毎年恒例の韓競辰導師の来日講習会がいよいよ今月末から開催される。そこでコ2【kotsu】では、昨年来日した際に行った韓導師へのインタビューを三回に渡りご紹介します。
コ2【kotsu】特別インタビュー
2018来日講習会記念企画
韓競辰導師に訊く「力」と「勁」
第三回(最終回)
インタビュアー・文●コ2【kotsu】編集部
取材・写真協力●日本韓氏意拳学会
監修●光岡英稔導師
真の「勁」の定義は一つしかない
コ2編集部(以下、コ2) 自然が唯一のものであるということは分かりました。ではそれとの繋がりを強くするのが、韓氏意拳の稽古ということでしょうか。
韓競辰導師(以下、韓) 私たちは拳というものを探求しています。それが私たちが自然法則を知り理解するための道です。拳という門を使って私たちは研究しているわけです。そして最終的に自然法則へ辿り着くわけです。そのような訓練の過程を通じて、拳を通じて、私たち一人一人が自然法則を体験し、また身をもって実証することが韓氏意拳の価値だといえます。
コ2 その実証の度合いというのが、ここで最初の質問に戻るのですが、初級、中級という差になるんでしょうか。
韓 とても鋭い質問ですね。とても聡明なご質問です。
まず、自然法則の話からスタートすると、自然法則自体になにが高級でなにが低級ということはもちろんあり得ません。ここで言っている初級とか中級とは、人間が認識している過程の方の問題なのです。過程、プロセスの問題ですね。
光岡英稔導師(以下、光岡) 要は個々の経験、学習、修行のプロセスですね。
韓 自然法則の面からは区別というものは存在しないのですが、私たちが認識していく過程にはやはり差があります。自然という対象を認識していくそのプロセスと深さに差があるということですね。
コ2 それが初級、中級の分け方になっているわけですね。
韓 はい。ここで言っている初級というのは、大体の物事についての理解、概観を得ることです。大体「丸いな」「模様があるな」「葉っぱがあるな」と。あるいはこの机の上に置いてある茶碗をを見たときに「ここの組織はどうなっているか」「この下はどうなってるか」「うまくできているかどうか」「材料は何だろうか」「どういう風にして焼いたものか」と、もう少し深くそれを見ていく過程です。仏教で頓悟(とんご)と言われますが、急に全部を悟るということは実際にはありません。やはり一歩一歩、深く深く見ていくことによって悟りというものが……。
光岡 過程、プロセスの中で起こること。
韓 そう、プロセスの中で起こることですね。
光岡 誰かが初めて一日中瞑想したからといって急に悟りを開くということはないわけです。そこに至るまでのプロセスが大切なこととなります。物語とか、故事では「一瞬で悟りを開いた」などの話しはありますが、実際はあるプロセス、過程を踏まずして悟りを開いたり、本質を知ることはできません。ここは個々の異なる経験による違いもありますが、子供が乳児から幼児へ、そして子供がいずれ思春期を経て大人になるように、必ず皆が辿らなければならない過程、自然なプロセスがあります。
韓 誰でも、あるいは対象が何であっても、それに対する認識を深くするためには、やはり努力してそのプロセスを辿らないといけない。これは客観的な事実でもあります。
コ2 もう一つお伺いしたかったのが、自然というものを見るときに、自分がいて自然を見るとなると、どうしても自然に戻る、つまり「自然になる」というところから遠くなるように思えることです。見る自分と見られる自然という関係がある限りその距離感が埋まらないような気がするのですが。
韓 観察者が私で観察対象が自然という関係である限り距離はあります。特に私たちは全員、現代人ですので自然を観察したときに当然、距離があります。シンプルに言ってしまえば私たちは絶対に対象に到達することはできない。どれだけ近くても距離は必ずあります。ですが、あなた自身は本来自然の中にいるわけです。これは本当のことです。
自分自身も自然の中にいるということがわかったときに、初めてその距離がなくなる。西洋の宗教では「神様は常にあなたと共にいる」と教えています。また、自然の方から我々に距離を取っているわけではありませんから。
コ2 この質問をしたのは、見るという行為が、初級、中級で変わってくるというお話の中で、茶碗のお話の際に「見るという行為が深まる」という言葉があったからです。見る自分と対象がある限り、距離が生じるのではないかと思い、その距離をどうやって埋めるのかお伺いしたかったのです。
韓 これは孔子の教えですが、孔子は「道は人から遠からず。しかし人の為すは道から遠し」と仰っています。「人が道から遠ざかっている」と、あるいは人の為すことは道から遠いということを、孔子も教えていますね。
それは対象の見方というよりも、探求の対象をもっと深く細かく全面的に見ていくという感じで、距離というよりも、深さですね。
また人によっては「自然を観測する」と言ったりもしますが、観測という言い方は正しくありません。観測というのは、目的があって「自然は何であるか、どれぐらいの量なのか」「自然はどれだけ何に使えるのか」という見方です。
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