コ2【kotsu】レポート J・ハリファックス博士講演会「コンパッションにより広がる マインドフルネスの可能性」

| コ2【kotsu】編集部

 

マインドフルネスを社会化する

もう一つ印象に残ったのは、「共感性がなければ生きている意味がない」という博士の言葉です。

実は私自身、瞑想をする(あまり熱心ではないのですが)なかで、気づくことやそこで感じる境地はあるものの、実際の社会の中で生かし切れないもどかしさを感じていたこともあり、個人の体験であるマインドフルネスをどうやって社会システムに入れるのかについては興味がありました。博士はそれをこの言葉に現れているように、マインドフルネスとコンパッションを組合わせることで、個人が体験したことを共有できる枠組み「共感できる場」をシステム的に設定し、より社会的な広がりにしようとしていると感じました

円滑な社会や組織の基盤には、他者に対する共感性が必要でしょう。そうしたベースメントにマインドフルネスや博士が定義化したコンパッションを据えることで、誰にとっても心地よい空間を作ろうというこの発想は、ある意味で、個人の体験であったマインドフルネスの先にあるアイデアと言え、これまで個人の体験であったマインドフルネスを社会化するための道筋を示したものと言えるでしょう。

また、前野隆司先生との対談で博士は、「社会を変えるためには自分が変わらなければいけないから」と語られていましたが、こうした変化の基本にあるのが個人を起点にしていることに強い共感を覚えました。システムとしてはトップダウン式にアイデアを広げるが、変わるのはあなた自身でなければならない、だからこそ、そこにはそれぞれの人の自立性が尊重され、それをスポイルするようなコンパッションは避けるべきであるということでしょう。

ジョアン・ハリファックス博士
ジョアン・ハリファックス博士と通訳を務めた木蔵シャフェ君子氏。

 

社会化のリスク、ベストよりもベターであること

こう書いていくと手放しで素晴らしいことである、と言っているようですが、禅の側から見た場合、恐らく違和感もあることだと思います。

もちろん私は禅の立場を代弁する者ではありませんが、そもそもマインドフルネス自体が多くの方が指摘しているように、禅が「自分が悟りそのものになる、悟りに没入する」という一元論的な帰結を前提にしているのに対して、マインドフルネスは「自分が悟り(的なもの)を得る」という二元論の世界の中で成立しており根本的に違うものです。

コンパッションにしても根本的な部分、それが「慈愛」や「徳性」と呼ばれるものなのか、仏教で言う「縁起」を織りなす要素なのかは分かりませんが、先に登場した博士が示した定義自体は、「人を思いやる」ということを実行にあたっての、現象的・現実的な注意点であり、その源泉を語ったものではないと思います。恐らくその源泉がなんであるのかは、やはりそれぞれが追求すべきものなのでしょう。

ただそれでもやはり博士のこのアイデアや試みには魅力的で価値があるものだと感じています。このプログラムが今を生きる多くの人に新たな気づきを得るチャンスを広げるもので、ベストではないけれどもベターであり、現実的により多くの人がそれによって救われるとともに、ベターなものに触れることによって、それとはレールは違いますがベストな方向へと向かう機会を与えるものでしょう。

こんな文章を書いていると釈尊ご自身が教化の道を選んだ際はどうだったのだろう? と考えてしまいます。

よく知られているように釈尊は菩提樹の木の下で悟った際に、自分の至った境地を他者に広めるかについて思案(一説には28日間とも言われています)し、「とても人に説明して分かるものではない」と思ったところへ現れた梵天に勧められ、教化を開始したとされています。(いわゆる梵天勧請ですね)

本質的に瞑想修行は個人の世界であり、それを社会に広げることはかなりの距離があるでしょう。

また個人が至る悟りの境地はどこまでいっても個人の体験であり、どんなに言葉を尽くしても余人に分かるものではないでしょう。加えて教化することにより、どうしても教える者と教えられる者との関係や、人が集まる社会化の中で生じるリスク、また人に伝える中で起きる変質のリスクについて、恐らく釈尊は当時既にあった既存の宗教を見ていて承知していたはずです。

それでも教化することを決断したのは、やはり「我々は死すべき定めにある」という道理の上に到達した世界の素晴らしさを他者に伝えることが、悟った者の責任であると感じたからだと思います。あるいは釈尊が個人の体験として誰にも話さず、その姿を現さなければ今日の仏教はなかったでしょう。

また現実の問題として真に悟った人がいても、その人が他者と交わることなく、深山で一生を終えたとすれば、それにどういう意味があるのでしょうか。(ちょっとした禅の公案のようですね)

何かを伝えることが成功すれば、人が集まり社会化するのは当然です。

その中で本質を守ることは、広げるよりずっと困難であり、矛盾した二律背反な関係だと言えるかも知れません。

それを知りつつ釈尊は苦しんでいる人に、道理をもって苦しみのカラクリを明かし、そこから抜け出す方法を示すことを選んだように思います。(このカラクリについて藤田一照先生に語って頂いたのが『生きる稽古 死ぬ稽古』です。ご興味ありましたら是非どうぞ)

願わくばハリファックス博士のこの新しい試みが多くの人を気づかせる機会になることを期待しています。

最後に素晴らしいお話しを聞かせてくれたジョアン・ハリファックス博士、このレポートの掲載を快く許可して頂いた前野隆司先生、そして貴重な機会を与えて頂いた藤田一照先生に感謝致します。

 

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【ジョアン・ハリファックス博士】

Joan Halifax 文化人類学者、禅僧、ハーバード大学名誉研究員、UPAYA禅センター主管。
1970年代から故フランシスコ・ヴァレラ、ダライ=ラマ14世らと協力し、科学者と仏教者との対話プロジェクトを推進し、コロンビア大学、マイアミ大学、ハーバード大学、ジョージタウン医学校他多くの学術研究機関で教鞭をとる。 死にゆく人々への瞑想的なケアをはじめ、災害被災地・刑務所など、極めて困難な現場(VUCAワールド)で支援活動を続ける。「真のコンパッション(慈しみの心)」を啓蒙する、エンゲージドブディズム(行動する仏教)の指導者・実践者。 著書はBeing with Dying: Cultivating Compassion and Fearlessness in the Presence of Death(日本題 「死にゆく人と共にあること:マインドフルネスによる終末期ケア」)など多数。

(以上、AEAREパンフレットより)

 

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