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本サイト連載「生きる練習、死ぬ練習」でもおなじみの藤田一照さん、『システム感情片付け術』(小社刊)の著者・小笠原和葉さんの対談を、3回に分けてお届けします。
第二回は、お二人の共通の関心事でもある「宇宙」について。星空体験から“私”の探求を始めた一照さん、宇宙というシステムに魅せられて研究の道を志した和葉さん、それぞれの「今に至る道のり」をお話いただきます。
対談/小笠原和葉×藤田一照 「宇宙と感情と身体」
第二回 “宇宙の中の私”という不思議
語り●藤田一照、小笠原和葉
構成●阿久津若菜
藤田 僕の星空体験のようなできごとは、本当は誰にでも起こっているのでしょうが、それをビビッドに体験するか、「フーン」という感じで通り過ぎていくか。
どっちがいい/悪いではないけど。引っかかってしまう人も、中にはいるのでしょうね。
コ2編集部(以下、コ2) 和葉さんは宇宙物理を専攻されたのち、「理系から癒し系に転身します!」とボディワーカーになったというエピソードがありました(本書209ページ)。一照さんも物理学者になりたかったという話を、きいたことがあるのですが。
藤田一照(以下、藤田) はい。物理も数学も好きでしたね。あちこちでお話はしていますが、子どもの頃の「星空体験」がきっかけだったと思います。「この世界は一体どうなっているんだろう?」という素朴な疑問から、すべてが始まった感じです。
小笠原和葉(以下、小笠原) その星空体験とはどんなことだったのかを、もう少しお聞かせください。
藤田 10歳くらいの時でしたか、前後関係は忘れてしまったのですが。とにかく夜、自転車に乗ってふと星空を見上げたとたんに、何かにガーンと打たれるような体験がありました。
「自分がなぜここに、こうしているかがわからない」「わからないということが、わかった」とでもいうのでしょうか、そういう何か大きな疑問みたいなものが、自分の中に宿ってしまったのですね。
僕はよく「何でお寺の出身じゃないのに、お坊さんになったんですか」「何で仏教に興味をもったのですか」と聞かれることがあって。自分でも「何でかな」と思って、いろいろ思い出していったんですよ。 きっかけをずっと遡っていくと、大体いつも、ここから以前のことを思い出せない最後の体験が、10歳の時の星空体験でした。
あの疑問に包まれた感じというのでしょうか、わからなさの感じというのが、きっかけとして大きいです。
小笠原 私もそれくらい、小学校に上がった頃でしたか……。
藤田 本にも書いてありましたね。そう、ここここ(と、本書200ページを示す)。
小笠原 そんなこと書きましたっけ? 忘れてた(笑)。そうなんですよ、ベッドに寝ているこの天井の上は空で、さらに上空を飛んでいったずっと先の「宇宙の果てはどうなってるんだろう?」「星が何にもない所、“何にもない”が“あるところ”、そんな宇宙の端っこはどうなっているのだろう……?」と思いながら、わけがわからなくなって寝ることを、繰り返していたんです。
藤田 宇宙の外の外ですよね。エッジの外側。その疑問は、考えるから生まれてくるものなんですかね。本当にそういう質問の持ち方が妥当なのだろうか? と。僕は高校生の時に、そういうことに興味を持ち始めたんです。
「不思議な宇宙は僕の外にあるのではなく、“不思議だと思ってる僕”が、その不思議さを作っているんじゃないか」「そういう僕の考え方自体が、不思議さを醸し出しているのでは?」と。
それまでは物理学に代表されるような、外の世界を読み解くことに興味があったのですが、高校生の頃から「それを不思議と思う“自分”は、何なんだろう?」という方が、おもしろくなって。それを探求するのが哲学という分野らしかったので、大学入る時点では「哲学を勉強したい。哲学といわれているものを、もうちょっとちゃんとかじってみたい」と思っていました。
小笠原 なるほど。私も大学を選ぶときは、心理か宇宙にするか迷いました。
藤田 似てますね。関心の持ち方の方向性が。
小笠原 でも私にとっては、“人間の心”はあまりにもブラックボックスで。「答えがないのは嫌だ」と思って結局、サイエンスの道を選びました(笑)。
空のことを考えていて不思議だったので、さらに外側にある宇宙のことを知りたいんだと思って、その研究をしたんですけど。面白かったけど、何かあんまりわかった感じはしなかったです。
やっと最近になって、私は宇宙が知りたかったのではなくて、宇宙の中で「今・ここに、私がいて宇宙を見ているという不思議」を知りたかったんだ! と思い直したところです。
藤田 そうそう、その感じです。
小笠原 だから私は今、「自分を含めた宇宙はどういうシステムになっているんだろう?」ということに興味をもって、探求しています。
藤田 僕の星空体験で、存在の不思議について大きなクエスチョンマークが「ドン!」と空から降りてきたケースと、似ていますね。多かれ少なかれ、人はその頃に抽象的に考える力が発達してきますから。
たとえばですが。そもそも“速さ”というのは、一つの変数だけでは計算できないですよね。「距離÷時間」という二つの変数があって、初めて計算できます。
時間は時計で、距離はメジャーで測れますが、その二つを割り算して「単位当たり○○(人間の歩行速度は平均4km/時間など)」という相対的な関係を計算するには、抽象的な思考ができないと無理です。そういうメタ思考ができるようになるのは、発達心理学では9〜10歳くらいからと言われているんですよ。
小笠原 そうなんですか?
藤田 そこでスッとわかるか/わからないかは、特に算数で問題になりますよね。よく分数のかけ算や割り算でつまづく子って、いるじゃないですか。百分率とか割合もそうです。
「割り算は、分母と分子をひっくり返してかけ算すればいい」と割り切って考えられる子もいますけど、「なぜそうしないといけないの?」と、そこで引っかかってしまうと、先に進めなくなってしまう。
でも学校教育の場合は、今は4年生ならここまで、5年生ならここまで、というカリキュラムが決まっていますから、そこでこだわって立ち止まる子、つまり素朴な疑問をもってしまう子は進めなくなりますね。
“わかることにこだわる”のは、僕は本来いいことだと思うんです。哲学って、それを臍(ほぞ)落ちする感覚に至るまで、とことん考えるわけですからね。
小笠原 なるほど。“わかることにこだわる”のは、子どもの発達過程で生じる学習段階という見方ができるんですね。
藤田 ええ。素朴な疑問を生み出すには、それなりの蓄積が必要だと思います。動物にはそういう抽象的な思考は必要ないというか、やらないし、できない。
僕の星空体験のようなできごとは、本当は誰にでも起こっているのでしょうが、それをビビッドに体験するか、「フーン」という感じで通り過ぎていくか。どっちがいい/悪いではないけど。引っかかってしまう人も、中にはいるのでしょうね。
人間の身体運動の発達についても、ステージがありますよね。運動の質がガラッと変わる時期が、1歳半までに3回くらいあるとされています。
身体の軸が変わる時期—四肢の統合とか、上下のつながりとか—、立って歩く、道具を使うなど、世界とどうやってコンタクトしているかを見ていくと、発達には確実に段階があります。
小笠原 私には6歳の娘がいるのですが、この先どうなっていくか楽しみです(笑)。私はボディーワーカーなので、発達段階を仔細に見ているかと思いきや、すごく原初的な欲求から、段階的に自分のやりたいことがだんだん出てきて、それを確認しながら進んでいる姿がすごくおもしろかったんですよね。
はじめはオッパイを飲むだけだったのが、好きなものができて。好きなもので自分の機嫌がちょっとずつ取れるようになると、今度は嫌いなものが登場して。好き/嫌いに対する反応もでてくる。
さらにコミュニケーションが取れるようになると、人にものをあげたがったり、役に立つことをしたがるかと思うと、物をバーンと投げて自分のパワーを確認する時期があって……
藤田 皆それぞれ、発達のシークエンスがあるんですよね。生き物はうまくできているというか、そうならざるを得ないようになってるんだと思いますね。
小笠原 そうなんだと思います。子育てをしていても、そこがすごくおもしろいです。
藤田 成長過程では、「お母さんと私(子ども)」という関係性の中に、「あれ」が登場する時期があります。三項関係といいます。要するに1人称、2人称、3人称が、認知世界の中に登場するのですね。この「あれ」の存在が大事です。言葉はそのためにありますから。
小笠原 たしかに。同じ月齢の同じ月に出産したお母さんたちの会があって、そこに子どもを連れていくと全員がこうやっている時期がありました(笑)。
藤田 指差しには、物の存在の発見というすごく深い意味があると思いますね。
小笠原 第三者がいるという認識にともなって、幼児の“指差し”が始まるんですね。自分の手をこうやって(と「ハンドリガード(顔の前に手をもってきて、ジーっと見つめる)」の動きをする)。
藤田 僕は、そういう発達段階にすごい興味があります。それと同じレベルで、「宇宙の初めとかものの始まりって、どうなっているのだろう?」ということにも興味がある。今はこうだけど、前はどうだったか、その前はどうだったか……と段々元をたどっていくこと。そういう宇宙の進化をテーマにした本も、増えてきましたよね。
小笠原 私は「時間とは何か?」がすごく不思議でした。
大学に入って研究すれば「宇宙のことわかるようになるかな」と思ったら、何のロマンもなくて、ひたすら数学の手続きを学んでいくだけみたいな感じで。そういう願いをもって宇宙物理学科に入学して挫折する人って、いっぱいいます。
でも大学の中で時間がどうの、空間がどうのと言っていると、「ブルーバックスレベルの話をサイエンティストがするな」と言われるんです(笑)。
藤田 ブルーバックスレベル。そういう言い方があるんですか(笑)。
小笠原 でも私が知りたかったのは、まさにその、ブルーバックスレベルのことで。ひたすら方程式の解き方みたいなのを学んで「この方程式から見たら、どう考えたって時間って逆行してるよね」と思っても、そういうところに“ロマンチックな問い”をもってはいけない、という雰囲気がすごくあったので。
私、小説を読んでいたら「そんな真実でないものを読んで君は、何がおもしろいんだい?」と言われたりしました。
藤田 僕は“ロマンチックな問い”への関心は、ずっともっていていいと思う。学部とか文系理系とかは関係なく、自分がおもしろく哲学できればいい。今のようなフリーな立場で考えたり話したりするのが、僕にとってはいいですね。
小笠原 私もやっと、ボディーワークの世界に入って、本当に知りたかったことに近づいてきたという感じがします。するとかえって「もうちょっと物理をちゃんと学んでおけばよかった」と思ったりもして。
藤田 それってボディーワークを、天文学の一種ととらえているんじゃない(笑)?
小笠原 そういうことなんですかね(笑) 。
私は、宇宙ってもともと、最初からジオラマみたいな姿ですべて存在していて、その中を時間「t」で走る電車に乗って風景を見た時“だけ”のことを、「物理」として扱っているんじゃないかと思うんです。この疑問を考え始めた頃は、すでに大学を卒業しましたからだいぶサイエンス的な思考回路も怪しくなってたんですけど。
だとしても、宇宙というシステムを今の状態(身体をもった人間の視点)から知るには、自分の意識とは、時間とは、一体何……? という疑問を通らざるを得なくて。
ボディーワークの「人と人がいるだけで互いに作用している」ことが前提になっている世界の見方を知ってからは、「宇宙全体のシステムがどうなっているのか」「時間って何だろう」といったことを、考えるのが楽しくなってきました。
藤田 なるほど。いわゆる「観測問題(※)」ってやつですね。
(※)量子力学で取り扱われる問題。「観測した人の“意識”が現実を決定する」というモデルが、J・フォン・ノイマンによって出された。派生した思考実験のひとつに「シュレーディンガーの猫」がある
小笠原 そうですね。私、観測問題をいまだにちゃんと理解してないと思うんですけど。
藤田 まだ誰も解いていないから、大丈夫ですよ(笑)。
(第二回 了)
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