UFCとは何か? 第八回  「1999年、ドサ回りを続けるUFCと“格闘技バブル”が続く日本」

| 稲垣 收

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現在、数ある総合格闘技(MMA)団体のなかでも、最高峰といえる存在がUltimate Fighting Championship(UFC)だ。本国アメリカでは既に競技規模、ビジネス規模ともにボクシングに並ぶ存在と言われている。いや、「すでにボクシングを超えた」という声すらある。2016年のUFCのペイ・パー・ビュー(Pay-Per-View=1回ごとに料金を払って視聴する方式、略称PPV)契約件数では、年末のロンダ・ラウジー復帰戦が110万件だったほか、コナー・マクレガーがメインを務めた大会など合計5大会が100万件超で、アメリカ・スポーツ界の新記録をたたき出したのだ(*1)。だが、アメリカで隆盛を極めているMMAの歴史を振り返れば、その源には日本がある。大会としてUFCのあり方に大きなヒントを与えたPRIDEはもちろん、MMAという競技自体が日本発であるのはよく知られるところだ。

そこで本連載ではベテラン格闘技ライターであり、昨年4月までWOWOWで放送していた「UFC -究極格闘技-」で10年間解説を務めていた稲垣 收氏に、改めてUFCが如何にしてメジャー・スポーツとして今日の成功を築き上げたのかを語って頂く。

競技の骨組みとなるルール、選手の育成、ランキングはもちろん、大会運営やビジネス展開など、如何にして今日の「UFCが出来上がったのか」、そして「なにが日本とは違ったのか?」を解き明かしていきたい。

*1 これまで1つのスポーツで、PPV契約が100万件を超えた大会が年間最も多かったのはボクシングで、年3回。マイク・タイソン全盛期の1996年と、フロイド・メイウェザーとマニー・パッキャオが全盛期の2011年

世界一の“総合格闘技”大会 UFCとは何か?

The Root of UFC ―― The World Biggest MMA Event

第八回――1999年、ドサ回りを続けるUFCと“格闘技バブル”が続く日本

稲垣 收(フリー・ジャーナリスト)

前回は1998年10月に初めてブラジル開催されたUFCブラジル(UFC17.5)と、それまでのブラジルでの総合格闘技の歴史について書いた。

今回は、その翌年の1999年のUFCについて駆け足で見ていきたい。また、この時期にUFCと関わり始めた非常に重要な人物についても書きたい。後にズッファ社を設立し、SEGからUFCを買い取って社長となるデイナ・ホワイトである。

UFCは、今では文字通り「世界一の格闘技大会」となっている。昨年7月にUFCは、ロレンゾ・ファティータ会長率いるズッファ社から、世界的な芸能マネージメント・グループであるWME-IMGに買収されたが、その買収金額が40億ドル(約4150億円)という天文学的な数字だったため話題になった。ただ、その金額があまりに莫大だったため、投資した資金を回収できないのではないか、という危惧も出始めている。実際、昨年10月には米国の連邦準備制度理事会(FRB)が、WME-IMGに資金提供したウォール街最大の投資銀行ゴールドマン・サックスに対して警告を発している。

それに加えてUFC最大のドル箱スターだった女子バンタム級王者のロンダ・ラウジーが2015年11月にホーリー・ホルムにKO負けして王座陥落し、16年末の復帰戦でも新王者アマンダ・ヌネスに秒殺KO負けしたため、引退するかもしれないと見られており、UFCはスーパースターを失うことになる。

ただ、ロンダが王座陥落するのと前後してフェザー級でコナー・マクレガーがジョゼ・アルドを破って王座に就き、ライト級王座まで獲得して一気にスーパースターとなっており、この4月にはタイム誌によって「2017年、最も影響力のある100人」の1人に選ばれた。マクレガーは、一昨年引退したボクシング界最大のスーパースター、フロイド・メイウェザーJrから「俺が復帰戦をするとしたら相手の第一候補はマクレガーだ」と指名されており、両者のボクシング・マッチが実現するかどうかが、世界中で大きな話題となっている。もし実現すれば、天文学的な金額が動くメガ・イベントとなることは間違いないので、それによってマクレガーの専属契約を持つUFCも、大いに潤うことになりそうだ。

 

それはともかく、話を1999年に戻そう。

当時のUFCはズッファ社以前の最初のオーナー会社であるSEGによって運営されていたが、有力上院議員ジョン・マッケイン(後の大統領選でのバラク・オバマのライバル)らから「野蛮で危険な大会」というレッテルを貼られて強力なバッシングを受け、多くの州で大会が開催できなかった。そのため南部の田舎町でドサ回り興行を続けつつ、少しずつルールを改正し、健全な「スポーツ」としてアメリカ社会に認められるべく、努力を重ねてきた。

しかしそれでもなかなか経営状況は改善されず、当時“格闘技バブル”ともいうべき格闘技ブームに沸く日本や、もともとヴァーリ・トゥード(何でもあり)大会の長い歴史を持つブラジルに活路を求めた。1997年12月に初の日本大会を開催、翌98年10月には初のブラジル大会(アルティメット・ブラジル、もしくはUFC17.5とも呼ばれる)を開催した。

99年には、UFC18~23までの6大会を開催しているが、最後のUFC23は再度、日本で行われた。この99年も、日本ではまだ“格闘技バブル”が続いていたからである。

たとえばPRIDEはこの年、PRIDE5~PRIDE8までの4大会を開催し、うち3大会は横浜アリーナ、有明コロシアムなどの大会場で1万人超の観客を集めた。また前田日明率いるリングスは、8大会を開催している。2月の横浜アリーナ大会ではリングスの看板選手である前田が、レスリング五輪3連覇のアレクサンダー・カレリンを相手に引退試合を行って引退したため、前田人気に頼っていたリングスは失速が懸念されたが、若手スターの田村潔司を中心とした試合を組み、現役UFC王者のフランク・シャムロックも招聘するなど新路線を導入。さらに、10月からは第1回キング・オブ・キングス(KOK)トーナメントを開催する。「オープン・フィンガー・グローブ着用、ただしグラウンド状態での顔面への拳による攻撃(パウンド)はなし」というユニークなルールで行われたこのトーナメントには、ダン・ヘンダーソン、アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ、レナート・ババル、ヘンゾ・グレイシーら世界の強豪が出場して注目を集めた。(彼らの多くはその後、PRIDEやUFCで大活躍していく。)

また、パンクラスも14大会を開催。後楽園ホールなど小さめの会場が多かったものの、東京ベイNKホールなどの大会場での大会もあった。

そして、総合格闘技でなくキックボクシング大会ではあるが、K-1はこの99年も大人気で、9大会を開催。うち7大会が1万人超、ワールドGP開幕戦と決勝戦は大阪ドーム、東京ドームで行われ、それぞれ3万2千人、5万8千人という大観衆を集めた。(ちなみに、この99年にはミルコ・クロコップが3年ぶりにK-1に復活し、マイク・ベルナルド、武蔵、サム・グレコをKOして決勝進出し、決勝戦でアーネスト・ホーストに敗れたものの、一躍スターになった。ミルコが総合格闘技に参戦するようになるのは、この2年後の2001年からだ。)

 

日本でこのような格闘技ブームが続く99年、UFCは、まだ地味にアメリカ南部の田舎町でドサ回り興行を続けていた。ルール改正をしたり、フランク・シャムロックらをスポークスマンとしてメディアに登場させたりもしたが、なかなか状況は改善しなかった。だが、それでも彼らはあきらめず、地道に興行を続けて行った。

まずUFCブラジルの3ヵ月後の99年1月に、ルイジアナ州ニューオリンズでUFC18を開催した。

 

UFC18でヘビー級王座決定戦への進出をかけ、
リングスの髙阪がルッテンと激突!

UFC18はThe Road to the Heavyweight Titleと題され、新ヘビー級王者を決めるタイトル戦の候補者たちが戦った。97年12月のUFCジャパンでモーリス・スミスを破ってヘビー級王座を獲得したランディ・クートゥアがUFCを離脱してヴァーリ・トゥード・ジャパン1998に参戦したため王座を剥奪され、空位となっていたのだ。(ランディはヴァーリ・トゥード・ジャパンでエンセン井上に一本負けし、その後はリングスに参戦していく。)

王座決定戦への出場権をかけて、リングスの髙阪剛がパンクラス王者のバス・ルッテンと対戦した。リングスとパンクラスは、もともとは同じUWFから派生した団体だったが、当時は対立していた。その両団体の代表的な選手が海の向こうのUFCで激突したのは興味深い。

髙阪はUFC16で“ハワイの怪人”キモを、UFCブラジルでピート・ウィリアムスを撃破していた。

一方オランダ出身でキックボクシングをバックグラウンドするルッテンは、強烈な打撃を武器に鈴木みのるを破ってパンクラス王座を獲得し、同暫定王者だったフランク・シャムロックをTKOして王座統一、パンクラスのエース、船木誠勝にもKO勝ちしていた。そしてハリウッド映画のスターになりたいという野望を持ってアメリカに渡ったが、なかなかチャンスがつかめず、「UFC王座を獲ればアメリカで有名になれるし、映画出演もできるぞ」と勧められてUFC出場を決意したのだ。この髙阪戦がUFC初参戦であり、アメリカでの初試合だった。

 

不可解なブレイクで試合の流れが変わった
それがなければ、UFC初の日本人王者誕生につながっていたかも……

この試合で髙阪はルッテンの蹴りをキャッチしてテイクダウンし、上からパンチを落とした。何発も強烈なパンチを打ちこむ髙阪に、ルッテンも下からパンチで反撃。しかし髙阪が有利に試合を進め、サイド・ポジションに移行し、強烈なヒジやパンチをボディに打ち込んだ。ルッテンはハーフ・ガード(相手の片脚を自分の両脚で挟んだ状態)に戻すが、髙阪の打撃は止まらず、強烈な右パンチを何発もルッテンのボディに入れた。だが、ここでレフェリーのジョン・マッカーシーがブレイクし両者を立たせた。このブレイクには疑問符が付く。特に膠着していたわけでなく、髙阪は攻撃を続けていたからだ。

スタンドではルッテンが有利だが、また髙阪がタックルで倒して上になる。しかしまたもブレイクでスタンドに戻された。12分の本戦が終了後、3分の延長に入るとルッテンの打撃が冴えはじめる。髙阪はテイクダウンを狙うも防御され、最後はルッテンが右ストレートからヒザ蹴りを顔面に叩き込み、左右のパンチで追撃、髙阪はマットに崩れ落ち、レフェリーが試合を止めた。ルッテンのTKO勝ちだ。大激戦に観客は総立ちとなり、大きな拍手と歓声を送った。

これでルッテンが王者決定戦に進出となったが、グラウンド状態でのレフェリーによる早いブレイクがなければ、結果は違ったものになっていた可能性が高い。髙阪がパウンドを入れ続け、TKO勝利していたのではないだろうか。そうなっていたら、王座決定戦に進出し「UFC初の日本人王者誕生」となったかもしれない。仮定の話ではあるが……。

 

ただ、こうした「早すぎるブレイク」は日本の大会でも起こっている。たとえばミルコ・クロコップが最初にヴァンダレイ・シウバと戦った時、最終ラウンドにヴァンダレイがテイクダウンしてグラウンド状態で上からパンチを落としているとき、島田裕二レフェリーによってブレイクがかかり、ミルコは救われた。結果は、「判定決着なし」というルールだったため、ドローになった。だが判定があれば、ヴァンダレイの勝利だった。

 

ヒーゾはコールマンを破り、ミレティッチは初防衛

このUFC18では“路上の帝王”マルコ・ファスの弟子のブラジル人ストライカー、ペドロ・ヒーゾが、元ヘビー級王者マーク・コールマンと対戦。パンチと強烈なローでコールマンを攻め、2-1のスプリット判定で勝利した。

またこの大会ではライトヘビー級で“ハンティントン・ビーチの悪童”ティト・オーティズがライバルであるケン・シャムロック率いるライオンズ・デンのジェリー・ボーランダーをTKOした。

前回のUFCブラジルでウェルター級初代王者となったパット・ミレティッチは、ジョルジ・パチーノ・“マカコ”を破って初防衛に成功。そして、後にUFC初代ミドル級王者となるエヴァン・タナーもUFCに初参戦し、ダレル・ゴーラーを破った。タナーはそれまでパンクラスで活躍し、美濃和育久(みのわ・いくひさ、現ミノワマン)や國奥麒樹真(くにおく・きうま)を破っていた。

 

UFC19でランデルマンがモーリスを破り王座決定戦進出
チャック・リデルがUFCデビューするがホーンに敗れる

UFC19はUFC18の2ヵ月後の3月にミシシッピー州の小さな町、ベイ・セントルイスで開催された。この大会にはマーク・コールマンの弟子でレスリング出身のケヴィン・ランデルマンや、チャック・リデルも初参戦した。リデルは後にライトヘビー級王者となり、アメリカ格闘界のレジェンド的スターになる選手だ。

この大会でランデルマンは元ヘビー級王者モーリス・スミスに判定勝ちし、次のUFC20でルッテンと空位のヘビー級王座をかけて激突することになった。一方リデルは、ミレティッチの弟子で試合巧者のジェレミー・ホーンに一本負けし、オクタゴン・デビュー戦で黒星をつけられた。

ティトはライオンズ・デンのガイ・メッツァーと対戦し、UFC13で一本負けしたリベンジを果たしたが、試合後にメッツァーを「ゲイ・メッツァー」と呼び、メッツァーのセコンドについていたケン・シャムロックらに向かって中指を突き立てる「ファックユー」サインをして激怒させ、ライオンズ・デン軍団との遺恨をさらに深めた。

この大会にはUFC8、9、10、11.5、PRIDE1~4にも出場したゲイリー・グッドリッジも参戦し、アンドレ・ロバーツにパンチで勝利した。(グッドリッジはその後PRIDEに継続参戦し、“PRIDEの門番”と呼ばれることになる。)

 

UFC20でルッテンがランデルマンを破り戴冠。
ヴァンダレイが2度目の参戦で勝利

UFC19の2ヵ月後の99年5月、アラバマ州バーミングハムでUFC20は開催され、ルッテンがランデルマンとヘビー級王者決定戦を行い、スプリット判定で勝利して王座に就いた。その後ルッテンは王座を返上し、本来の体重に近いライトヘビー級に落としてUFC初の二階級制覇を目指そうとしたが、負傷が続き、1試合もすることなく引退した。

引退後は念願だった俳優の道をめざし、実際にいくつものハリウッド映画やTVドラマに出演している。ケヴィン・ジェームズ主演のコメディ『闘魂先生 Mr.ネバーギブアップ』(2012年)ではUFC出場を目指す主人公の高校教師のコーチ役で出演した。ちなみに、この映画にはヴァンダレイ・シウバやUFC現地解説者のジョー・ローガンも出演している。筆者もDVDで見たが、ルッテンは役者としても、なかなかいい味を出していた。

また猪木祭り2000でプロレスに初出場し、その後はバトラーツや新日本プロレスにも参戦した。

このUFC20ではペドロ・ヒーゾがトレイ・テリグマンをKO。そしてヴァンダレイ・シウバがUFCに2度目の参戦を果たし、トニー・ペトラを得意のヒザ蹴りにより2分53秒でKOしてオクタゴン初勝利を飾った。(ヴァンダレイは、この試合の4ヵ月後のPRIDE7でPRIDEに初参戦し、以後PRIDEで連勝街道を進むことになる。)

 

UFC21から試合時間が現在のルールに近いものに。ポイント制も導入

UFC21はUFC20の2ヵ月後の7月にアイオワ州の田舎町シーダーラピッズで開催された。この大会から試合時間の変更が行われ、プレリミナリー・カードの試合は5分×2ラウンド、メインカードの試合は5分×3ラウンド、タイトルマッチは5分×5ラウンドとなった。現在北米の総合格闘技で採用されているルールに非常に近い。(たとえば現在のUFCでは通常の試合が5分×3ラウンド、タイトルマッチおよび大会のメインイベントが5分×5ラウンド。)

またボクシングと同じ10ポイント・マスト・システムも導入された。これは各ラウンドで必ず両者の優劣をつけ、そのラウンドで優勢だった選手に10ポイント、劣勢だった選手に9ポイントあるいはそれ以下を付けるというものだ。ポイントはオクタゴン・コントロール(「試合を支配している」状態。ボクシングでいうリング・ジェネラルシップ)、有効な打撃、組み技、サブミッション、アグレッシブさに対して与えられる。

この新ルールの導入によって1ラウンドの時間が短くなったことで、寝ワザ状態での膠着を長く見せられることが減って、ビギナー・ファンにとって、わかりやすいものになった。また、ジャッジの基準が明確になったことで、判定決着の際も、ファンが見ていてわかりやすくなった。

ただしジャッジには、ボクシングやレスリングは詳しいが関節技はよく知らない者が多かったため、関節技を狙いに行った選手が相手を仕留めきれなかった場合はあまり高評価を得られない、ということが多かった。この問題は、最近数年ようやく減ってきたようだが……。

 

モーリスが“路上の帝王”ファスにTKO勝利

UFC21のメインでは元ヘビー級王者モーリス・スミスがブラジルの“路上の帝王”マルコ・ファスと対戦し、1ラウンドTKO勝利した。また髙阪はティム・レイシックに2ラウンドTKO勝利。

この大会では、和術慧舟會の高瀬大樹もUFCに初参戦し、ジェレミー・ホーンと対戦するが、1ラウンドでTKO負けを喫した。高瀬は、UFC3に参戦した体重270キロの巨漢相撲取り、エマニュエル・ヤーブローと98年6月のPRIDE3で対戦し勝利した選手だ。その後PRIDE26でアンデウソン・シウバ(後のUFCミドル級絶対王者。「史上最高の格闘家」と呼ばれる)に一本勝ちという大金星を挙げることになる。

 

UFC21のセミではウェルター級(当時はライト級と呼ばれた)のタイトル戦が行われ、王者ミレティッチが、ブラジルの柔術家アンドレ・ペデネイラスを1ラウンドTKOし、2度目の防衛に成功した。

ミレティッチは後にマット・ヒューズやジェンズ・パルヴァー、ティム・シルヴィアら多くのUFC王者を輩出する「ミレティッチ・マーシャルアーツ」の長であり、ペデネイラスも、自らの道場「ノヴァ・ウニオン」でジョゼ・アルドやヘナン・バラオンらのUFC王者や、戦極王者マルロン・サンドロらを育てる。だからこの試合は、後の名コーチ同士の対戦だった。

 

UFC21前にミレティッチに一本勝ちしていた中尾受太郎

このUFC21の5カ月前の99年2月にハワイで行われたスーパーブロウルという大会にミレティッチは参戦し、日本の中尾受太郎と対戦して、三角締めで敗れている。

中尾は98年5月に桜井“マッハ”速人と修斗ミドル級王者決定戦を戦った選手だ(マッハには判定負け)。日本人が現役のUFC王者に勝ったというのは、史上初の快挙であった。中尾は後に、2001年と2002年にUFCに参戦する。

 

UFC22でライトヘビー級王者フランクが
ティトを相手に4度目の防衛戦

リデルがUFC2戦目――マネージャーはデイナ・ホワイト

UFC22は、UFC21の2カ月後の99年9月にルイジアナ州レイクチャールズで行われた。

メインではライトヘビー級王者フランク・シャムロックがティト・オーティズと対戦、大激闘となった。

試合ではフランクがパンチと蹴りで攻めるが、ティトがフランクの蹴り足を掴んで倒すという展開に。フランクは下から腕十字を狙い、そこからさらにクルクルと動く。日本のパンクラスで修業しただけあり、UWF系のレスラーが見せる“回転体”的な柔軟な動きだ。

ティトはフランクの上になるが、フランクは下から打撃を入れる。フランクの下からのコントロールがうまく、ティトはあまり有効な打撃が打てない。2、3ラウンドもスタンドの打撃で攻めるフランクに、ティトがタックルで倒して上になる展開が続く。

そして4ラウンド、ティトがまたもタックルで倒すが、フランクは下からオープンハンドでの打撃を何発も入れ、ラウンド終了まで残り1分を切ったころ、一瞬の隙を見て体勢を入れ替えて上になり、すぐ立ち上がった。フランクはすかさずパンチの連打からヒザ蹴り、そしてパンチと怒涛の攻めを見せ、会場は大絶叫に包まれた。だが、またもティトがテイクダウン!

しかしフランクはティトの首を捉えギロチンチョークの体勢に。ティトはなんとか耐え、立ち上がろうとするフランクの右脚に片脚タックルの形でしがみつくが、これが墓穴を掘った。脚を掴むティトの側頭部に、フランクはヒジ打ちと鉄槌を連打し、ティトはたまらずマットを叩いてギブアップしたのだ!

死闘の果てのフランクの勝利に会場は総立ちとなり、いつまでも歓声がやまなかった。

敗れたティトは、フランク・シャムロックTシャツを着て、王者へのリスペクトを表した。この試合は年間ベスト・ファイトにも選ばれた。

 

勝利したフランクは引退宣言

フランクはこれで4度目の防衛に成功し、試合後のインタビューで、

「ティトは20ポンド以上俺より重いから、彼が疲れるのを待つ作戦だったんだ」

と明かした。

「俺よりハードに練習しているヤツはいないし、俺ほど賢く試合の準備をしたり、俺ほど練習仲間に恵まれている選手もいない。だからこの先、俺に勝てるヤツは存在しない。俺は自分の力を試しにここに来た。そしてそれを証明して見せた。だからこのベルトはこのオクタゴンに置いていき、引退したい」

と引退を宣言した。

だがUFCを運営するSEGのボブ・マイロヴィッツ社長は、

「この試合は私が見た中でも最高に素晴らしい試合の1つだ。キミは私がオクタゴンで見た中で最高のチャンピオンだ。もし引退したいならかまわないが、ベルトはキミのものだ。友よ、引退したいなら、ベルトを家に持ち帰ってくれ。キミほどこのベルトにふさわしい人はいない。UFC史上最高のチャンピオンなのだから」

と言って、ベルトを手渡した。

フランクはボブに感謝してベルトを受け取り、握手すると、ある少女のためにメッセージを語った。

「この試合を俺はアンジェラ・エスピノーサという女の子に捧げたい。幼い彼女は癌と戦ってるんだ。彼女の戦いの苦しさに比べたら、俺のこの試合なんて何でもない。それから俺のコーチたちにも感謝したい。彼らがいなければ俺は勝てなかった。そしてファンの皆にも感謝する」

そう言ってフランクは、UFCのオクタゴンを永遠に去った。当時のUFCで最も人気の高いスターだったフランクが去ったことは、UFCにとって大打撃だったはずだ。(ちなみにフランクは翌年の12月、東京ドームで開催されたK-1決勝大会で行われた総合ルールの試合で復帰し、エルヴィス・シノシックに判定勝利する。)

 

ティトとリデルのマネージャーとしてUFCにかかわったデイナ・ホワイト

ティト・オーティズはUFCと契約上の問題を抱えていた。それを解決してほしいとティトに頼まれてマネージャーになったのが、デイナ・ホワイトである。

また、チャック・リデルもUFCデビュー戦であるUFC19でジェレミー・ホーンに敗れてしまい、UFCから声がかからなくなっていたが、「もう一度UFCに参戦できるようにしてくれ」とデイナに頼み、デイナはリデルのマネージャーも引き受け、UFC22に参戦させることに成功した。

デイナはもともとアマチュア・ボクシング経験があり、ボクシング・ジムの経営をしたり、プロボクサーのマネージャーをしていた人物だ。

このデイナの高校時代の友人に、ラスベガスのカジノ王の息子のロレンゾ・ファティータがいた。彼らはあるとき友人の結婚式で再会して旧交を温めた。当時ロレンゾはネヴァダ州アスレティック・コミッションの副理事長をしていた。彼らは「そのうち一緒にボクシング大会のプロモーターになろう」と話し合っていた。

デイナ・ホワイト氏
UFC躍進のキーパーソンとなるデイナ・ホワイト氏。(撮影筆者)

 

そんなある日、ロレンゾの兄のフランクとデイナがハードロック・カフェにいると総合格闘家のジョン・ルイスが通りかかった。ヴァーリ・トゥード・ジャパン1997で“修斗のカリスマ”佐藤ルミナと引き分けた選手だ。彼らはルイスに声をかけ、彼から柔術を習うことにした。ロレンゾも加わって、3人はルイスの生徒になった。そしてデイナはルイスを通じてティトやリデルらと知り合い、彼らのマネージャーを引き受けることになったのである。

この出会いから数年後には、ロレンゾとフランクが資金を出してズッファ社を設立し、UFCをSEG社から買い取り、デイナを社長に据え、ロレンゾが会長になるのである。しかしそれについては次回以降、詳述することにしよう。

 

リデルが勝利、パルヴァー、ヒューズも参戦
マイク・タイソンの弟子のコーラーが壮絶KO

UFC22では、デイナの尽力でUFCに復帰したチャック・リデルがポール・ジョーンズに1ラウンドTKO勝利し、この試合から連勝街道を走り始めた。

ジョン・ルイスもローレル・アンダーソンにTKO勝ちした。

また後のライト級王者ジェンズ・パルヴァー、後のウェルター級王者マット・ヒューズも初参戦し、パルヴァーはアルフォンソ・アルカレズと引き分け、ヒューズはヴァレリー・イグナトフに判定勝ちした。彼らとミレティッチ軍団でのチームメートであるジェレミー・ホーンは、ジェイソン・ゴドシーに一本勝ちする。

また、ブラッド・コーラーが初参戦し、総合格闘技史上に残る壮絶な一撃KO劇を見せた。スティーヴ・ジャドソンの顎に強烈な右ストレートを叩き込み、ジャドソンの顎を切り裂き、失神KOしたのだ。開始からわずか30秒だった。糸を切られたマリオネットのように前のめりに倒れたジャドソンは意識を取り戻さず、呼吸困難に陥ったため、呼吸器をつけられて救急車で病院に搬送された。

コーラーはこの1ヵ月後の10月に東京でリングスKOKトーナメントに参戦し、山本宣久をグラウンドでのボディ・パンチで、1分57秒でKOして見せた。

筆者はコーラーにリングスでの試合前日にインタビューしたが、

「俺はマイク・タイソンのキャンプでパンチを特訓したことがあるんだ。明日はグラウンドでのパンチでKOしてやるぜ!」

と豪語していた。そして、小柄で筋肉の塊のような体型もタイソンに似たこの男は、予告通りみごとなKOをしてのけた。しかもパンチで山本の肋骨を骨折させて、である。これも前代未聞のKOだろう。

これは凄い選手が現れたものだ、と大いに期待したが、その後コーラーはイリューヒン・ミーシャに敗れたのを皮切りに、なんと11連敗を喫する。寝ワザがほとんどできなかったのである……。

 

日本で開催されたUFC23で、ランデルマンが新ヘビー級王者に

99年の最後の大会となるUFC23は11月14日に東京ベイNKホールで開催された。UFCにとって2度目の日本大会だ。

この大会のメインでは、ルッテンの王座返上により空位となっていたヘビー級王座をかけてケヴィン・ランデルマンがピート・ウィリアムスと対戦、判定勝ちして新王者となった。また、ペドロ・ヒーゾは髙阪剛にスタンド状態でアッパーを叩き込んでTKO勝利した。

日本人によるUFC-Jミドル級トーナメントも行われ、山本喧一が高瀬大樹と藤井克久を破って優勝し、UFC-J日本王者となった。これにより、山本は後日、ミレティッチの世界王座に挑戦することになる。

このUFC-Jトーナメントで優勝した直後のマイクで、山本は、

「偽善者・田村! 俺と戦え!」

とリングスのエース、田村潔司に対戦要求を要求した。山本はUWFインターナショナル時代から田村の後輩で、両者の遺恨は当時に起源をもつ。しかし結局、この対戦は実現しなかった。

このUFC22はテレビ東京が11月23日(22日の深夜2時すぎ)に録画放送をした。

 

UFC23のバックステージで安生が前田を襲撃!

このUFC23ではもうひとつ大事件が起こった。それも、オクタゴンの外で、である。安生洋二が、リングスの代表である前田日明をバックステージで襲撃したのである。

安生は新生UWF時代に前田の後輩だったが、UWF解散後、高田延彦率いるUWFインターナショナルに参戦し、「前田なんか過去の人。俺なら200%勝てる」と豪語し、前田を激怒させた。この発言以降、安生は“ミスター200%”と呼ばれ、注目を集めた。その後、前田は96年6月のファイティングTVサムライの旗揚げ記者会見で記念撮影をした際、後ろに並んでいた安生に裏拳を入れて鼻血を出させた。安生はこの時以来、前田に復讐する機会を狙っていたのだ。

UFC23に安生は当初出場予定だったが、負傷欠場していた。

前田は大会終了後、バックステージで記者陣の囲み取材を受けたが、その後、ひとりでバックステージに立っていたところに斜め後ろから安生が駆け寄り、いきなりパンチを浴びせ、不意を突かれた前田は意識を失って昏倒したのだ。

筆者はちょうどその時、前田の数メートル後ろにいて他の人と話をしていたのだが、何かダンと大きな音がしたと思って見ると、前田が床に倒れ、安生が悠々と歩み去っていくところだった。

筆者はすぐに駆け寄り、前田が額を切って少し出血していたのでポケットからティッシュを出して当てた。髙阪のセコンドとして来場していたモーリスも駆け寄ってタオルで拭いた。

まもなく前田は意識を取り戻したのだが、何が起こったのかまったくわからない様子だった。それもそうだろう、バックステージは薄暗く、そこで斜め後方からいきなり駆け寄ってきた人間に殴られたのだから。前田はその後、ドクターチェックを受けた後、自分の車で病院に行き検査を受けたが、幸い、大きなケガはなかった。安生は後日、傷害罪で前田に訴えられることになった。

 

UFC22の1週間後のPRIDE8で桜庭がホイラー・グレイシーを破る

UFC22から1週間後の11月22日、有明コロシアムでPRIDE8が開催され、メインで桜庭和志がホイラー・グレイシーと対戦、アームロックを仕掛け、ホイラーはタップしなかったが、レフェリーが骨折の危険があると判断して試合をストップし、桜庭の一本勝ちとなった。

ただしこの試合後、筆者はホイラーのセコンドとして来日していた兄ヒクソンと父エリオにインタビューしたが、

「ホイラーは関節が柔らかく、まったく痛みもなかったからタップしなかったのだし、あのレフェリー・ストップは言語道断だ!」

と2人とも激怒していた。

筆者は彼らの言い分が正しいと思う。そして判定なしルールだったので、あの「疑惑のレフェリー・ストップ」がなければ、時間切れ引き分けになっていたところだろう。(もし判定があれば、ハイキックを入れたりアームロックの体勢に入るなど、優勢に試合を進めた桜庭の勝利だろうが……。)

ともあれ、ホイラーへの勝利を宣せられた桜庭はマイクを掴むと

「次はお兄さん、戦ってください!」

とヒクソンに対戦要求した。しかしヒクソンは桜庭と戦わず、翌年東京ドームで行われたコロシアム2000で、船木誠勝と対戦して一本勝ちし、その後は長男のホクソンが急逝した影響もあって試合から遠ざかり、けっきょくそのまま試合することなく引退してしまった。

後年ヒクソンは、この時のことについて

「桜庭との対戦のオファーがあって、自分としては受けたかったが、長男のホクソンが亡くなって家族は皆悲しみに暮れ、バラバラになりかけていた。そういう時期に家族を離れて試合に向けての特訓に専念することは、自分にはできなかった。そうこうするうちに、桜庭はヴァンダレイ・シウバに敗れ、彼と戦う意味がなくなってしまったんだ」

と筆者に話してくれた。

 

このPRIDE8ではヴァンダレイ・シウバが桜庭の後輩の松井大二郎に判定勝利し、PRIDEで2勝目を挙げた。しかしまだ第1試合での出場であり、“PRIDEミドル級絶対王者”と呼ばれて大人気となるのは、もう少し先だ。

この大会ではイゴール・ボブチャンチンがフランシスコ・ブエノに強烈なパンチを叩き込んで1分23秒で秒殺KOし、会場を戦慄させた。筆者も見ていて鳥肌が立った。後に“北の最終兵器”と呼ばれるボブチャンチン伝説はここから始まったのだ。

セミではヘンゾ・グレイシーがアレクサンダー大塚に判定勝利している。また、元UFC王者のマーク・コールマンは“ブラジルの柔術怪獣”と呼ばれたヒカルド・モラエスに判定勝利した。

 

UFCが経営的に苦戦を続ける中、PRIDEでは桜庭が日本人ファンの悲願であった“グレイシー狩り”に成功してますます人気を高め、コールマン、ボブチャンチン、ヴァンダレイといったスター選手たちも揃いつつあった。

リングスもKOKトーナメントで世界の強豪を集め、ノゲイラやダン・ヘンダーソンといった新たなスターを創り出していた。

立ち技のK-1も、まだまだ人気絶頂だった。

UFCはまだ経営悪化に苦しんでいたが、デイナ・ホワイトがかかわり始めたことで、まもなく大きな転換点を迎えることになる。そしてそれは世界の総合格闘技界全体を変えていくことになるのだ。
(第八回 了)(文中敬称略)

 

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–Profile–

UFC190の生中継後、WOWOWのスタジオにて高阪剛選手と。
UFC190の生中継後、WOWOWのスタジオにて高阪剛選手と。

 

稲垣 收(Shu Inagaki
慶応大学仏文科卒。月刊『イングリッシュ・ジャーナル』副編集長を経て、1989年よりフリー・ジャーナリスト、翻訳家。ソ連クーデターやユーゴ内戦など激変地を取材し、週刊誌・新聞に執筆。グルジア(現ジョージア)内戦などのTVドキュメンタリーも制作。1990年頃からキックボクシングをはじめ、格闘技取材も開始。空手や合気道、総合格闘技、ボクシングも経験。ゴング格闘技、格闘技通信、Kamiproなど専門誌やヤングジャンプ、週刊プレイボーイ等に執筆。UFCは第1回から取材し、ホイス・ グレイシーやシャムロック兄弟、GSPらUFC歴代王者や名選手を取材。また、ヒクソン・グレイシーやヒョードル、ピーター・アーツなどPRIDE、K-1、リングスの選手にも何度もインタビュー。井岡一翔らボクサーも取材。

【TV】
WOWOWでリングスのゲスト・コメンテーター、リポーターを務めた後、2004年より、WOWOWのUFC放送でレギュラー解説者。また、マイク・タイソン特番、オスカー・デ・ラ・ホーヤ特番等の字幕翻訳も。『UFC登竜門TUF』では、シーズン9~18にかけて10シーズン100話以上の吹き替え翻訳の監修も務めた。

【編著書】
『極真ヘビー級世界王者フィリオのすべて』(アスペクト)
『稲垣收の闘魂イングリッシュ』(Jリサーチ出版)
『男と女のLOVE×LOVE英会話』(Jリサーチ出版)
『闘う英語』(エクスナレッジ)

【訳書】
『KGB格闘マニュアル』(並木書房)
『アウト・オブ・USSR』(小学館。『空手バカ一代』の登場人物“NYの顔役クレイジー・ジャック”のモデル、 ジャック・サンダレスクの自伝))