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数年前から急速に注目を集めた沖縄空手。現在では本土でも沖縄で空手を学んだ先生も数多く活躍するとともに、そこに学ぶ熱心な生徒も集まり、秘密の空手という捉え方から、徐々に地に足の着いたものへと変わりつつある。ここでは、多年に渡り米国で活躍し、瞬撃手の異名を持つ横山師範に、改めて沖縄空手の基本から学び方をご紹介頂く。
瞬撃手が解く、沖縄空手「基本の解明」
第一回
文●横山和正(沖縄小林流研心国際空手道館長)
まだ未知の武道だった空手
私は団塊世代の始りとも言える1958年に神奈川県にて生を受けました。
正しく世態は日本の高度成長期の真っ只中であり、日本中が有り余るエネルギーに満ち溢れた勢いを肌で感じて幼少期を過ごしたものです。そして、それはそのまま、
“男は強くあるべし”
といった日本男児の定義を土台に、戦後の悲惨なダメージから日本復権に努め勤勉、勤労に励む当時の日本の男の信念であったものです。
我々の祖父や父親達のガムシャラな働き働きが功を成し、戦後から急速に今日の近代社会への原型を築きつつ、明るい将来へと導くレールに乗り始めた時代、丁度その様な時期に生を受け、 私の空手人生はこうした時代背景と共に歩み、こうした環境の影響を大きく受けて来たものと言えるでしょう。
私が空手に出会ったのは小学生の頃です。
近所に住む大学生が庭で巻き藁を叩く光景を目にしてから何となく不思議な魅力に取り付かれて、彼に指導を受けた事が始まりでした。
何故道場ではなかったのか? と言えば、当時の空手は現在の様に広く認知されたスポーツや武道ではなく、”野蛮な武術、喧嘩の道具”といった風評が一般的であり、容易に道場を探す事も子供が入門する様なものではなかったのです。そうしたこともあり、十分な空手の稽古ができなかった私は、仕方なく空手と平行して柔道の道場へも通いました。
これは今にして思うと大変ためになりました。何故ならば柔道の様な組み技は相手の力や技を直接体感できるものであり、格闘技を行う上で必要な自力を植え付けるのに非常に優れた体系を持っているからです。
中学に上がると更に様々な道場を行脚し、最終的に自転車で2時間もかかる道場へ入門しました。
散々と方々の道場を見学(とは言っても当時は道場すら見つからない時代)して、一番空手らしさを感じさせる道場へ入門したのですが、当時は子供の部などがあるわけもなく、とにかく容赦ない大人の稽古に参加したこともあり、出血やひどい打ち身は当たり前の荒々しい稽古でした。しかし、そんな中でも”これが空手の稽古なんだ”と痛みを感じる度に稽古の充実感を味わってもいました。
今思い返せば、随分乱暴で効率の悪い稽古だったと思いますが、そうした中でも人間は進歩していくもので、もともと運動神経には自信もあったことから、それなりに腕前も上がり、いつしか大人を相手にしても引けをとらないようになりました。
ところが、高校になるとそれまで学んだ空手に深い疑問を持ち始めました。一応基本も型も組手も人並みにこなせる様になり、自信もついたものの、果たして「これが一生涯を通じて出来るものなのだろうか?」「その強さはキックボクシングとどう違うのであろうか」というものでした。
そんなことを考えているうちに、「どうせ痛い思いをするなら試合で注目されるボクシングや国際スポーツであるアマレスリングの方が良いんじゃなか?」などと年頃の打算も顔を覗かせて、高校ではレスリング部に入部し、夜は空手道場かボクシングジムに通う毎日でした。
しかし、やはり私にはトランクスよりも空手着でした。
結局、私の空手に対する思いは消えずに、大学入試が早く終わったタイミングで、これまで疑問に思っていた空手の実体を解明するべく空手の源泉とも言われる中国武術を学びに台湾に渡ったのです。
台湾で気がついた、沖縄空手の重要性
台湾へは1年前程から各機関に手紙で連絡を取り続け、丁度頃良く返信が届いたのもその頃でした。
それを期に台湾に八歩蟷螂拳の名手・衛笑堂老師を数回訪ねては指導を受け、その中で空手に対する明確な方向性が浮かび上がって来ました。
衛老師の指導は私に漠然ながらもこれまで私が学んで来た空手に必要な図案を提供してくれたものでした。それは簡単に言えば、生死をかけて生き延びてきた武術家の
「型の概念」
「戦いの概念」
というものででした。
私は日本に帰国後、直ちに沖縄空手に視点を合わせて道場探しを開始しました。
これまで本土の空手を学んで来た私は、台湾での衛老師の御指導の中から空手における別の理解を見出したのです。それはこれまで信じていた組手を中心に据えた狭い概念の空手とは全く違う空手の可能性を感じ、それを会得するためには競技の概念を持たない古典の空手を学ぶ必要を感じていました。
それもただ漠然とではなく、沖縄首里手の代表である沖縄小林流の空手に修行を求めたのです。
その頃、東京で沖縄空手の道場を探すのは簡単な事ではなく、結局は沖縄・九州の団体に連絡をつけ、やっとのことで都内で小林流を稽古していたグループに合流し、改めて空手の修行を再開して、黒帯を習得したのを機に沖縄へ渡り念願の仲里周五郎先生の指導を受ける事になったのです。
沖縄での仲里先生のご指導は厳しく、現在言われている様な理論的な説明は一切なく、とにかく”言われた通りに動く”を第一に全力で基本・型・組手をやらされました。
これまでやってきたスポーツも皆苦しく一生懸命こなしてきましたが、これほど気合を入れて自分の限界まで動いたのは初めてであったと言えるでしょう。それは、
「ここまで来て、人生を賭けてそれでも満足出来ないであるならば空手はやめよう」
という自分の選択への意地もあったのでしょう。とにかく、文字通り倒れるまで型を打ちました。それは、強く握った拳の指爪が掌にめり込んだり、サイの取っ手についた滑り止めの紐が擦り切れてしまうほどでした。
特に先生の掛ける号令に体は追いつかず、それまでスピードには自信があった私がどんなに早く動いても満足に動くことはできませんでした。
そうした稽古に最初は体は当然悲鳴を上げ、血尿も出ましたが、それでも必死に続けるうちに、ある日突然にこれまでに味わった事の無い感触を身体内に感じました。それはエネルギーの爆発とでも言うのでしょうか、とにかく自分の突き・蹴り・動作がこれまでとはまったく別次元に発せられている実感があったのです。
気が付くとあれほど早く、とても追いつくことはできないと思っていた先生の号令にもピタリと追いつくことができるようになりました。それは体のギアがそれまでとは違うところに入ったような感覚でした。
組手でも自分より一回り大きな外国人に対して、加減して打った突きでも相手が吹っ飛んだり、または深い痣ができるのです。
そうして夢中で稽古をする中で、当時修行に来ていた米国人空手家から、
「アメリカに来て空手を教えないか?」
と米国に招待され、仲里先生からも、「君はアメリカへ行って空手をやりなさい」という薦めもあり、21歳の時、米国サンフランシスコの地へと渡ったのです。
当時の日本とアメリカの距離は現在とは想像もつかない程遠い距離であり、準備期間にはその緊張感から、「米国で負けないため」と、肝試し代わりに辻斬りのような真似までしながら渡米の日を待ったものです。
実際に米国行ってみると、最初とは随分話が違い、文字通りたった一人で米国に置き去りにされたようなもので、正直途方に暮れました。何度も挫けそうになりましたが、“チクショウ”という意地と、“空手”だけが見知らぬ異国で明日を築く武器でした。
ただ、いくら型を見せても米国では見向きもされませんでした。
当時の米国は既に組手試合をする空手が主流であり、全州各地で毎週トーナメントが行われ、自分の実力を示すのは、そこで勝つこと以外ありませんでした。
私は一日をハンバーガー一個で凌ぎつつ、そうしたトーナメントに参加して、賞金を生活の糧に名前を上げていきました。
私の武器は誰にも負けないスピードで繰り出す突き・蹴りにあり、いつしか「閃光の鷹」「見えない手」そして、「Lightning Flash Hands」(瞬撃手)の空手家として知られ、テキサス州に研心会館を設立、渡米から5年後の1984年には、テキサス州のトーナメントでMVPを受けました。更には伝統空手団体・米国AAUのガルフ地区会長、及び全米オフィスの技術部にも籍を置き、以来沖縄小林流の実践・研究・普及・発表に勤め、現在まで米国で空手の普及をしてきました。
近年でオランダを中心にヨーロッパにも招待され指導を行うようになり、自分なりの沖縄空手理論を伝えています。
沖縄空手、基本の解明
近年、沖縄空手が注目され様々な語句や技法・身体操作が紹介されてきていますが、私はそのどれもがいまだに沖縄空手の持つ特色や用法の一部分であり、部分部分として分解したほんの一コマであると感じています。
沖縄の古典的空手の優れているは、端的に言えば、
基本→型→応用
がシッカリと繋がっているところにあり、その動作の訓練そのものの中から、あたかも奥義が体内に降臨するかの様に会得されるものであることを私は経験しています。
”基本は応用を生み出し、応用は基本によって打ち出される”
のです。
その為には、しっかりとした“当たり前”の稽古を積まなくてはなりません。
「なにを当たり前のことを」
と思われるかもしれませんが、まず前提として、特別なことではなく”当たり前”の稽古こそが、奥深い空手の奥義に繋がっていることを理解しなければ、真の向上はあり得ないというのが私の持論なのです。
そうした見地から私はこの場を通じて”沖縄空手の源泉”である”基本の解明”をあえて紹介してみようと試みる次第です。
本土の空手と沖縄空手の違い
現在は、一口に空手とは言っても非常に様々な流儀のものが存在します。いずれもその基を辿れば琉球=旧沖縄を発祥とした土着の武術にたどり着くことになりますが、現在日本(本土)へ渡った空手と沖縄において継続されている空手では、その活動や稽古法が異なった方向性を持っていると言われています。そこでまず双方の空手の相違点について解説してみましょう。
7歳で本土の空手と出会い、以後台湾での中国武術修行を経て沖縄空手へと進んで行った私には、本土の空手と沖縄の空手は、
「同じであり、また、まったくの別物である」
といった感覚を持っています。
ある意味では沖縄空手は日本本土の空手よりも、むしろ中国武術に近い概念が多く残されているとも言えるでしょう。
私は何かを比較する際に即座にその違いを検証する前に、必ずその類似点を見つけ出す事にしています。
それは、一見関係のなさそうな物事にも必ず類似点があり、それこそが一番大切なキーポイントになり真理の土台になると信じているからです。
そうした見地からこの項の解説を進めてみると。本土空手と沖縄空手が“同じである”という部分は、
同種の基本が伝えられている。
同種の型が伝えられている。
と言う所であり、
“異なった部分”は、
基本の概念が違う
型の概念が違う
と言えるでしょう。
ここでは、まず“異なった部分”の“概念”から見ていきます。
日本で行われている空手の多くは、
“正中線”
“腰の活用”
の様な明確な部位の意識を持つことから始まり、物理的な運動エネルギーを基にした動作や外見的に整理された形(カタチ)を強く説く事が多く、殆どの場合、格闘技的思考から“敵”といった明確な目標を自分の外側に絶えず定めて行う傾向にあります。
一方で沖縄空手はそうした部分の意識より、まず
”全身の動き”
から入ります。
これは、“動作が自然に正中線や身体操作を練り出す”といった逆発想によって自らの身体内における“ヒラメキ”と“体感”を得る所から始められている、と言えるでしょう。
基本や型を行ううえにおいてもあまり細かい注意を与えずに、まずは動きの反復練習から会得し、レベルが上がるに従い始めて細かい注意点を検証して行くものです。
そのため型を打つ(沖縄空手では型を行うことを打つと言います)際にも一定の運動エネルギー(型で重要な腰・頭の位置を一定の高さに保っての移動等)によって生み出される力だけではなく、身体各部位の力や条件反射等を活用して、
如何に身体からの自発的なエネルギーを引き出し、それを外部の環境と調和して行くのか。
という、格闘技として敵を意識する以前に、自分の身体の開発的運動法が多く秘められているということです。
そのため沖縄空手には、本土の空手に無い上下運動や一瞬身体をくねらすような動作もあり、本土の空手に慣れている人間には一見、
“軸のない不安定な動作”
“基本が出来ていない未熟な動作”
として写ることさえあるようです。
しかし、そこには頭のテッペンから足のつま先に至るまで実に様々な運動と、身体の緩急、屈伸、上下運動などの他、自己の身体を如何に有効に活用し動作を最大限に生み出して行くかの原理原則が秘められているのです。
(第一回 了)
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