藤田一照×伊東昌美「生きる練習、死ぬ練習」 第一回 「死」とは、全くわからないもの

| 藤田一照、伊東昌美

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コ2の連載「もっと! 保健体育」でもおなじみのイラストレーター・伊東昌美さん。エンディングノートでもある「自分♡伝えるノート(ジブツタ)」を広める活動もしています。その伊東さんが、曹洞宗国際センター所長の藤田一照さんのもとを訪ねて、「生と死」「私とは?」など、仏教から観る“生きる智慧”についてじっくりうかがいました。

対談/藤田一照×伊東昌美 「生きる練習、死ぬ練習」

第一回  「死」とは、全くわからないもの

語り藤田一照、伊東昌美
構成阿久津若菜

一照さん:
「チベットのお坊さんなんか、生まれた瞬間から死ぬ準備をする修行をするらしいですよね。いよいよ死ぬ時が来ると“やっと修行の完成の時だ”という発想。そういう、死が当たり前に人生に組み込まれている文化なのかもしれないですね」

 

伊東 私はイラストレーターなのですが、「自分♡伝えるノート(以下、ジブツタ)」という、いわゆるエンディングノートを開発して、その使い方を伝えるセミナーをひらいています。でもセミナーでは、エンディングノートを書く気で来た人が書けない、ということがあります。それは何でなのか……と思っていて。

藤田 それは自分が死ぬということがなかなかイメージできないからですか? それとも恐怖心のせいで、考えたくない、書きたくないといった嫌悪感みたいなものが湧き上がってくるからですか?

伊東 いろんな事情ですね。死ぬのが怖い人もいれば、書くのが面倒臭いという人もいて。あとはどうしても、エンディングノートを書くことを“死ぬための準備をする”という感覚で捉えてしまうので。そうするともう、「自分の人生は終わりに近づいていて、これから畳んでいかないといけないの?」と不安や淋しさを覚えて、書けないという人もいますし。

死というものを、ふだん身近なところに置いておきたくないというのも、エンディングノートを書きたくないひとつの理由にはなると思うんです。なので「死ぬ」ということについて、一照先生が……。

藤田 私を呼ぶときは「一照さん」にしてくださいね(笑)。

伊東 わかりました。いいのでしょうか?

藤田 いいんですよ、本人の僕が言うんだから(笑)。
チベットのお坊さんなんか、生まれた瞬間から死ぬ準備をする修行をするらしいですよね。いよいよ死ぬ時が来ると「やっと修行の完成の時だ」という発想。そういう、死が当たり前に人生に組み込まれている文化なのかもしれないですね。

伊東 それはチベットのお坊さんだけですか? それともチベットの人はわりと皆、それにあやかっている?

藤田 そうだと思いますね。だから死ぬまでに一度、カイラス山[編注:チベット高原西部にある峰で、チベット仏教、ヒンズー教、ジャイナ教、ボン教の聖地とされる]に巡礼に行きたいと、シャクトリ虫みたいに「お拝」しながら……。

伊東 「五体投地[編注:ごたいとうち。両手・両膝・額の五部分を、地面に投げ伏して祈りを捧げること。仏教において最も丁寧な礼拝のひとつとされる]ですね。

藤田 五体投地しながら聖地に行く巡礼を、死ぬ前にやることとして念願して生きている。遅かれ早かれ必ず死ぬことを当然の前提にして、若い時からそれなりのことを死ぬまでにやらなきゃいけない、やり遂げたいと念願していることが心の中にあるというのは、やはり死をいつも身近に想定しているのでしょうね。

伊東 なるほど。では一照さん個人として、「死」をどういうふうに捉えているかをお聞きしたいです。禅の観点から捉えた時に、どう捉えていらっしゃるのか。最初にそれからお聞きしてもいいですか?

藤田 「死」を僕らは普通、「生」の終わりにあるものとして考えていますよね。だから普段の生には死がない、死抜きの生をずっとイメージしている。つまり長い線の……、生まれた時に線が始まり、死ぬ時に線が切れる、線の始まりから終わりまでが生、というふうに考えていますよね。

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藤田一照先生

 

伊東 そうですね。

藤田 一口に仏教と言っても、インド文化圏と中国文化圏の仏教では、「死」とか「輪廻転生」に対する考え方が全然違っています。

インドの人たちは基本的に、文字通りの輪廻転生を非常にリアルに感じるような文化の人たちです。インドではお墓をつくらないんですよ。生まれ変わるわけだから。対する中国では、死んだら先祖になる。だからお墓がありますよね。 大きく分けると、中国文化圏とインド文化圏で死のもっている意味が大きく違うんです。どちらかが正しいのではなくて、死との違う折り合いのつけ方を選んでいると言った方がいい。

けっきょく、死は僕らにとっては基本的に、“生きている側からは絶対にうかがい知れないもの”だと思うんですよ。絶対の未知なるもの。だから、自分たちがともかく納得できるとらえ方で受け入れるしかない。それには一つじゃなくていろいろあり得るわけです。

ですから僕の考えでは、「死」とは“全くわからないもの”です。ないとかあるとか以前に、生きている側からはうかがい知れない、理解できないもの。「科学が発達すればわかる」とか、そういう話ではなく。

たとえば、死に方──死ぬ時に何が起きているかという、現象としての「死」──に関しては、科学が発達すれば、僕らがまだ知らない諸々の事実への知見はどんどん増えていくと思いますよ。だけど科学で解明できるレベルではない「死」というものこそが、死の本質的なものだと思うんです。

先ほどの生=長い線のたとえでいえば、線は点からできていますよね。点が動くとその軌跡が線になる。そして僕らは、点とは「生」が100パーセントだと思っているんだけど、「死」が線の終わりにあるのではなくて、その点の中にすでに「死」は忍び込んでいる。

生と死って一つというか、紙の裏表みたいに一つのもので、それでいて紙の表側(生の側)にいる人には、絶対に裏側(死の側)は見えない。でも、見えなくても(死は)あるんですよ。それが生の側からは絶対に、死をうかがい知れない理由の一つかなと思います。

伊東 この話を以前、とある席でお聞きしてすごく衝撃的だったんです。死は生の途切れた先にあるのではなくて、紙の裏と表という。
そして今お聞きした話だと、点の移動の跡として線があり、その一つ一つの点の中に「生」と「死」が同時に存在するという考え方も、すごく衝撃的です。

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伊東昌美さん

 

藤田 点の中に死が隠れているというか。その点が動いて線になる。

伊東 「え、それってどういうこと?」と思う方のために、もう少し詳しく説明していただけますか。

藤田 人間が死についていろいろ考えることは皆、「〜のような」という喩えでしかなくて、どうしてもメタファーになってしまう。

「死」そのものは、さっきから言っているように、絶対にこちらからはうかがい知れないもの。だから、あえて僕らがやれるとしたら「〜みたいなもの」と言うしかない。何を例に出しても、「死」のある一面、ある不思議な性質を想像するネタぐらいにしかならないと思うんです。

たとえば、生命現象として成り立っているこの僕らの肉体を見たら、常にどこかで何かが死んでいるわけですよ。

伊東 はい。細胞は日々、ごっそり死んでいますよね。

藤田 細胞の数としては……60兆個、いえ37兆個でしたか? それがどれほどすごい数なのか、僕にはありありとは実感できないけれど、無限にあるわけじゃないですよね。

日々生きつつ死んでいるんだけど、割合としては「生きつつ」の方が多いから生きているのであって。これが「死につつ」の方がだんだん増えていって、最後に「生きつつ」の方が10、9、8、7、6、5、4、3、2、1……0になると、「死」が100パーセントになる。だから生きつつ死んでいるという状態は、生物学的には別にそんな神秘主義の話じゃないわけですよ。生の中に死があってそれが生を支えている

でもそれはごく限定された「私」の中で起きていた、非常にユニークでローカルな現象の相が変わったくらいのことで、全体のシステムから見れば何一つ出入りがあったわけではない。

たとえばロウソクの炎は、火を点ける前には存在しないけれど、マッチを擦るとポッと点いて灯り続けますよね。でもこれは、同じ炎がずっと維持されているのではなく、ロウが溶けて芯に上っていく動き・変化の中にある炎なわけです。芯のところで燃えて、それが光とか熱とか煙になって拡散していく。

たとえこの炎が消えても、それを含むより大きなシステムとして見れば何もなくなったわけじゃないんですよ。ロウソクの形はもちろん、変わっています。ロウが芯を上っていって、燃えて、気体になっているから。

でも変わったのは形だけ。火が点いたことで、僕らが炎と呼んでいるある形が、ある一時期そこに生じただけ。炎としては滅したけれど、ロウソクを形づくっていたものはそのあり方と場所を変えただけで、全体としては変わっていないわけですよね。

ロウソクには「生」も「死」もないわけだけど、炎だけを限定して見るような窓(観点)からすると、ある時“点いて”ある時“消えた”といえる。だから仮に、この時の炎は「生まれて死んだ」といってもいいです。

でもこの時の、炎という現れは死んだとしても、ロウソクの総体は何も出入りしていない側面もありますよね。だからどこに目をつけるか。炎しか見ていなかったら「生まれて消えた」とか「死んだ」と、そこだけ見ればそう言える。

この炎と同じで、「これが私だ」と思うことがアイデンティティ=自己同一化の全てだとすると、「私が生まれて消える。全てが無くなる、それではイヤだ。消えたくない」と、駄駄をこねることになるわけですよ。

でも「私」という存在は自分の力だけで生きているのではないですよね。この場から、私が生まれてきたわけです。この私がなぜ、ここから出てきたのか? それは誰にもわからない。

伊東 今お聞きすると、仏教の1.0未満の人たち[編注:一照さんが『アップデートする仏教』(幻冬舎新書)の中で、山下良道さんとともに提唱した現代仏教の捉え方。形骸化した仏教=仏教1.0、方法・テクニックとしての仏教=仏教2.0、本来のこれからの仏教=仏教3.0を指す]は、そうした場や全体に気がつかないで「燃える炎としての自分」しか知らない人が多い。

「燃えている炎が私の全てだ」と捉えるから、生きることと死ぬことには、明確に変化や違いがあることになる。「自分はこういうものだ」というのが炎の中だけにあって、それが消えてなくなるから「死は怖い」と捉えると思うんです。

藤田 そうでしょうね。だから死が怖いとかイヤだというのは、最初からそういう感情や思いが起きてしまう考え方の枠組みがある。その枠組みの中にいれば、嫌だとか怖いという感情が必ず起きるようになっているんですよ。

「怖い死」が客観的にあるんじゃなくて、死を怖く感じさせる枠組みの方が先に、自分の中にあるんですね。

(第一回目 了)

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–Profile–

藤田一照Issho Fujita)写真右
1954年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。曹洞宗紫竹林安泰寺で得度し、1987年からアメリカ・マサチューセッツ州のヴァレー禅堂住持を務め、そのかたわら近隣の大学や瞑想センターで禅の指導を行う。現在、曹洞宗国際センター所長。著書に『現代座禅講義』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(山下良道との共著、幻冬舎)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』(春秋社)、鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド2』(サンガ)など多数。

Web site​ 藤田一照公式サイト

オンライン禅コミュニティ磨塼寺

 

伊東昌美Masami Itou)写真左
愛知県出身。イラストレーターとして、雑誌や書籍の挿画を描いています。『1日1分であらゆる疲れがとれる耳ひっぱり』(藤本靖・著 飛鳥新社)、『舌を、見る、動かす、食べるで健康になる!』(平地治美・著 日貿出版社)、『システム感情片付け術』(小笠原和葉・著 日貿出版社)と、最近は健康本のイラストを描かせてもらっています。長年続けている太極拳は準師範(日本健康太極拳協会)、健康についてのイラストを描くことは、ライフワークとなりつつあります。自身の作品は『ペソペソ』『おそうじ』『ヒメ』という絵本3冊。いずれもPHP出版。

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