毎年恒例の韓競辰導師の来日講習会がいよいよ今月末から開催される。そこでコ2【kotsu】では、昨年来日した際に行った韓導師へのインタビューを三回に渡りご紹介します。
コ2【kotsu】特別インタビュー
2018来日講習会記念企画
韓競辰導師に訊く「力」と「勁」
第二回
インタビュアー・文●コ2【kotsu】編集部
取材・写真協力●日本韓氏意拳学会
監修●光岡英稔導師
真の「勁」の定義は一つしかない
韓競辰導師(以下、韓) では「力」と「勁」のお話に戻りましょう。私が至った結論だけを見たら「何だ、簡単な答えじゃないか」と思うかもしれません。しかし、この結論を出すのはとても大変でした。実際、「力」と「勁」というふたつ概念が存在した時から今日に至るまで、この問題についてこうした提起を含めこのような結論を出したのは私一人だと思います。
コ2編集部(以下、コ2) 先生はこの問題について、いつから疑問に思われていたのでしょうか。
韓 小さい頃からです。父の時代から存在していましたし、その探求は、もう何千年も存在していたと思います。
コ2 お父様とこのことについて聞いたり、お話しをしたりはされたのでしょうか?
韓 父は「勁と力は違うものだ」と話していました。ただ当時の人は、皆、実践の人で行為をもって示してくれましたが、言葉や理論でこうしたことについて語ることはありませんでした。しかし、今の人はこういう理論や結論が文章になったものを好みますね。
光岡英稔導師(以下、光岡) お父様の時代は、実際に「ちょっと来なさい」とやってみせて、「これが力」「これが勁」ということを動きで教えてくれたわけですね。
韓 そう、動作で実際にやってみて教えてくれました。
コ2 今日、先生がクラスで行われていたような感じでしょうか。※この日のクラスで韓先生は参加者一人一人に触れて感覚を伝えられていた。
韓 父は道理を色々お話してくれましたが、言葉や文字で説明することは余りありませんでした。身体言語を用いての教えとも言えるでしょう。伝統的な武術家は皆、そうだったと思います。
何千年の歴史の中で文字や言葉をもって、ここまで此の「勁」と「力」に関することを明確にした人はいないかと思います。ですから私はその歴史の中の空白部分を埋めたと思っています。これまで「力」と「勁」が違うのかという根本的なことについて語った人はいないと思います。
ただ皆、中国伝統武術の世界で「勁のほうが力より優れている」とは言います。あるいは、一般的、通俗的には「力の運動を高めて、高級なものになったときに勁となる」と。
光岡 多くの中国伝統武術の方々も高級な力が勁だと言われてるわけですか。
韓 それが一般的に言われていることですね。皆、共通してそう思っていますね。
コ2 ですがもともとのスタートからして、両者は違っているということですね。
韓 そうです。この問題が提起されたときに、「勁」を語る人は、この道を辿っていました。それは「勁」の本来の姿を知っていたからです。今起きている最大の問題は「勁」という言葉を使って、技術、技能が語られていることです。
光岡 近代以降の中国伝統武術界において、実際にやっていることは「力を用いた技能的な運動」でありながら、言葉や文字では「勁」であると語られている問題があります。これも名同実異、形同実異の一現象ですね。そこは確かに後世のためにも「勁」と「力」の違いを明白にしておく必要があります。
韓 「勁」とは何か? まず「勁」の定義は一つしかないということを言っていただきたいです。ですから第二の「勁」の定義を語る人がいたら、それはもう既に「勁」と言う名の別のことです。
光岡 世の中的には色々な「勁」があるということになっていますが、韓老師の中では端的に「勁」を定義するなら一つのことに集約されるわけですね。
韓 そう、真の「勁」の定義というのは一つしかありません。第二、第三の「勁」の定義というのはありえないということを、是非この事については語っていただきたいですね。
そうでないと「勁」の名前を使って技能運動を語るということが続いてしまいます。
ただこうしたことを説明しても「勁」を使って色々な技能運動の説明をしてくる人がいっぱい出てきます。ですから、必ず「勁は一つしかない」ということを書いておいていただきたいです。そう一つなのです、中国の伝統で言われる道(ダオ)と同じく一つしかありません。
光岡 たしかに、中国の伝統において「道は一つ」「道は一つなり」と言われていますし、仏の門も一つ、神なども歴史的には唯一であると西洋では言われてます。
韓 そう、西洋においても神は一つですね。また自然はいくつあるでしょう? 一つです。「勁」は自然の中にあるもであり、これもやはり一つ。これは我々人間一人一人と同じですね。「二番目の下村さん(コ2編集部)」はいませんからね(笑)。
コ2 ここで仰っている自然というのは、その人にとっての自然が一つずつあるということでしょうか。
韓 いいえ、自然は一つです。ですから、自然は一つであるが故に「勁」も一つなのです。これは絶対に協調しないといけないところです。でないと自然の数が多くなってしまいます。「石には石の自然が、木にも木の自然があると……」となってしまうと自然の概念が何ものか、わからなくなってしまいます。
コ2 例えば韓老師と光岡先生ではそれぞれに自然への向かい方や発露の仕方が違うように思いますが、そういう意味では一つの自然を根本にしつつ、一人一人の表現があるということでしょうか。
韓 自然とは一人一人の形や表現の仕方が違う、ということではなく、一つの法則から様々な表現の違いが発生していると言うことです。その法則の元を自然と呼んでいるだけです。私たち人間が違う認識や違う受け取り方をすることはあります。ですが、だから「一人一人が異なる自然法則を元とした表現方法を持っている」という言い方はできないと思います。
私は「自然は一つである」と考えます。つまり自然法則とは色々な自然法則がある訳でなく、一つであるとも言い換えられます。この宇宙全体は一つの自然法則は貫かれている。だから「道(タオ)」という風にも言われ、「道は一つである」と中国の古典でも言われて来ました。自然法則とは古人が語っている道(タオ)と同じことなのです。
ただ武術、運動に関して私たちは「勁」という表現を使っているだけなんです。
仏教では「不二法門」という言い方をしますが、これは「仏の門は唯一であり、第二の法門はない」ということですね。仏教でも世に自然法則はただ一つだということを説いて教えています。同様に拳学、武術における「勁」とは唯一つの法則であり「不二法門」であります。私たちが大事にしているのは、その唯一の法則である自然の法則です。
これは韓氏意拳だけが自然法則を使っているという意味ではありません。これは全世界、万物、宇宙全体の共通した法則なんです。しかし、同時に韓氏意拳の価値というのも此処にあります。韓氏意拳は他の武術や拳法と異なり拳の秘技や特別な技術技法を色々教えているから凄いということではありません。
光岡 ここは韓氏意拳、中国武術の学習者だけでなく皆に注意していただきたいところです。韓氏意拳がより高度な中国武術の技術や技法を教えているから優れているというわけではなく、韓氏意拳の場合は韓氏意拳の体系でさえをも包括する自然法則を自己を探究の要としているが故に、この様な教えにならざる得ないのかと思います。
それは「韓氏意拳が自然法則を用いている」「韓氏意拳だけが自然法則を用いた体系である」などといったことではなく、私たちの存在が古今東西を問わず自然の中にあり、自然法則に従って行くしかないことを韓氏意拳では認めているだけであるとも言えます。
また、もう一つ私から補足するなら「自然は唯一である、不二法門」と言った教えに関してですが、普通なら自然が多様に見えてしまうにも関わらず、何故この様な教えや定義に至ったかをお話します。
たしかに私たち一人一人の経験、感覚、認識が異なるわけですが、それらに違いがあることを認めた上で、姿形や感じ方、認識の違いがある中で、それらのことでさえも表層的なこととし、そこから更に深いところにある根源的な万物に共通する自然法則の経験があり、それに従って行ってはどうかと韓氏意拳では教え、定義し、伝えている訳です。
ここは意拳の創始者である王向斎先師の「不求形骸似、但求神意足=形骸を似るを求めず、ただ神意たりを求めよ」の教えにも通ずるところがあります。
(第二回 了)
韓競辰導師、来日講習会情報
来る4月28日(土)から5月6日(日)、東京と岡山で、国際韓氏意拳総会会長・韓氏意拳創始人である韓競辰導師による講習会が行われることが決定、現在申し込み受付を行っています。
今回は一般向けの韓氏意拳初級講座はもちろん、韓家中医学 養生基礎編、韓家中医学 一指禅推拿編の講座も用意されていますので、韓氏意拳に興味をお持ちの方は、この機会をお見逃しなく!
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