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止め、はね、はらい。そのひとつひとつに書き手の身体と心が見える書の世界。しかし、いつしか書は、お習字にすり替わり、美文字を競う「手書きのワープロ」と化してしまった。下手だっていいじゃないか!書家・小熊廣美氏が語る「自分だけの字」を獲得するための、身体から入る書道入門。
「お習字、好きじゃなかった」「お習字、やってこなかった」
「書はもっと違うものだろう」
と気になる方のための、「今から」でいい、身体で考える大人の書道入門!
書の身体、書は身体
第一回「書の身体とは?」
文●小熊廣美
きれいなだけが書ではなし。自分らしい書があるはずだ。
他人のことなど気にせずに、まずは自分の心を、自分宛てに素直に伝えてみよう。簡素でダイレクト、森羅万象を描きだし、その気配までも読み取ってしまおうとする書の力に触れてみよう。
書の身体とは何か?
ここでいう書とは、書くことが減ったとはいえ、みんながいつも書いている肉筆のことで、その中でも、表現の情報量が莫大になる筆文字を中心に考えていきます。
筆の弾力は、太くも細くも自分自身の気持ち次第で自由な線条が手に入ります。うきうきした気持ちは、はねも大きく、塞いだ気持ちの時は、線もだぶつき気味…。
今は死語というか詩語になった「恋文」も、たとえペンで書いたとしても、愛しい気持ちやぎこちなさも、その筆跡を通して、その人の呼吸まで伝えてくれます。その恋文を筆で書いたら、その心の状態はもっと鮮明に伝わっていくでしょう。
「明けましておめでとうございます」
と印刷された年賀状は形式で終わる。肉筆ならば、肉声になる、筆文字ならば、
とあるだけで、
「今年もよろしく」
と時に親しそうに、時に厳粛に、その言外の言葉を豊富に伝えます。書きようによっては、新年の瑞々しさまで伝えてしまうことでしょう。
自分自身が書いた肉筆は、書き様によっては、自分の心と体から発せられた、自分そのものであるということです。
いま流行りの美文字ばかりがいいのでしょうか?
「字が上手く書けない」いや、「字などどうでもいい」と思ってきた。はたまた、字が上手く書けたらいいと思いながら、上手く書けないままだった。などなど、振り返れば、字にまつわる思いは思いのほかあるのかもしれません。
でも、それも今まで生きてきた生の証し。今まで生きてきた自分をもっと肯定して、もっと信じて、今を生きられないものか。
負からではなく、前向きに生きるなかで、新たな自分と新しい自分の書が形作られていく。
広く書という世界では、字を間違うなどは当たり前、謝りの手紙が名作になっているものもあったり、失敗しても、それを名作に変えてしまう何でもありの世界です。
今なら飛行機に乗って行くか、電話でもしてしまうのでしょうが、野口英世の母が、アメリカにいる英世に、自分の張り裂けんばかりの思いを伝えたくて、文盲ながら、そこから平がなを習い、出世した英世に「おまえのしせにはみなたまげました。……」と、筆字で縷々として綴った手紙が残っていますが、“出世”と書けないまま“しせ”と書き、拙い字を一字一字懸命に書きつづる母の姿が胸にせまります。(参考画像)
書は上手、下手ではありません。自分自身を、自分自身の字を、肯定的に見つめ直しながら、何がいい書なのか、考えながら、ここでの書との対話に戯れてほしいのです。
書は、昔から太陽だった
昨今、いつの間にか、「書」のキーワードは、美文字、書道パフォーマンス、などの時代へとなってしまいました。ただ、それでいいのだろうか、という思いを抱いている方も多いのではないでしょうか。
今のブームは、日本も日本文化も、先が見えない閉塞感があるなかで、ニュースソースに載ることが優先のマスコミ文化が築き上げてしまった面も大きいと思えます。
書が「静的で地味で暗い」から、「欧米=カラー=美」といったような表面的で短絡的な見方が根底にある中で、パフォーマンスなどの今のブームがあるような気がしていますが、実は、むしろ逆なのです。
歴史を振り返れば、平安の昔から、應天門の門額を揮毫したあと、点を打つのを忘れて、あとから筆を投げて点を打った空海の逸話や、柳に蛙が飛びつくのをみて、書の修練の大事さを悟った小野道風などは、花札にまで取り入れられて今に伝わっています。和歌と書にみがきをかけるのが貴族の大事な関心事だったように、書は、日本文化の中心であって、日本人の精神構造の核を担ってきたのです。
そうした書の流れは、昭和の時代には、書が芸術として世界のアートシーンの中で輝いた時期もあり、20世紀の美術史に大きな足跡を残しました。その時をピークにして、その焼き直しのような作品が今でも多いのが現状です。
ただ、書は、書家の専売特許ではありません。日本は書の魅力を見続け、感じ続けてきたのです。
そういったことを踏まえ、いま流行りの“美文字”は否定しないまでも、この連載では「それだけでいいんですか?」という問いかけをしたいのです。
ここでは、書には興味があるものの、昨今の書の基準が腑に落ちない人のために綴っていくつもりです。ですが、勉強熱心な同学の方々にも目を通していただきたいです。
私は新しい論を張っているのではありません。
さまざまな書があっていいですが、似非といえるほどの書が蔓延る時代に、書を生業としているかしていないかの違いはあっても、人生を賭けて書に取り組んできている同学諸氏の、書家として存在理由まで問われている時代になっていると思います。 斯界のしきたりばかりで創造的活動がなされていないと思っている方、書を書壇内部だけで語ってきてしまったのではないかと思う方など、一般の方が何がいいかわからなくなってしまった書を、このまま放っておいていいのかと思うのです。
同学諸氏には、粗さがしではなくフォローを期待したいと思います。そして、書には興味がなかった方々が、書の魅力に気づいてほしいのです。
書は、いま、問い直されなければなりません。
理屈で書をかくのではなく、芸術ぶったり、それみよがしの精神の強調でもない、自然のなかの豊かな書の世界を探っていきたいのです。
さあ、書の身体性とは?
書は、頭や書論で書くのではなく、書は手で筆で書いてはじめて生まれます。
その思いは、背骨から肩へ腕へ、腕から手へ、指先へ、筆へと連動していきます。そこに伴う呼吸力。つまり「息」が大切なのです。
視点を変えて、しばし自分の肉筆と戯れてほしいのです。
いま流行りの“美文字”や“お習字”という、きれいで読みやすい、という概念を作っていく文字の根底である“記号としての書”という発想を一度外してみてください。
「お習字」や「美文字」はきれいに整っていることが基本。「書」や「書道」は、きれい、美しいという概念が、もっと広いものです。 時には、字が乱れても、“破調の美”というように、美の範疇が大きくなってきます。
文字は言葉を記号化したものですが、「あー」という男性と女性、子どもや大人、歓声をあげたのか、泣いたのか、それぞれ違います。記号化で終わるのではなく、その違いこそが、肉声であり肉筆なのです。
そうしていく中で、みえてくる書の在り方に、しばしお付き合いをしていただきたいと思います。
書は人間の動きの理そのものからはじまる
いろはの「い」と書く。
今はパソコンや携帯電話などの「い」は、指で打って瞬時に「い」がでてくる。ところが、鉛筆であろうが筆文字であろうが、手書きであれば左から斜め下に線を引いて、次に右上に向かって空中を飛んで、着地した所から、斜め下に線を引いて「い」ができる。ある人は、斜め下でなく、まっすぐに下ろして一画目を作る人もいる。長い線の人もいれば、短い人もいる。一画目と二画目の間が近い人、遠い人……。「い」という記号が成り立つ中で、限りないパターンの「い」ができる。
これは、その人そのものである。
いつからそう書いたか、また、いつから、違う書き方にしたのか、はたまた、今の気分が、そう書かせたのか、無限なほどに違う。それなのに、多くの人は、「きれいな字はこういうものだ」と磨りこまされて、小学校からのお習字の呪縛に、自信を持って、字が書けない。最近の美文字ブームで、「そうならないといけない」と、文字コンプレックスにいつまでもさいなまれている方も多いのではないでしょうか。
とりあえず、きれいに書く、美文字に変身、といわずに、自分の今まで書いてきた肉筆をゆっくり見つめて直してみようじゃありませんか。
今まで、みんなそれぞれが自分しか書けない愛おしい肉筆をいっぱい書いてきたんだと思います。
無意識でしょうが、「こう書け」と脳から身体に指令がでて、たて斜め下に一画目を書き、右上にいってからまた、たて斜め下に二画目を書いて、それぞれの「い」を書いていったんだと思います。
そこで、そんな文字の運動が行われている。その豊かな運動こそが、書の核心であって、そこを掴めば、いつも同じ字をきれいに書こうとするお習字や美文字という恐怖に打ち勝って、気持ちいい肉筆が躍り出てくるのではないでしょうか。さあ、こころを大きくゆったり持ちましょう。
まずは、お習字の時間にはじめて書いたたった一本の横線から考えていきましょう。
“一”は右上がりに書く?
学校のお習字で、「一」は、まったく水平に書くのではなく、少し右上がりに書きました。
さあ、なぜでしょう?
もともと「一」は、水平で、「十」の横画と縦画は水平垂直だったのです。
漢字のルーツをみていくと、紀元前十四世紀頃は殷時代。亀の甲羅や牛の肩甲骨に、鋭い刃物で刻んだ「甲骨文」、その後の西周、春秋・戦国時代の文物として伝わり、今や世界中の骨董ファンの垂涎の的である青銅器に鋳込まれて表現されている「金文」などは、今からみれば絵にも思えるほど、造形感たっぷりの文字なのですが、この頃の漢字は水平垂直が基本です。
馬という漢字は、馬をみたまま、馬の特徴を掴んで、だんだん抽象化が進みました。
見えない概念である字もあります。
たとえば「上」や「下」。これは見えないので、水平線を一本ひいて、その上に点をつけて「上」、その下に点をつけて「下」としました。
今ではそんな古い時代から毛筆を使っていた証拠の出土品もでてきているのですが、管に獣毛をはさませた程度のもののようで、今のような筆の機能はないようです。この頃の漢字の在り方はまた後で述べることにします。
そして、紀元前221年頃、秦の始皇帝の時代になりますと、中央集権国家として、重さや長さ、文字、馬車の轍の幅まで統一され、中央と地方のやり取りも盛んになり、文書行政も盛んになったようです。
甲骨文字、金文からさらに進んで、今の印鑑によく使われる篆書が正式書体となったのですが、国家として文書が多く書かれるということを、一人の人間に置き換えると分かりやすいかと思いますが、忙しくなると、早くなる、省略する、など書写活動も変わってきます。
当時の書写材料は、木や竹を細長く削ったものが中心で、書写材料としての紙はまだ発明されていません。ですから、その木竹に書くなかで、水平垂直ながら、改良も進んで弾力を使えるようになった筆から、リズムが生まれ、繰り返すなかで、突いたり戻ったり抜けたり、つながったり省略したり、筆らしい動きが生まれてきます。
そうしたなかで、次の紀元前後の約四百年の前漢・後漢時代、「隷書」という書体が正式書体として成立します。
そこでは、今の草書の元である「章草」という書体も成立し、楷書的なものまで様々な書が胎動していったのです。その後、早期の楷書体や「楷書」と「草書」の中間書体である「行書」など、右利きを基本にし、多くを書くなかで必然的に起こる速度を伴う運動性のなかで、右上がりが定着していくのです。
結果、右上がりには前向きな姿勢や自然の理が隠れているのです。
書はすべて一画である
そして、「大という字は三画」とか、一番多い画数は「龍」を四つ書いた字ともいわれますが、それで六四画です。そのように、一画、二画、三画と漢字は画数のことをいいます。小学生の漢字問題ならそれで正解ですが、
書を学ぶ上では、すべて一画という意識が大事です。
そしてこの意識が、一人ひとりの肉筆を生き生きとさせる最大の秘訣かもしれません。
見えない動き―気脈
それでは身体の前に手を中段に構えて、中指の上に人指し指をのせることによって、中指を筆の代わりにして、「大」という字を大きく書いてみてください。
どうです? 空中で書くと一筆であることが解っていただけましたか。
紙などに書かれた結果は、楷書で書いても三画ながら、一画が終わったら次の画へ気持ちでつながっているのです。これを「気脈」といいます。
書は決して後戻りしない、時間芸術でもあるのです。そういう意味では、書は音楽と似ているのです。気脈は、風や雲や川の動きと同じで自由自在です。これこそが書の、見えにくい力の源泉なのです。
書は手で書くのではない。全身で書く
自分という範囲で精一杯生きる。ここには上も下もない。世の中には、手はなくても口や足を使って書画のみならずすべてをこなす方もいる。何が無くとも使えるものを使って、その身体の理を用いれば、何が無いとはいうこともない。
昭和前期には、刃傷沙汰に巻き込まれ両腕を無くした元芸妓が、筆は口に持って書いた。これがまた書も画も上手すぎる。びっくりである。後の大石順教尼でありますが、そういう方もいる。逆に、五体満足でも下手。でも、それでもいいじゃないか。それぞれの生を謳歌し、書くことを楽しめれば、書くことに興味が湧いてくれば、字はいきいきし、顔も微笑んで身体も柔らかくなっていく。字も自ずと自分の方向を示す字になっていくものなのです。
半紙に一字書くのと違って、普段のメモや年賀状などをイメージしても、ペンは手を少し動かして済む。こういう時も、筆の方が判りやすいのですが、小さな運動なのですが、その核は丹田であり、背筋から肩を経由して腕、そして指に、さいごに筆管から筆先に動きを伝えたい。最後には、何が無くとも、全身が丹田であるという境地をめざしてみましょう。
書はすべてが柔らかい水の芸術である
筆の扱いを会得すれば心のままを表現する
書で扱う筆や墨を磨った墨汁、それを吸い込む紙も、柔らかく、千変万化、同じようで同じ物は生まれないのが本来です。だから、同じ字をいつもきちんと書けない方が自然です。柔らかい道具と柔らかい身体性が伴って、色を超えたモノトーンの世界が、この書の魅力です。
ならば、きれいに書けないのも当然として、動きを意識して書くというスタンスでしばらく書と向き合えば、違った風景に出会えるのではないでしょうか。
しばらく、存分に、いびつに書いていきましょう。いかに心を柔軟にできるかがポイントで、いかに力を抜くか、が勝負です。書は、水の芸術。岩をも砕く力を持ちながら、力などどこにもはいっていません。
(第一回 了)
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