作についての話も含みますが、良い例は純粋に状態のみの話です。動作と状態を混同しないように注意しましょう。ここは「混ぜるな危険!」です。

状態の高まりについて、空気を状態と仮定して、パンパンに空気が詰まったバレーボールを例にとって説明してみましょう。

良くない例はバレーボールの表面を切りつけるようなものです。切れ目から空気が漏れてボールは萎んでしまい、もう弾むことはありませんつまり“状態”はなくなりってしまいます。

良い例のほうはと言いますと、パンパンに空気の入ったバレーボールをさらに圧縮して、より小さなハンドボールやテニスボール位まで小さくしたものだとイメージしてください。実際に可能かどうか分かりませんが、中の空気量は変わりませんが小さくなることでよりパンパンになりよく跳ねそう、力を出せる感じがしますよね。

この、いつでも弾めそうな力=状態が常にあることが大事なのです。ここまで説明してきた形体訓練や站椿などと同様に、動きの根本には“状態”があり、その“状態”の密度をさらに高めることで歩みとなるわけです。それが私たちが行っている故意あるいは無意識に地面を蹴る移動とは根本的な違いなのです。

バレーボールは、あくまでも一つの例えに過ぎませんが、状態を理解する一つの助けになればと思います。

歩法は、いままでの訓練法に比べて動作も多く、大きく、複雑になってきますので、つい動作に注目してしまいがちなところですが、そうした変化は同時多発的に常に起きています。その一つ一つを追い始めると、「あちらが変化すれば、関係してこちらも同時に変化する、それに関連して、また他も同時に変化する……」と書いても訳が分からなくなるほど要素が多く、動作自体も複雑になるため、それをコントロールしようとすればさらに複雑さを増し、動作がギクシャクしてしまいます。

 

コントロールを手放す

ギクシャクすると“もっと巧くコントロールしなければいけない!!”と感じますが、実はここ、一度そのコントロールを手放さなければいけない場面です。

わたし自身、練習していて「ただ行う」ことほど難しいことはないのではないかと感じていますので、教室で「ハイ、ここは気合で乗り切って、ただやってみましょう!」ということにある種の罪悪感を感じてしまう部分でもあります。
ですので、一つだけ「ただ行う」方法をお伝えします。

歩に迷った時は、

「脚が生えて、動くことに感謝しながら、ただ歩いてみてください」
と言っています。もう本当に歩くだけでいいです。
そう言われても考えてしまうものですが、失恋の痛みと同じで時間が解決してくれます(えっ?)。

歩くことは、我々にとってかなり習慣化されている行為ですので、安心して「歩くという行為を考えなくなるまで」とにかく歩き続けてください。
考えているかどうかも考えなくなった時が、

“考えていない歩”です。

そのモードに入れたら、次は観察してみてください。
自分がどのように歩いている時、どのような感じがするのか?。
それが、歩法の要点を掴む最高の教材となります。
そこまできたら、今度はもう一度歩法の型に戻って行ってみてください。
また迷ったら、何度でもこれを繰り返してみるとよいでしょう。
何気なく歩いている中での観察をするというこの練習ともいえない練習は、「歩くという行い」に対する干渉と、「歩いている際の感覚」を観察することが別物であることを理解する助けとなってくれるでしょう。

 

韓氏意拳の歩法はフットワークではない!

英語圏の方の言語感覚は分からないところがありますが、もし私が英語で韓氏意拳を解説する機会があるとすれば、歩法についてどのような言語を充てるのか迷うところです。
直訳的なとらえた方になってしまいますがフットワークを“脚の仕事・活動”として翻訳してしまうと、韓氏意拳の歩法についての理解が浅くなる心配があります。

というのも歩法において脚が仕事をしないというわけではないのですが、それを言うのならば、站椿においてもフット(脚)はワークしていますし、もちろんハンドもワークしてます。
つまりどのような行為であっても全身が参加しないことなどないのです。
全身が協調して均衡を保っているとも言えます。
この全身が均衡を保っている状態にある変化が訪れると“歩”つまり運動が生まれるのです。
そしてこの歩法が脚の仕事ではないことを理解し、掴み味わう練習が“重心転換”です。
ただこれが、見えない重心を扱っているだけに、文章に書きずらく、画像・動画でも分かりにくい練習となっています。
ここは残念ながら実際に触れてお伝えする過程が重要となるところです。
とはいえ、「以下口伝」では寂しいので、解説だけでもしておきましょう。

「平歩重心転換」
1 脚を肩幅より少し広めに開いて、立ちます。
2 手を肩の高さ程度に左右へ広げます
3 左右に重心を転換します。
「大式椿重心転換(前後)」
1 大式椿で立ちます。(前号をチェック)
2 後ろ向かって重心転換を行います。
1 大式椿で立ちます。
2 前に向かって重心転換を行います。

【要領】実際に動こうとするけど脚は上げない感じ。
この練習では、脚を動かすことで歩いているのではなく、実際には重心が転換し、それに体が付いてくることによって歩という運動が生まれていることを体験し認識していきます。

部分に分けて歩の運動を分析・解析すると、「歩とは脚で行っている」、つまりフットワークだと考えてしまいますが、全身運動状態での脚の役割は体をまとめること(つまり地面とは反対側へ動く)であり、結果として体を支えることの二点です。

この働きを観察したい場合も、ただ歩いてみてください。
ただ歩いている際も、おそらく計測器で計れば地面に対する反作用もあり、歩く時は地面を蹴っているという結果が出ることでしょう。ですが、それは故意にそうしているわけでは無く、改めて歩行中の自分の感じに注目してみると、脚はただ上がっているだけであること、まるで地面に対して浮いているような感覚を味わうことでしょう。

「いやいや!!どれだけ注目しても私にはそんな感覚は無い!」と言う方がいましたら
センスがないわけでもなく、注目や努力が足りないのではなく、恐らくわたしの解説が間違っているわけでもなく、考えすぎてそもそもあるべき“状態”が足りない可能性が高いです。

“状態”については、この連載で度々、いやそれについてしか書いていない位書いてあります。どうかお手数ではありますが、この連載の最初から読み直して再チェックしてみてください。

 

脚の運用

ここまで、韓氏意拳の歩法について書いてきましたが、運用面において、脚から力を伝えて力を出す方法を否定するものではありません。それもまた力です。
ただ韓氏意拳の運用においてはそれらを採用しないと言うだけのことです。
なぜならば韓氏意拳は韓競辰老師が「一を以って貫く、終始一貫穿つ」と言うように、一つのことを貫きます。
ここで言う一つのこととはやはり“状態”で、突き詰めて言えば韓氏意拳とは「“状態”を常に保つことのみ」とも言えるものです。
重ねて強調しますが、力を入れる習慣からシフトして、状態を保つことを習慣にするのが韓氏意拳です。
力を足や肩などから動作を伴って手に伝えてしまうとどうしても“状態”の拡散が起こります。
そして速い動作では力がなく、力を入れた動作では運動の開始が遅くなってしまう問題が生じます。
ですが“状態”の価値は、力、速さ、敏捷性が一つ一つではなく、状態の変化によって一まとめに高まるところにあります。
それを韓競辰老師は中国語で

「一歩到位」
(一歩で到る、つまり一つで何でもといった意味、なにかのCMで「匂いも汚れもこれ一本」というような表現がありましたが、中国語で表すとしたら、一歩到位になるかもしれません。)

と表しました。

もちろん韓氏意拳でも、手法、身法、そして今回の歩法と運動の解説をする際に分けて解説をすることはありますし、今回の歩法篇のように、それ単独で行う段階もありますが、それらはあくまで理解・練習の為の方便みたいなもので、それ単独で用いられることはありません。

ただあえて三つに分けて語るなとすれば、運用面においては歩法が一番重要です。
自らの体重を相手に与えるのが韓氏意拳の打撃です。
実際には打撃というより安定した状態での衝突と言ったほうがイメージに近いかもしれません。

それを行うに、仮に手が一定の位置から動かなくても、身が左右に変わることがなくても、歩があれば可能となるので歩法が重要と言われています。

 

【武術コラム】

「体の上手い使い方」が出来れば努力をしないでも、コツさえわかれば上手く行く!というのが昨今の流行りのようです。

なんでも効率よくやりたい。
無駄な努力は避けたい。

と考えるのは人の性かもしれません。
わたしもそう思います。

私の師である韓競辰老師も以前書かれた論文の中で

長い間、多くの武術を学ぶ人々は、「練習時間と練習回数」を武術のレベルの基準とし、そしてもっと時間をかければ、自分の武術の技術はさらに熟練し、上達すると考えているようだ。

(中略)

上述の「常識」によって寒い冬でも、厳しい夏場でも毎日一つ一つの動作を繰り返して練習し、考えずに出来るほどまでやっているが、実際の応用となると練習した動作を出すことが出来ない。あるいは予想した効果が全くでないということが多い。

それはなぜだろうか。この「常識」が間違っていたのだろうか。そうではない、この「常識」そのものは間違ってはいない。しかしこの「常識」を武術練習の基準とすることは間違いだったのである。
(中略)

極端に言うと、間違った練習を繰り返せば、間違った武術の達人になってしまうだろうということだ。この道理が分かれば、武術の練習をする際に上述の「常識」への考え方に気をつけなければならないことが分かるだろう。種は石の中に蒔くか土の中に蒔くかによって結果は全く違ってくるだろう。私は素晴らしい目標よりもまずは先に合理的な練習形式を選ぶことが一番重要だと考えている。

最後に、武術に希望を持っている友人たちに一言申し上げたい。それは「慎重に」ということである。

韓氏意拳HP 韓競辰師 拳学論文 「時間+汗=功夫?」より抜粋
※最下段に「時間+汗=功夫?」が掲載されています。

と述べらています。

私自身は、「何が間違った武術であるのかは、やってみなければ分からないのであるから、なにか縁のあったものから始めてみるしかないのでは?」という考えですが、師が何故このようなことを述べなければならなかったのかは分かります。

ですがあえてご購読頂いている方々に、特に韓氏意拳をすでに学んでいる、これから学ぼうと思っているという方にわたしから申し上げたいのは、「汗をかかずに手に入る物などない」ということです。

良縁あって合理性のある武術に出会っているにも関わらず、汗もかかないで、「どのくらい練習したかは関係ない中身が重要だ!」などと能書き垂れて練習をちょっとしかしないようでは、なにも手にすることなく時間だけが過ぎていくことでしょう。

確かに「習い始めてからの時間・年数≠功夫」ではないようです。
じゃあ「頑張ろう!」と実際に練習を始める段階になると、普段運動から遠ざかっている人は、練習が億劫に感じ、その辛さに根を上げそうになるでしょう。誰しもがそうです。

「わたしは運動が苦手」
「わたしはもう歳だから」

というような言葉が浮かんでくるかもしれません。
ここでわたしから質問です。

「それは体の声でしょうか?」
「それともあなたの声でしょうか?」

最近の練習の中で私が勝手にへこたれそうになった時、わたし自身の体は、

「わたしはまだまだ出来るよ」
「あなたとわたしの能力はそんなもんじゃないよ」

と言っているように思えてなりません。

「だからあなたの体も言っているはずだ!」

とは論の展開としては強引に過るかと思いますが、ちょっと
あなたも“体の声”に耳を傾けてみてはいかがでしょうか。

コラムの最後に、わたしは高らかに、

「時間+汗=功夫!!」

宣言をするものであります!!
一回の講習で教われば身に付くようなコツもよいですが、骨身に染み込む位のコツコツした“努力”の先にあるものこそを真のコツと呼ぼうではありませんか。

※注意事項 体が“辛い”というのはただの運動不足なあなたの声の可能性が高いですが、体が“痛い”というのはちゃんと聞いて練習をストップしてあげなければいけませんよ。そこは“慎重に”です。夏場は(お互いに)熱中症などに気をつけましょう。

 

今回の結び

途中にも書きましたが、今回の歩法あたりの話になってきますと、動作の話であったり、感覚の話であったり、状態の話であったりが複雑に交差します。

このあたりも韓氏意拳が「むずかしい」と言われてしまう原因の一つだと思われますが、最終的には自ら汗をかいて毎日練習して、よい例を体験し、わるい例との差を認識するというプロセスを得ない限り、机上の空論のように聞こえることでしょう。

しかし、もし韓氏意拳に興味があるのなら、コラムにも書いたことですが、あれは「酸っぱい武道だ」と言う前に、もうちょっと、あとちょっと練習しましょう!!

さあ、この連載も残すは2回、次号の拳式篇で、また一度手法と身法の融合を試み、最終号予定の拳法(五行拳)篇で手法、身法、歩法が融合することになります。

いよいよ終わりが見えてきました。
次号でお会いしましょう!!
それまでごきげんよう!!

 

(第七回 了)

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–Profile–

駒井雅和(Masakazu Komai
こまい・まさかず/本名同じ。1975年、東京都府中市に生まれる。現在も東京在住。2003年より訪中を繰り返し韓競辰師の指導を受け、2005年入室弟子となる。現在は中級教練となり東京を中心に各地で講習活動を行っている。2014年K-STUDIOカンフーパンツをインターネット起業。2017年日本摔跤協会を発足。座右の銘は「為せば成る」。

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駒井雅和プロデュース
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