連載 初見良昭「人生、無刀捕」 第十回「初見先生の死生観」(最終回)

| 初見良昭

人生、無刀捕

第十回「初見先生の死生観」(最終回)

お答え初見良昭
取材・構成藤田竜太

 

「人生無刀捕」題字・初見良昭先生
題字・初見良昭先生

 

虚実転換、変幻自在、行雲流水、奇想天外、千変万化、円転滑脱……。
 発想法、考え方こそが、最大の武器と言われる武神館の初見良昭先生。そんな初見先生に、人生の切所を切る抜けるための、さまざまな知恵を授けていただくというのが、本連載の狙い。
 ときに脱線、煙に巻かれたり、はぐらかされてしまうこともあるかもしれないが、それこそまさに、初見先生の口伝、心伝。
 姿勢を正して、初見先生の幽玄の世界に足を踏み入れてみようではないか。

赤字の部分は初見先生独特の言葉“初見語”です。

 

「寄らば大樹の陰」

「無の中の真実」に気付くためには「道」そして修行が必要。

ただし、ご自身は「道」ではなく、「芸」「アーツ」、つまり「武芸」の境地だという初見先生。

なぜなら、正しい道はモラルの押し付けにつながるリスクがあり、それが現代社会で、さまざまな形で摩擦を生んでいる可能性があるからだという。

だとすれば、現代の武道、武術の修行者は、時代とどう向き合って生きていけばいいのか。

今回は、まずそのことについて、初見先生に訊ねてみた。

 

初見先生のお答え

 

時代の流れと修行の関係? なんていうのかな、修行者は大きな(時代の)流れなどというのは気にしない方がいいんじゃないかな

というのは一人の人間で思うこと、ロダンなんだな。

大きな流れ、大きな木……、「寄らば大樹の陰」って言葉があるでしょ。時代が荒れているときでも、その大樹の下で息(意気・威気)をしている度胸につながる。威気坐(いきざ)する修行者。

お釈迦様だって、菩提樹の下で大悟されたわけでしょ。「寄らば大樹の陰」も、その逸話につながっている言葉なんだから。雷が落ちることもあるしね。

自分のまわりにある一本一本の木をどうこうしようと悩んだりせずに、木は木でそれ以上でも以下でもなく、その下が涼しければいいんですよ。樹木葬なんてのも現代は流行っているしね。

時代の荒波なんて言うけれど、まさに波なので、激しい時代も、平穏な時代も、周期的に来るもんだからね。オンナの生理と一緒ですよ

戦争は反対だね。私もしかり、しかし考え方を反対に自然状態と人間と考えれば、一種の自然淘汰の現象と変わる。そうでなければ、地球上に人間が溢れかえってしまうわけで……。

地球の容量は決まっているわけで、人間だけどこまでも増え続けるわけにはいかない。天変地異もこれは神の啓示だともいえ、天示を見ることもある。

そう言えば、今年の2月に、地球に良く似た惑星が7つ見つかったというニュースがあったね。地球から39光年離れた星で、一部には海もあるとNASAが発表していたでしょ。

「7つ」見つかったというのが、興味深いというか、面白いね。地球も水が7で陸が3の割合でできている。

ハワイでも、イタリアのエオリエ諸島でも、スペイン領カナリア諸島(アフリカ北西)でも、みんな七つの火山島なんだよ。七法三方型。

七つというのは不思議だね。

忍術は七法三方型というものがあるんだけど、何か自然界というのは、そういう数字に支配されているというか、同じようなサイクルで動いているんだろうね。

少し、話が横道に逸れちゃったけど、時代だなんだと切実に考えずに、のらりくらりと切り抜けてね。何でもそうだけど、断定しちゃうと、敵を作ることも多いし、間違えることも多いんじゃないかな

七三に生きるなんていうのはこんなことなのかな。

「答えを、早く、正しく出しなさい」というのは、小学校の先生と同じだよ。大人は、答えなんて正しく出さなくたっていいんですよ。キラーストレスになると困るからね。

社会情勢が不安定になってくると、不安を抱える人が多くなるみたいだけど、先のことなど誰だってわかりやしないんだから。そんな取り越し苦労ばかりしていると、病気になってしまいますよ。私にみたい、あんまり考えないことですよ。

私は若いころこら、未来のことを心配したことなんてありませんから。考えたって、どうにもならないものってあるでしょ。それもやっぱり十人十色。その人その人で違うわけです。無刀捕りのNPYだよ。

だから、たくさんの人間を教えたり、たくさんの人たちとネットワークを作っておくには、こういう考え方を持つことが肝心なんです。そうでないと、やがてキラーストレスの体変化で死んじゃうぞ。

一人の人に肩入れしてしまうのは危険なことです。一人に肩入れし、その人へのひとつの答えで、みんなにもそうなんだとやってしまうと、他が全部ダメになってしまう。

十人十色、1(ピン)9では駄目。ピン5でも駄目。

お釈迦様じゃないけれど、対機説法で一人ひとり、そのときそのときで、違った答えを用意できないと

武道の世界では、一子相伝とかいって、見込んだ弟子に集中して、すべてを仕込んでいくなんて傾向があるけれど、そんなのは私に言わせれば、師匠としての力がない証拠ですよ。シナの諺「顔回死す」(※)ということになる。

孔子の逸話の一つ。顔回は孔子の弟子の一人で最も秀でたと言われていたのだが夭逝してしまう。将来は自分の後継者とも期待していた孔子はこれを深く哀しみ、「顔淵死す。子曰く、噫、天は予を喪ぼせり、天は予を喪ぼせり」と嘆き悲しんだという。

勉強ができる親ほど、子供に勉強しろだなんて言わないでしょ。それと同じ。

武神館の後継者も、私は何にも心配していません。もうこれだけ弟子が育ってきているし、高松先生の教えも全部伝えきりましたし、無刀捕まで教えてしまっていますから。次期宗家は誰、なんて決める必要もありません。既述の通り、武神館の最高師範は、全世界ですでに500人を超えていますから。これだけの弟子がいれば、教えが途絶える心配はないので、「あとはお前らがやれ」っていう感じですよ

宗家とは總家とは同音でしょう。

初見先生

 

武道=一子相伝のイメージは作家の罪

えっ、弟子たちの中で、我こそ初見の一番弟子だ、なんて名乗り出す者がいるんじゃないかですって?

それがいないんですよ。なぜかといえば、そういうのを認める人がいないから。

何万人という弟子がいて、それぞれがものすごく上達してしまっているので、一番弟子なんて決められませんよ。

仮に誰かが、一番弟子だと自称しはじめても、他の弟子は相手にしないでしょうから。そういう意味でも、武神館は安泰ですね。

武神館では、独裁者は作らないし、独裁者は要りません

天狗になって、自分がトップだといったところで、周囲からはバカだと思われるだけですし、そんなことを言ったやつほど、誰にも相手にされなくなって自然に消えていくだけです。

いまだに、武道の世界で一子相伝のイメージが強いのは、剣豪小説その他の影響が強いからではないですかね。武道家というより、そういうストーリーを好んで書いた人の罪ですよ。一死相伝の実もある。

本当に優れた武道家は、黙っていたって立派なものを遺しているはずです。私の師匠の高松先生がそうであったようにね

高松先生は、学校で教科書で習うような歴史ではなく、神代の時代の日本の歴史から、全部いろいろなものを網羅して、勉強なされて、その収集された貴重な資料を私にすべて譲ってくださいましたから。「天津鞴韜秘文 」(アマツタタラ ヒブミ)とか、古文書の研究では日本で第一人者といえる方でしたよ。それらを全部私がいただいております。

それが前述の人間の原点ですよ。地球の原点でもあるし、神様の原点ともいうでしょうが、原点と書けば大きい原っぱとなぞらえるが、元点と書けば小さな元となってくるもんです。音と光の相対性も考えることです。

 

初見良昭の死生観

えっ、私が死についてどう考えているかですって?

考えてないねぇ~。死なんてものは、眠りのようなものだと思っていますよ。すぱっと火が消えるようなもんなんじゃないかな。

修行によって、死に対する不安や恐怖を克服しようとする人もいるんでしょうけど、私はとくに考えてことがりませんし、きっと死ぬ瞬間にならないとわからないんじゃないんですか

ただ、死に対する恐怖を抱かない人は一人もいないでしょ。それが生体としての防御反応ですから。人間でも動物でも、それは本能的なものですから。

だけど、生きている間は、死についてとくに考える必要がないというのが、初見流です。死んだらどうなるのかなんて、誰もわからないわけですから、そのことについて思い悩むのは一種の病ですよ。

私は無刀捕は死なないと思っている。今も高松先生は私の中で生きている

武士だって、戦うときに負けようと思って戦う人はいないですよね。誰も死のうと思って戦う人はいないんですよ。しかしその場の読みを知って死を超越した無刀捕りに生きることもあるのです。

よく鎧櫃に「前」と書いてあるのを見ますよね。あれは真言九字の「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」の最後の一文字から取っているんです。「前」というのは、前進のこと。つまりネクストワンです。要するに、次の世代という意味です。「前」って女性は「前」とも言うでしょう。

何をやっても、どんな生き方をしても、最後は死んでこの世から消え去るということに虚しさを感じている人もいるようですが、それはそれでいいじゃないですか。

命というのは循環ですから。まわりまわってくるものでしょ。ただそれを受け入れるだけです。命の循環も動きでしょ。

消えるということは寂しいことかもしれないけれど、だから思い出を作っておかなければいけないんですよ。忍者は木火土金水、五遁三十法で消えるでしょう。

宗教も私は大事だと思っていますが、本や何かで宗教を学ぶときは、それに取り込まれてしまわないことが肝要です。思想などにしてもそうですが、○○主義といった特定の考え方だけ学ぶと、それだけだと思ってしまうのが危険なんです。○○主義なら○○主義で、その原点は何なのか、そういうことまで考えないと。

共産主義も、自由主義も、社会主義も、みんな根っこは実社会から見ると理想的なもので、理想通りにはいかない。そうなったからといって、幸福にはならない。希望なんて映像がそこに出てくるのです。師はこれらのことに答える幸福のしおりという一文を書き残されています。

初見先生

 

決めて縛らないと人間は安心しない傾向があるでしょう。

これはどんな人の質問かな、SM、サド、マゾの好き者のお話なのかな?(笑)。こんな喜びを好む人もいるんですね。

縛られる。ここで縛られているのは自分ではなく、縛る場所。人ではなくハンモックのようなものを木に結ぶ為に縛るのか。クモバシゴを作るための忍びの秘縄術なのか。

要は縛るところ、止血しようと縛る医法。縛る、赤い糸を縛る。何よりも命を守るために身体を縛る、結ぶということに気づくことです。

何でもそうですが、知らないと騙されますよ。三学(戒学・定学・慧学)に落第する。

そういう意味で、私はあまり他人の風姿には関わらないようにしています。他力本願、他人を頼るのはよくないことです。最後は自分でしょ? この世にポンと生まれてきたら、自分で生きていかなければいけないんですから。

自分で生きて、自分で死ぬ。

世の中そういう風にできているんですから、文句言ってもダメですよ。

私だって、何かというと「高松先生の教え」といっていますが、すべては高松先生の教えという幼児性から、私も脱却しなければいけないんです。これも自然の要示性(ようじせい)。神ながら神導行雲流水の佛導の娑婆に生きるためである。

弟子たちにも同じことは言えますけどね。独り立ちしている弟子は余計にそうですが、師から弟子へ、それは順番につづいていくんでしょうね。

だから、ある段階から私は、みんな弟子たちを突き放すようにしているんです。彼らを空間という娑婆を生きる為に。

くっつくなら、空間に遊ぶ天女に声をかけることです(笑)。

たとえ裏切るオンナでもね。オトコはオンナに裏切られるようにできているんだから(笑)。だから五段のテストがあるのです。

(最終回)


 

本書が単行本になりました!

お読みいただきありがとうございます。こちらの「人生、無刀捕」はお陰様で、『忍者 初見良昭の教え 人生無刀捕』として単行本となりました。単行本化に際してこれまでの連載内容はもちろん、新たに藤岡弘、氏との対談や、貴重な資料、文章を加えてあります。是非、ご一読いただければ幸いです。

『忍者 初見良昭の教え 人生無刀捕』

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–Profile–

初見先生

初見良昭(Masaaki Hatsumi
1931年、千葉県野田市生まれ。武神館(ぶじんかん)を主宰(武神館九流派宗家)、柔道五段、空手八段、抜刀道十段。ペンタゴンやFBI、イギリス特殊部隊、オランダ王室海軍などでも指導。テネシー州親善大使、ロンドン警視庁名誉顧問、テキサス州名誉市民、アトランタ、ロサンゼルス市名誉市民など。騎士(ドイツ国立歴史文化連盟より)。世界各国の指導者(レーガン大統領、メジャー首相、ミッテラン大統領、ローマ法王、マンデラ大統領ほか)や軍隊、警察、情報局や各種団体から感謝状、賞状、友好証などを受けている。国際警察会員、インターポール。英国王立医学協会名誉会員、トリニティ大学名誉教授、モアパーク大学犯罪学名誉教授、科学博士、哲学博士、芸術学博士。「日本よりも海外で有名な日本人」として、しばしばテレビ、雑誌、新聞などで紹介される。

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