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今回から始まるコ2【kotsu】不定期連載 武術探求シリーズ。この連載ではライターの岩淵讓二氏が武術マニアが気になりつつもなかなか一息では届かないコアなところをご紹介していく予定だ。
記念すべき第一回目のテーマは「倭刀術」。
倭寇が遣い、一説には陰流・愛洲移香斎が大陸へ渡り伝えたとも言われる刀術だ。通常、中国武術で使われる剣とは異なり、日本刀と同じく片刃で反り身、さらに双手で使うことが特色であり、その出自や技術については知られていないことが多い。
今回は「謎の剣術「倭刀術」とは何か?」と題して前編・後編の二回にわたりお伝えしたい。
コ2【kotsu】レポート 武術探求シリーズ01
謎の剣術「倭刀術」とはなにか?(前編)
文・写真●岩淵譲二
取材協力●倭刀術稽古会
倭刀術は対「倭寇」の秘策だった!?
倭刀術という言葉を一般に広めたのは漫画「るろうに剣心」だろう。しかしその倭刀術がフィクションの世界だけでなく、実在する武技であることはあまり知られていない。
中国武術界では主に苗刀とよばれる倭刀術は、その名が指す通り日本刀及びその操法の影響が強く残る。剣も刀も片手操法がオーソドックスなスタイルである中国武術の兵器の中で双手で操る苗刀は極めてイレギュラーな存在だ。そのイレギュラーな存在である苗刀を武壇(注1)では兵器の初級科目として指導しているという。
この武壇で指導されている苗刀=倭刀術を専門的に指導する稽古会があると聞いて取材に訪れた。
この倭刀術稽古会の師範を務める野村暁彦氏は蘇昱彰氏(注2)から螳螂拳、八極拳などを学んだ。この稽古会で指導される苗刀も蘇昱彰氏から伝授されたものだ。
ここでは苗刀の発生から武壇への伝播の歴史に触れておきたい。
のちに苗刀と呼ばれる双手刀が初めて歴史に登場するのは明の武将である戚継光が著した『紀效新書』という兵書においてである。
当時、明は度重なる倭寇の襲来に悩まされていた。明軍の将として指揮にあたった戚継光は、日本刀を用いる倭寇の襲撃に苦しめられ、何とかこれを打ち破ろうと苦心し、その攻略法を編み出すとともに敵の兵器とその操法を研究した。その成果が『紀效新書』に記されている。
『紀效新書』には倭寇を打ち破るために考案された兵器と、これを運用するための陣形や戦術が紹介されると共に、倭刀を参考にした双手刀の製法や訓練法などが掲載される。また驚くべきことに、『紀效新書』には陰流の伝書である『影流之目録』の写しも掲載されている。
戚継光がどのような経緯で伝書を入手したかは不明であるが、影流の開祖である愛洲移香斎は伊勢や九州の水軍とも繋がりがあったという説があち、倭寇ともなんらかの関係があった可能性は否定できない。また倭寇の実態は日本の海賊ではなく明の密貿易団であり、その7割以上が中国人で構成されていた。こうした関係性の中で、日本剣術の技法と伝書が中国に伝わった可能性は高い。
戚継光は、何らかの形で倭寇がもたらした倭刀の伝書と技法をもとに、辛酉刀法を創出した。
かくして日本の刀法をベースにして編み出された倭刀術は明の軍隊武術として用いられることとなった。
戚継光が編成した倭刀部隊はその後、北方の国境を脅かしていたモンゴルのアルタン・ハンの軍を撃退する活躍を見せ、その能力を遺憾なく発揮した。このように優れた戦果を残した倭刀術ではあるが、当時はあくまで軍隊武術にとどまり、いわゆる一般的に中国武術として認識される民間武術には取り入れられてはいなかった。
倭刀に関する『紀效新書』以外の文献としては、1621年に程宗猷が著した『単刀法選』、1644 年に呉殳が著した『単刀図説』などが知られているが、これらは後に民間武術として伝承されていった倭刀術に、大きな影響を与えたと考えられている。程宗猷は日本剣術を日本人から学んだという浙江の劉雲峰に学んで、この『単刀法選』 を著した。また呉殳も日本人から日本剣術を学んだという江蘇の石敬厳に学んで『単刀図説』を著したという。
歴史の渦に浮き沈みする倭刀術
明が倒れ、王朝が清に移り変わると、軍制も満州民族伝統の騎馬弓術が主体となり、さらに時代と共に主力兵器が刀槍などの冷兵器から火器へと推移していくと、倭刀術は軍制から姿を消していった。こうした流れの中で、軍を離れた明の兵士たちによって、倭刀術が民間武術に流入していったと考えられる。
しかし清朝は満州族による征服王朝であるため、清朝初期には漢民族の民間武術を反乱の火種として激しく弾圧した。こうして清朝初期の民間武術は清朝政府の目を逃れて地下に潜伏した。そのため詳しい記録がほとんど残っておらず、清代初期に倭刀術がどのように伝承されたのかも分かっていない。再び倭刀が姿を表すのは、清が倒れ、中華民国が興ってからである。
倭刀術は、清代に游方僧から河北の楊氏へと伝えられたといわれ、さらに楊氏から河北滄州の黄林彪と謝晉汾に伝えられたという。
謝晉汾の教えを受けた劉玉春と任相栄が、1920 年代初頭に北洋軍閥の曹錕に招聘され、河北保定の練兵場に設立された武術営の教練として倭刀術の指導に当たった。当時、その形状が苗に似ているところから苗刀と呼ばれていたため、曹錕の武術営は苗刀営と呼ばれるようになった。
現在、用いられる苗刀という呼称がいつどのように始まったのかは不明であるが、広く定着したのはこの頃とされる。
黄林彪は劈掛拳の使い手であり、劉玉春は通臂拳の使い手であったため、現在、河北に伝わる苗刀の多くは通臂拳(通背拳) や劈掛拳の兵器として伝わっているものが多い。
1928 年、武術の研究と優秀な武術家の育成を目的として、中華民国の首都である南京に中央国術館が設立された。劉玉春の伝を受けた郭長生と黄林彪の伝を受けた馬英図も教練に任命され、苗刀が正課に採用された。
郭長生と馬英図は、苗刀の教材として、それぞれが伝える謝氏と黄氏の苗刀を融合して1本の套路にまとめた。この套路は基本技法を中心に構成されているため、後に郭長生は苗刀の応用技法を主体とした套路を編纂し、以降、もともとの套路を苗刀一路、新たに作った套路を苗刀二路とした。
一方、1925 年に馮玉祥将軍の要請によって、馬鳳図を中心とした武術名家たちによる軍事訓練のための武術研究を行う、白刃戦術研究所が設立された。
ここで馬鳳図は弟の馬英図とともに『破鋒八刀』と『白刃戦術教程』を編纂した。これらは大刀または砍刀とよばれる刀を用いた中国式の軍刀術である。ここで用いられる大刀は、身幅が広く、 宋代から用いられていた手刀という刀に近い形をした典型的な中国刀だが、従来の手刀よりも柄が長く作られていて、その操法は馬鳳図、馬英図らによる双手刀術がベースとなっている。
日中戦争時、火器などの装備が慢性的に不足していた中国軍は、この大刀を用いる大刀隊を結成した。大刀隊は長城抗戦(関内作戦)において日本軍を相手に奮戦し、最終的には撤退したものの、その活躍から次第に抗日戦の象徴となっていった。現在中国で連日放送されている反日ドラマでも、八路軍の兵士が大刀で日本兵を斬殺するシーンが度々登場する。明代に伝えられた日本剣術の末裔が反日の象徴のひとつとなっているのは、なんとも皮肉なことである。
中央国術館の第一期生として首席で卒業し、教授班に所属していた韓慶堂(注4)は、国共内戦に敗北した国民党軍と共に台湾に渡り、梅花長拳、教門長拳などと共に苗刀を伝えた。韓慶堂が台湾で教授した苗刀は、郭長生と馬英図が編纂した套路から、さらに双手刀術のエッセンスを抽出したかのようなシンプルな技法で構成された、4本の短い套路から成る四路苗刀である。
現在、武壇系の団体で練習されている四路苗刀は、韓慶堂に教えを受けた徐紀氏(注5)によって武壇に持ち込まれたようだが、あるいは徐紀氏自身が韓慶堂から学んだ苗刀や軍事教練用の破鋒八刀から技法を取捨選択して、四路苗刀としたのかも知れない。
いずれにしても、徐紀氏によって持ち込まれた四路苗刀は冒頭に述べたように武壇では初級科目として指導されている。中国武術の兵器としては非常にイレギュラーな存在でありながら、この兵器が初級者に伝授される理由は、蘇昱彰氏の説明によると、苗刀という刀術が中国武術の四大兵器とされる槍・棍・剣・刀の操法の要素を合わせ持っているため、これらを専門的に学ぶ前の、総論としての学習教材に最適であるからであるという。
注1 武壇
正式名は武壇国術推広中心。八極拳の高手李書文の関門弟子(最後の弟子)であった劉雲樵が台湾で設立。多くの著名な武術家を輩出した。
注2 蘇昱彰
若くして螳螂拳の名手として台湾に名を轟かせ「閃電手」と呼ばれた。のちに劉雲樵に拝師(正式な弟子となること)して八極拳などを学び、武壇の前身である武学研究社で教練を務める。その後八極螳螂拳を創始し、世界中で指導を行う。現在は大東山八極門・八極螳螂武藝舘を主宰し、後進の指導に当たっている。漫画『拳児』(小学館)に登場した「蘇崑崙」のモデル。
注3 馬鳳図
河北省滄州孟村の出身の回族。馬英図は弟にあたる。八極拳を伝える呉家とは親戚にあたり幼少の頃からそれを学ぶ。のちに黄林彪から劈掛拳を学び、さらに翻子拳や戳脚を加えて通備拳を創始した。
注4 韓慶堂
南京中央国術館の第一期生であり、首席で卒業し、後に教授となった。拳術、兵器ともに優れていたが、特に擒拿術(関節や経絡を攻める逆技系の技術)に優れ「千手擒拿」と呼ばれた。政変後台湾に渡り警官学校の武術教官となり広く指導を行った。
注5 徐紀
韓慶堂に師事した後、劉雲樵に師事して劈掛掌、八極拳、迷踪拳などを学び、また劉雲樵の命によって杜毓沢から陳家太極拳を学ぶ。武壇のでは総教練を務めた。現在は「止戈武塾」を主宰する。
苗刀の特徴
上の写真は日本剣術の木刀と苗刀の木刀を並べたものである(下二本が苗刀)。形状こそよく似ているものの、日本刀より長大であることがわかるだろう。特に、柄は異様なまでに長い。
苗刀を扱う際はこの柄の両端を握ることになるので必然的に両拳の幅は一般的な日本剣術よりも広く、肩幅と大体同じ長さになるため一重身での操作に適している。
また腕に添えると肘の長さとほぼ一致するため、片手持ちから両手持ちに変化させる際、自分の肘を触りに行けば正しく柄を拾うことができる。混戦など思考を働かせる隙がない時でも柄の長さをいちいち考えることなく正しく持ち方を変えることができるというメリットもある。
木刀に鍔が付いていることも苗刀の特徴を表している。日本剣術の木刀でも流派によっては鍔を付けるが、苗刀の木刀においては、鍔は必須の存在である。これは苗刀の操法に鍔の存在が不可欠であることを表している。
操法としては日本剣術と類似する部分も多い中、先に述べたように四路苗刀は四大兵器の要素を備えるという特徴を持つ。
独特の形状と伝承の経緯から日本剣術の遺伝子を残しながらも中国武術的特徴も強く持つ兵器が苗刀=倭刀術である。
後編は苗刀の操法について紹介していきたい。
(前編 了)
[歴史参照資料]
「倭刀術考」情報と調査NO.108 20154・5月合併 著・野村暁彦
倭刀術稽古会については以下のサイトを御覧ください。
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