コ2【kotsu】特別インタビュー 韓競辰導師に訊く「韓氏意拳という自然回帰」 後編

| コ2【kotsu】編集部

この記事は無料です。

今年も韓氏意拳創始人である韓競辰導師の来日講習会が開催される。そこでコ2【kotsu】では、昨年来日した際に行った韓導師へのインタビューを前後編の二回に渡りご紹介する。

後編の今回は我々が見失った“自然”について伺ってみた。

コ2【kotsu】特別インタビュー

2017来日講習会記念企画
韓競辰導師に訊く「韓氏意拳という自然回帰」

 「自然を忘れてしまった人々」(後編)

インタビュアー・文コ2【kotsu】編集部
取材・写真協力日本韓氏意拳学会
監修光岡英稔

 

“站樁”は自然現象

コ2編集部(以下、コ2) 多くの教傳には型や式と呼ばれるものや、ある程度運動をパターン化したものがあります。我々はそれを見てそのままを真似をして行うことを目指すわけですが、形を真似すること自体には意味はない、ということですね。では、そうした教傳が、本当は「状態」を捉えることが重要であるということを前提に作られたとして、武術にはなぜ現在伝わっている幾つかの型やパターン、例えば意拳の場合は站樁のような形が生まれたのでしょうか? あるいはそれを誰が作ったんでしょうか?

韓競辰導師
講座ではホワイトボードを使い口訣やイメージなどが紹介される。

 

韓競辰導師(以下、韓) とてもいい質問です。本当にそれは長い歴史から来る話で、これについて私は前に文章も書いています。
まず、私たち現代社会では「正しさ」「間違い」といった概念を持っています。また、その「正しさ」や「間違い」を自ら経験することなく他から教えられ、与えられた概念や観念をベースに「何が正しいか」「何が間違えか」を決めてしまう人が少なくありません。例えば、この「站樁」という韓氏意拳、意拳の練習方法にも賛否両論があり「站樁とは拳法を学ぶために生まれた訓練方法である」と言う人も居ますが、それは違います。

站樁というのは、拳が生まれるずっと前から存在してました。誇張でなく站樁については少なくとも3000年の歴史があるかと思います。いろいろな宗教や何かが発生するその前から、この站樁という概念はあったと思います

站樁は運動や武術の内功を練るために生まれたものではなく、自然現象として生じました。どういう自然現象かと言いますと、昔の人が自然界を探求し始めた時に一つの形式が生まれ、その学習方法が自然の内外を問わず現象に注目する形式へとなっていきました。例えば誰かがあなたを理解する為にあなたがどんな人かをよく観察し注目します。これが站樁の発生です。自分の内外の現象に落ち着いてよく注目すること、それが站樁の発生であり、それは自然現象でもあります。自然界の事物を観察し、それによって明確に物事を理解し、静かに観て注目し体会・体認することこそが上古の時代から伝わる站樁なのです。

故事に「馬に乗って花を見る」という言葉があります、これは注意散漫という意味ですが、そういうことでは物事はよく見えない。よくよく静かにし落ち着いて自分の状態に注目し物事を観る、その行為から発生した形式が站樁です。ですので何千年も前からそれは始まっていました。

体会=新たな体との出会い、体に生じる新たな現象と出会うこと。体認=体に生じていること、起きてることを認めて行くプロセス。

 

コ2 今日のような形も昔からあるのでしょうか?

 長い年月をかけて伝わって行くなかで徐々に形式が整理されてきたことは確かですが、その核心は自他への「関注=グゥワンジュー(深い注目)」で、このことは長い年月のなかでも変わっていません。また宗教などでもそのことが伺えます。例えば、アジアにおいてはインドのヨガ、中国で禅が生まれ、また中国の道教などの修行形式も多く作られました。そうした体系がだんだんと練られ、形式を整えていきました。

コ2 站樁そのものが今日の形になったのは、王向斎先生の時代になるのでしょうか?

 形意拳の時代に、今日やった訓練方法の大部分はありました。形意拳ではすでに“抖(トウ、dou)”を“勁(ケイ、jing)”に変えるという訓練方法が整えられており、それが初期の椿法(トウホウ)の訓練方法として確立されていました。しかし、そこで大事なことは椿法が“抖”を“勁”に変える訓練として行われたことです。それを後の人が言葉の上でこれを「内家拳には勁がある」と解釈してしまったわけです

※抖=トウ、dou、ふるう、けわしさ、急。

 

コ2 誰が考えたのでしょう?

 内家拳の多くの人たちが、王向斎が言っている“勁”は、内家拳で考えている“勁”だという風に捉えていました。

コ2 それは違うと言うことですね。

 私の解釈では“勁”とは神秘的で不思議なことではありません。現代の知識で説明するならば、これは「自然本能の運動」のことです。昔の先人は自然本能の運動のことを「勁」と言い、韓氏意拳ではこの「勁」を「状態」と呼んでいますつまり昔の人の言う「勁へ注目せよ」との教えは「状態へ注目すること」を言っている訳です。

コ2 自然本能の運動というと、例えば熱いから手を離すとか、怖いから目を瞑るといった原始的な反射を思い浮かべるのですが、先生の仰っている自然本能の運動は、そうではなくて、高級な知恵が内包されているように思えますね。

韓競辰導師

 

自然を忘れてしまった人々

 大事なことは、まず研究の対象が何であるかをハッキリさせないといけません。私たちは自然本能の運動を探求してます。ところがその際に研究対象がすり替わってしまい、間違って技能運動や技術的なことを探求してしまっていることが多々あります。

これによって、先生がどんな話しをしても技能的な運動を主観的、または客観的な観点から評価をしてしまいます。これは今の社会で非常によく見られる現象です。

まずハッキリさせないといけないのは、伝統的に「勁」と「力」は、全く違う運動形態を指していたということです。「勁」なら勁の運動原理や原則があり、また「力」あるいは「技能運動」にも別の原理原則があります。この2つの運動のどちらが良いとか悪いとか、そういった比べ方ではありません。そういった良し悪しの比較は「勁」と「力」「技能運動」の間には存在しません。ただ、これらの異なる運動形態に確実な違いはあります。

この運動形態の違いを見るとしたら、本来自然に備わっている人間の運動であるか、あるいは社会的に技能化・機械化した人間の技能運動であるか、その違いだけです。研究対象を分析する際にはその違いをまず明らかにしておかないといけません。時々、それを一つのものとして説明し、「力」を用いる運動がどんどん高級になって「勁」に到達すると説明する人がいますが、これは有り得ません。このような解説をする方は「勁」と「力」の違いが理解できてないことが伺えます。こうした「力を修錬していけば勁に到達するんだ」と説明する人は非常に多いのですが、それは人間が人為的/技術的に操作できる力の調節を行っているだけなので、どこまでいってもそれは力の運動です

自然運動とはそうした人為的な調節ができない自然が調整している運動を指します。ふと物を取る時の体の様子と同じで、自然に調整されて発生する運動、これが自然本能の運動なんです。

コ2 改めてお伺いしますが、先生が本日おやりになったことは全部、自然運動であるということですね。

 はい。ですから、結局、最終的には自分自身に本から備わっている自然運動が答えを導き出して来れます。それが自然の答えで、自然の答えというのは自分自身を明らかにしてくれます。というのも、私たち一人一人が独立した唯一の存在だからで、その唯一の独立した存在である私には生まれながらにして自然が完備されています

コ2 恐らく私を含む多くの人の問題は、自然運動というものを知らないから、信用できないので、技術や技能に信頼を置いてそれにすがろうとしていることだと思います。

 一つこれはとっても重大な問題ですが、私たち人類は、自然現象を探求する時に、すでに分類的に物を見ています。速度、力、敏捷性、そう分類し比較して物を見てしまうわけです。あまり自覚することがないので、まるでそうしたことが無いかのように振る舞って見ていますが、この分類、比較をしてしまう問題は明らかに存在しています。よって、私たちが抱えている一番大きな問題の一つは、自然がどれだけ多くの要素を私たちの存在に与えてくれていても、それを感じられなくなっているということですその自然の要素を感じることも見ることも聴くことも知ることもできなくなっている私たちが自分を含む自然を信じられなくなっているのです。

私が動いてある速さをお見せし、それを見ても「その速さ」でなく、自分自身が見たことが信じられないのです。私たちの頭の上にある太陽が東から西へ移動する時に速度はありませんか? その時に力は働きませんか? この自然本来の運動のなかにすべての要素が含まれています。私が動く時と同じように。

問題は私たちがあまりにも自然から離れ不自然になってしまっていることです。そのため私たちはそこにある自然が見えず、聴こえず、感じられず、身体のなかで発生している自然運動に気付くこと自体が極めて希なことになって来ています。よって私たちは自然速度の速さを感じられないから、速度というものを人為的に計って、人工的な速さを作り出そうとし、その計った速度に自分を合わせ真似して出そうとします。私たちは自分で自作自演した速度しか信じられないんです。自然の速度がどんなものか、もう感じられなくなっており、そのため頼るものもなく心許ないので自分で人為的に「速度」や「力」を作り出してはそれに頼ってしまっているのです。

韓競辰導師
コ2 確かに私たちは学校の勉強を含めて、自分の外側にある正解を身につけようとすることが常識になっています。

 韓氏意拳の中級教程では、この最も重要な「勁」を教える時に、「驚力(キョウリキ)」という現象とそれに注目する訓練方法を通じて「勁」の要素を学習します。人が“驚く”時には人為的に作れない自然運動のすべてがそこに含まれ表現されます。これもまた私たち人間に初めから備っている自然運動です。武術、拳法、スポーツなどをする皆さんが心配している「自分はいざという時、実際に動けるのか、動けないのか?」と言った問題に対し、この「驚力」に内包されている“驚く”といった表現や感覚には動くために必要な運動要素が全て含まれています。

ただ多くの人は、その「驚き」のなかに自然運動に必要な要素が全てあるとは思いもよらないので、そのことを見落としてしまいます。私たちの自然に対する理解、認識、知識において、私たちは本から自然と備わっている要素の100分の1のことでさえも分からなくなっています。僅かな自然でさえも体会体認を経て認識、理解することができなくなっているのです。自然の中は本当に私たちの知らない未知で満ちています。ほとんどの場合、私たちが現代社会のなかで語る「自然」とは、概念やイメージとしての自然です。こういった自然についてのお話しを公にすると「あぁ、たしかに自然は素晴らしい!」「山や川、海などの自然は素晴らしい」などという方々もいますが、私は自分自身をも含む自然の話しをしています。

しかし、概念やイメージとしての自然、それもまた私たちが生きる社会的な条件下で出来た自然の捉え方で、これは既にどうすることもできないのです。ですから、私は生徒の手を握って、実際に触れ合うようにして、身体言語を通じて「自然」を伝えようとしているわけです。自分自身に目を向け“自分を含む自然”を理解して行くことが、私が皆に伝えたいことなのです

コ2 お話を伺ってきて、今日先生が稽古で指導されていたことは崩拳や歩法も含めて全部、技術ではなく自然運動ということが分かってきました。。

 そうです。様々な角度から自然運動を見ていますが、すべて自然に元からある運動形態で、それらは私たちが自然に還った時の動きです。そこに戻っていき、回帰していくわけです。人として世に生まれた時に自然であったように、その自然に戻っていきます。私たちは成長の過程で現代社会の人間として育てられてきました。そのなかで自然に備わっていた条件を見失ってしまったんです。そこに気づけるよう、こうして今日も私は韓氏意拳を通じて自然への戻り方を皆に伝えているのです

コ2 お忙しいところ貴重なお話をありがとうございました。
(後編 了)

 

韓氏意拳2007講座情報
日本韓氏意拳学会HPより

韓競辰導師、来日講習会情報

来る4月28日(金)から5月7日(日)、東京と岡山で、国際韓氏意拳総会会長・韓氏意拳創始人である韓競辰導師による講習会が行われることが決定、現在申し込み受付を行っている。会員向けの講座が中心だが、一般公開している講座もあるので、韓氏意拳に興味をお持ちの方は、この機会に実際に韓競辰導師に触れてみては?

詳しくはこちらへ。

 

連載を含む記事の更新情報は、メルマガでお知らせしています。
ご登録はこちらまでどうぞ。

–Profile–

国際韓氏意拳総会会長 韓氏意拳創始人 韓競辰導師
韓星橋先師の四男で、きわめて明晰な拳学理論と、卓越した実力の持ち主。現在韓家に伝わる意拳の指導に力を注ぎ、意拳の更なる進歩発展のために努められている。
国際韓氏意拳総会会長。(日本韓氏意拳学会 Web Siteより)

Web site 日本韓氏意拳学会