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introduction現在、数ある総合格闘技(MMA)団体のなかでも、最高峰といえる存在がUFCだ。本国アメリカでは既に競技規模、ビジネス規模ともにボクシングに並ぶ存在と言われている。いや、「すでにボクシングを超えた」という声すらある。2016年のUFCのペイ・パー・ビュー(Pay-Per-View=1回ごとに料金を払って視聴する方式、略称PPV)契約件数では、年末のロンダ・ラウジー復帰戦が110万件だったほか、合計5大会が100万件超でアメリカ・スポーツ界の新記録をたたき出したのだ(*1)。だが、アメリカで隆盛を極めているMMAの歴史を振り返れば、その源には日本がある。大会としてUFCのあり方に大きなヒントを与えたPRIDEはもちろん、MMAという競技自体が日本発であるのはよく知られるところだ。
そこで本連載ではベテラン格闘技ライターであり、昨年4月までWOWOWで放送していた「UFC -究極格闘技-」で10年間解説を務めていた稲垣 收氏に、改めてUFCが如何にしてメジャー・スポーツとして今日の成功を築き上げたのかを語って頂く。
競技の骨組みとなるルール、選手の育成、ランキングはもちろん、大会運営やビジネス展開など、如何にして今日の「UFCが出来上がったのか」、そして「なにが日本とは違ったのか?」を解き明かしていきたい。
*1 これまで1つのスポーツで、PPV契約が100万件を超えた大会が年間最も多かったのはボクシングで、年3回。マイク・タイソン全盛期の1996年と、フロイド・メイウェザーとマニー・パッキャオが全盛期の2011年
世界一の“総合格闘技”大会 UFCとは何か?
The Root of UFC ―― The World Biggest MMA Event
第七回――「初のブラジル大会“ヴァーリ・トゥード”の故郷へ」
著●稲垣 收(フリー・ジャーナリスト)
前回の記事から少し間が開いたので、ここまでのUFC(Ultimate Fighting Championship)の状態を、ざっとおさらいしておこう。
有力上院議員ジョン・マッケイン(後の大統領選でのオバマのライバル)らのバッシングを受け、「野蛮で危険な大会」というレッテルを貼られたUFCは多くの州で大会開催を禁じられ、南部の田舎町でドサ回り興行を続けつつ、少しずつルールを改正し、健全な「スポーツ」として認められようと努力を重ねてきた。
1997年12月には初めての日本大会が開催されて桜庭和志が初参戦、カーウソン・グレイシーの弟子を破って“日本格闘界の救世主”と呼ばれた。初期UFCで活躍したケン・シャムロックの義弟フランク・シャムロックも、この大会でUFCデビューし、レスリング金メダリストに16秒で秒殺一本勝ちして初代UFCライトヘビー級(当時はミドル級と呼ばれた)王者となった。
その後行われたUFC16とUFC17について、前回は書いた。UFC17からノー・ホールズ・バード(No Holds Barred=「何でもあり」、略称NHB)という俗称を改め、ミックスト・マーシャル・アーツ(Mixed Martial Arts=「ミックスした格闘技」→「総合格闘技」、略称MMA)という名称を公式に使うことにした。これによって「野蛮なケンカ」などではなく、「しっかりしたルールのあるスポーツ」なのだという認識を世間に浸透させようとしたのだ。
しかし、それでもまだアメリカの大都市では開催が難しく、大手ケーブルTVのPPVからも締め出されたUFCは経済的に追い込まれ、「数年もすれば破産するだろう」とまで囁かれた。
UFC17のライトヘビー級トーナメントで優勝した五輪レスラー、ダン・ヘンダーソンは、王者フランクに挑戦すると見られていたが、UFCに継続参戦せず、前田日明率いる日本のリングスへの参戦を選んだ。
ダンヘンとチームメートのランディ・クートゥアも、彼より早く98年10月にVale Tudo Japan 1998(ヴァーリトゥード・ジャパン98)に参戦、その後はリングスに出場と、戦いの場を日本に移していた。
リングスは91年の旗揚げ以来WOWOWが放送しており、毎年WOWOWから巨額の放映権料が入っていた。これによって高額な賞金(第1回の優勝賞金は20万ドル=約2300万円)を賭けたKOK(キング・オブ・キングス)トーナメントを開催することができたのだ。
当時のUFCのファイトマネーは、ライトヘビー級王者のフランクでも、UFC16での初防衛戦でもらった額が3万ドル(約385万円)である。UFCに参戦したばかりのダンヘンのファイトマネーは、かなり低かったはずだ。
高額賞金を目指してUFCを離れ、リングスの第1回KOKトーナメントに出場したダンヘンは、オランダのギルバート・アイブル、ブラジルのアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、レナート・ババルら5人を破って第1回KOKトーナメントの優勝者となり、優勝賞金20万ドルを獲得したのだ。
翌2000年の第2回KOKトーナメントにはダンヘンの代わりにチームメートのランディが参戦するが、準決勝でアリスター・オーフレイムの兄のヴァレンタイン(オランダ)にギロチン・チョークで敗れた。優勝は決勝でヴァレンタインを肩固めで破ったノゲイラだった。
当時のリングスにはダンヘン、ランディ、ノゲイラ、アリスターら、その後PRIDEやUFCで大活躍する選手が多数参戦していたことは記憶しておくべきだろう。
この時期の日本の格闘界はTV局のバックアップもあって、立ち技のK-1、総合のリングス等が大会場での大会を頻繁に開催し、97年に高田延彦vsヒクソン・グレイシーをメインとして始まったPRIDEも、UFCジャパンでカーウソン・グレイシーの弟子のマーカス・“コナン”・シウヴェイラを破った桜庭和志が97年12月のPRIDE2から参戦、98年6月のPRIDE3では、1ヵ月前のUFC17でダンヘンと激闘を繰り広げたばかりのカーロス・ニュートンに一本勝ちし、その後もブラジル人ファイターを次々に撃破し、PRIDE人気も高まりつつあった。
一方UFCは、98年5月のUFC17から次の大会を開催するまで、5ヵ月も間が空いてしまう。その上、米国での開催でなく、ブラジルのサンパウロでの開催だった。
当時UFCはほぼ2、3ヵ月に1度大会を開いていたが、このとき5ヵ月も間が空いたのは、経営の苦しさを物語っている。
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