2017年8月17日(木)、新刊『生きる稽古 死ぬ稽古』発刊記念イベントが東京・八重洲ブックセンターにて開催されました。こちらでは著者である藤田一照先生と伊東昌美さんが、【生と死の不思議を笑って語ろう】というテーマで、本書のできた成り立ちと、そのなかで見えてきた遠くて近い生と死とどう向かい合えば良いのかについてお話しいただきました。
コ2では、当日の模様を連載でお届けします。また本でも使われている、3年弱の取材の間に撮影された茅山荘でのお写真も紹介していく予定ですのでお楽しみに。
『生きる稽古 死ぬ稽古』(日貿出版社)出版記念
対談/藤田一照×伊東昌美
【生と死の不思議を笑って語ろう】
第4回 カラッとした死
語り●藤田一照、伊東昌美
構成●コ2編集部
協力●八重洲ブックセンター
「(死は)もっとカラッとしてるもんなんじゃないか」(藤田)
伊東昌美(以下、伊東) この本のあとがきに一照さんが書いてくれた文章で、これは是非読んで欲しいんですけど、そこに書いてある通り、私たち結構大笑いしてました。「死んだらどうなる」とか、「生きてるときはどうなの?」とかを。ヘビーなはずのテーマだったんですけど。
藤田一照(以下、藤田) 写真も笑ってる写真ばっかりですね。死っていうのは、「あっけらかんと起こってることなんじゃないかな」っていう感じがするんですよ。あれは、ブリューゲルという画家の作品に『イカロスの失墜』という絵があるんですけど、前景はお百姓さんが確か畑で、牛か馬かで畑を鋤いていて、それが絵のほとんどをうめちゃっているんですよ。
「おいおい、肝心のイカロスはどこ?」って目を凝らすと、背景に海が見えていて、そこによく見ないと見逃すぐらいの大きさでイカロスが海にぼちゃんと落ちてるのが描かれている絵なんですよ。足と翼みたいなのが少し海からのぞいている。
イカロスは太陽に近付いて羽を留めていたろうそくが溶けて落ちちゃったという、凄くドラマチックな場面のようだけど、実はお百姓さんの目から見たら、あるいは日常からとらえたら、イカロスは誰も気が付かずに海にぽちゃんと落ちた程度のものだっていう、多分そういう含みがあるんだと思うんです。本当にどういう意図でああいう構図になってるのか分かんないんですけど。
ただ、その絵が示しているように、死なんていうのは日常茶飯事で起きてて、もっとカラッとしてるもんなんじゃないかというふうに僕は思うんです。それをどうしても深刻にしてしまうものが僕らの中にはあるんだけど、自分の死ももっと、突き放して、といったらおかしいですけど、カラッといかないものか。
死ぬというのは全ての人に平等で、それが交通事故だろうが、ガンだろうが、死ぬ条件は違っていても、とにかく誰もが死ぬわけです。僕が今言ったようなことは全部死ぬときの条件であって、死そのものの本質というところでは同じなんじゃないかと。
その姿は違うかもしれないけど、死ぬっていうところにおいては、イカロスの失墜じゃないけど、「ぽちゃん」と、「はい、おしまい」っていう感じで、ピリオドというところでは同じなんじゃないかと思うんですね。そこになんとなく、おかしみというかユーモアさえ感じませんか?
色々な文章があって、悲劇的な文章があるかもしれないし、それから喜劇的な文章があるかもしれないけど、最後の「。」で終わりの後は、みんなどんな文章だろうが白紙になるじゃないですか。ああいう、なんかもう少しカラッとしたものなんじゃないかなと。分からないから、カラッとしてるんですけどね。死をじめじめしたものじゃなくイメージできないものか、と思うんですよ。。
僕のイメージしてる「分からなさ」っていうのは、霧がかかってもやもやしてて、じめじめと不透明な分からなさではなくて、青空みたいにどこまでも透き通ってて、はっきり、カラッとしてるんだけど、どこまでいっても「果てが分かんない」みたいな、そういう分からなさなんです。そういうイメージでの神秘なんですよ。だからもっとカラッと透き通ってる感じの分からなさっていうことですね。そういうイメージで僕は捉えてるんです、分からないなりに。
司会 面白い分からなさですね。
藤田 僕は「何で伊東さんと笑いながら死の話ができたのかな」っていうのを、あとがきを書きながら思ったときに、「ああ、僕にとって死の分からなさっていうのは、そういうカラッとしてるものだったからだ」と思ったんですね。だから軽い感じの笑いを出しながら死について語れたんじゃないかな。それもあってあとがきを頼まれたときに、まず最初の文章が浮かんだのは、「よく笑ってたな」っていう書き出しでした。
伊東 本当によく笑いました。
藤田 それはなぜだったのかなっていうふうに考えて、あのあとがきを書いたんですけどね。
「(男性は)あんまり自分の感情に触れてきてない」(伊東)
伊東 あと、この本の後ろのほうに一照さんにもちょっとエンディングノートを書いてもらって。
藤田 それは正直ちょっと困りましたね。できたら掲載はやめて欲しいと思いましたね(笑)。まず字が汚いのと、あと大したこと書いてないので、みんなをがっかりさせちゃうんじゃないか、心配だった(笑)。
伊東 そういう軟らかいところが入っているのは、この本が初めてじゃないかなと思うんですけど。
藤田 それについてコメントというか、何かいろいろ突っ込んで聞かれたところもありますよね。
伊東 ありますね。
藤田 ちょっとプライベートなことも書いてありますね。
伊東 ジブツタのノートそのものには入ってないんですが、喜怒哀楽を書くところがあって、今日は男の方もたくさんいらっしゃってるので、ちょっとそこは伝えたいことがあったんです。講座で「自分の感情の中の喜怒哀楽を書いてください」って言うと圧倒的に男の人が書けないんです。
司会 それはどうしてでしょう?
伊東 あんまり自分の感情に触れてきてないからだと思うんですね。「そんな急に今までで楽しかったこととか、今までで一番腹立ったことなんて聞かれても分からない」という男性がすごく多いんです。ですから、皆さんも、後で帰りの電車の中ででもちょっと自分の今までの人生の中の喜怒哀楽っていうことを振り返っていただけたらなと思うんです。
この質問を一照さんにしたときに、全部家族絡みの話だったんですよね。それがちょっと私としては不思議で。お坊さんってもっと自分だけのところに入ってる人が多いのかなって勝手に思い込んでたところがあったんです。
藤田 そうですか。僕はお坊さんとしては少数派なんで(笑)。
伊東 そうしたら一照さんから返ってきた答えが、「自分だけで生きてたらそんな感情が動かないんじゃないか」ということで、「やっぱり他者との関わりの中で感情って出てくるんじゃないの?」みたいなことを仰ってて、「そうだよな」と。
藤田 僕も修行を始めて10年ぐらいの間は、どんなことが起きても感情の波風が立たないような、不動心という言葉がありますけど、「揺れない、ぶれない、動揺しない、そういう境地に到達したいな」ということを思ってたんです。
だけど、10年ぐらいアメリカにいるうちに、向こうは日本よりはるかに自由度が高くて、別の仏教伝統の瞑想のリトリートをやったり、チベット仏教やヨーガ、いろんなボディワークのワークショップに出たりすると、「今、あなたは何を感じていますか?」みたいなことを言われるんですね。それをグループ・シェアみたいな形で表現する時間があったり、本にも書いてあるけど、紙を1枚渡されて「それを文字にしてください」みたいな、「journal」っていうんですけど、そういったものを瞑想の後に毎日書くとかがあって、「ええ? そんなの日本でやったことないよ」と驚いて……。
伊東 やっぱりそうですよね。
藤田 はい。そういう経験と、あと、僕自身がやっぱり、何というんですかね、遮二無二極端なものまで含めて修行っぽいことをそれまでいろいろやってきたんですけど、四十近くなってくると、「これって何か大事なものを置き忘れているんじゃないか?」、あるいは「意図的に何かを避けてるんじゃないか?」っていう思いを持つようになっていったんです。
その何かというのは、「他者との関係もちゃんと修行の中に入れてやる」ということです。それも教える人、教えられる人とかそういう役割を通した関係じゃなくて、あくまでも対等な人間関係で、しかも、責任が伴うもので、家族やパートナー・配偶者っていうようなものです。
ある時点まではそういう人間関係は「お荷物以外の何物でもない」「修行の邪魔でしかない」と思っていたので、切り捨てていたんです。
かつての僕はそういう人間だったわけですね。そういう頃を知ってる人から見ると、「ええ? あんな一匹狼みたいだった人が羊みたいになっちゃって」みたいに言われて、「魅力半減」とか「あのぎらぎらした感じがなくなってしまって、牙が折れたみたい」と(笑)。だけどそれを聞いて「ああ、そう見えるんだ? うん、それなら良かった」と思いましたね。それでいいんだと思ってましたから。
そんなことを今回書いてみて、後から伊東さんに指摘されて、「ああ、そうだったのか」と自分であらためて思いだしましたね。「家族を持ったおかげで自分がこんなに怒れるんだ、自分がこんなに喜べるんだ」みたいな、自分の感情っていうものが枯渇しないで、むしろ豊かになったって。
司会 より深みを増した感じなのですね。ただ一般にお坊さんというと、そうした世俗とは無縁のイメージですね。
藤田 僕、実はかなり昔ですけど、『フィーリング・ブッダ』(デイビッド ブレイジャー著)という本を翻訳したんですよ。やっぱり西洋でもブッダっていうのは何が起きても悲しみもしないけど、喜びもしない、フィーリングのない、なんかゾンビみたいにイメージされてるわけです。それが悟った人の姿だというふうに思われてるんだけど、この『フィーリング・ブッダ』っていうのを書いた人は、イギリスのサイコセラピストで、禅をやっていたんですが、そのうちやっぱり禅があまりにも慈悲っていうか、自分勝手な、自分一人で悟り澄ましているみたいな傾向が強いので、それに疑問を持って、浄土系の仏教にシフトしたような方なんです。僕も何回か直接お会いしてお話しした人なんです。うちにも泊まってもらったことがあります。
『フィーリング・ブッダ』で主張されているのは、ブッダだからこそ深い感情を持つことができるんだっていう、一つのアンチテーゼだったんです。そういう本を、面白いと感じたからこそ訳そうと思ったんですけど、当時縁があってそういう本を訳したこともシンクロでしたね。当時の僕の琴線に響く本だったんでしょう。
家族を持ったことで、そういう責任のある対等の人間関係の中で、自分の感情の振れ幅、強度、バラエティーを自分が思っていたよりはるかになままなしく実感することができました。僕にとってはすごく修行になっている。当然、痛みも伴ってますけど(笑)。
僕という人間の貧しい人生を豊かにしてくれている大事なものだなと思っています。
だから、仏教が真正面から取り上げて、これから取り組まなきゃいけないのは、性も含めた家族の問題とお金に関わる仕事、職業の問題だと思います。生業と言った方がいいのかな、ライブリフッド(livelihood)、生計。「社会の中でどうやって生計を立てていくか」っていうことですね。
司会 そこは今日的な仏教を語る上では大事なテーマですね。
藤田 これまでの仏教というのはそういう性とお金に関わる分野は全部切り捨ててきているわけです。お坊さんになるっていうことは、まず家族を持たない。リプロダクション(reproduction)と言いますよね、生殖しないっていうことですね。それを放棄する。それから「プロダクション(生産)に関わらない」。「これまでの仏教」は、性やお金に関わることを切り離す形で、その問題に答えを出してきましたが、「これからの仏教」はそれを仏教の問題として改めて正面に据えて、切り離さない形でどう修行の中に組み入れていくか考えていかなきゃいけない時代かなと思うんですよ。
僕の場合、家族を持ってからも、ずっと定職に就いたことがなくて、何でも屋のような形で生計を立ててきました。それで何とかなってきたのは、ラッキーといえばラッキーだったんですけど。日本に帰ってきてから55歳になって初めて、「曹洞宗国際センター所長」って肩書がついたような人間なんです。ですから、家族と生業の問題に関して、まだまだ未熟な考えしかありません。これまでの仏教は、それを修行と切り離す立場でしたから、あまり参考になるような先例がないんです。
だから、これから空白地帯を開拓していかなきゃいけない領域なんですね。これはやっぱり他の分野の人たちと、実際に現役で家族やってる人たち、現役で仕事をしている人たちとクロスしながら、みんなが考えていかなきゃいけない問題だなと思うんです。ジブツタを無理やり(笑)書かされたことでそのことを再確認できたなと思っています。だから、感謝してますよ。
伊東 無理やり書いてもらいました(笑)。
藤田 (笑)無理やりでも書いてよかったなあ。
(第四回 了)
新刊情報『生きる稽古 死ぬ稽古』(藤田一照・伊東昌美著)
「絶対に分からない“死”を語ることは、 同じく不思議な、“生”を語ることでした」
私たちはいつか死ぬことをわかって今を生きています。
でも、普段から自分が死ぬことを考えて生きている方は少ないでしょう。
“あらためて、死ぬってどういうことなんだろう?”
この本は、そんな素朴な疑問をエンディングノートプランナーでイラストレーターをされている伊東昌美さんが、禅僧・藤田一照先生に伺う対話となっています。
人生の旅の果てに待っているイメージの死。
ですが藤田先生は、
「生と死は紙の裏表みたいなもの」で、
「生の中にすでに死は忍び込んでいる」と仰います。
そんな身近な死を語るお二人は、不思議なほど“愉しい”様子でした。
それは、得体の知れない死を語ることが、
“今この瞬間を生きている奇跡”を感じるからだったのかもしれません。
そう、死を語ることは生を語ることであったのです。
“どうして私は生きているのだろう?”
一度でもそんなことを考えたことがある方へお薦めします。
単行本(ソフトカバー): 255ページ
出版社: 株式会社 日貿出版社
ISBN-13:978-4817082398
発売日: 2017/8/22
全国書店、アマゾンで好評発売中です。
藤田一緒先生が登場する、セミナーのお知らせ!
来る11月5日(日)、藤田一照先生と刀禅創始者・小用茂夫先生によるコ2企画・コラボレーションセミナー「静中の動を身体に問う」が開催されます。藤田先生ならではの禅へのアプローチと、日本発のボディーワーク・刀禅とを一緒に学べる貴重な機会となっています。お見逃しなく!
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–Profile–
●藤田一照(Issho Fujita)写真右
1954年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。曹洞宗紫竹林安泰寺で得度し、1987年からアメリカ・マサチューセッツ州のヴァレー禅堂住持を務め、そのかたわら近隣の大学や瞑想センターで禅の指導を行う。現在、曹洞宗国際センター所長。著書に『現代座禅講義』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(山下良道との共著、幻冬舎)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』(春秋社)、鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド2』(サンガ)など多数。
Web site 藤田一照公式サイト
オンライン禅コミュニティ磨塼寺