対談 藤田一照×小用茂夫 03「歩の中に起きる崩れ」

| 藤田一照、小用茂夫

去る11月5日に行われたコ2【kotsu】発のイベント「静中の動を身体に問う」で行われた、禅僧・藤田一照先生と刀禅創始者・小用茂夫先生による対談の模様を数回に分けてお伝えします。

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コ2【kotsu】イベント“静中の動を身体に問う”より

対談/藤田一照(禅僧)×小用茂夫(刀禅創始者)

第三回 歩の中で起きる崩れ

語り藤田一照、小用茂夫
構成コ2【kotsu】編集部

 

 藤田先生、小用先生

 

両手太刀の中でしか生まれない課題

藤田 日本刀が自由自在に使える体を育てて行ったわけですか。人類のほんの僅かな人たちが、自然よりもっと高度な洗練された超自然の動きというものを追求した。刀禅はその人達が見出した体の動き方を稽古しようということなんですね。

小用 それらを担った人々が、支配階層として数百年間君臨した事実も大きな要因ですよね。台頭期には乱暴狼藉者も多かった訳ですが、頂点に立つとそのままでは立ちゆかなくなる。法や礼を説かなくてはいけない。いわば日本刀を携帯し扱うプロ集団ですから当然そちらの専門分野の探求もする

そんななかで両手太刀という特殊な形態のなかで、動は単なる動でなくなるほどの質的な変容をもたらした。その変容は禅に近づいていき、その中の一部は禅が静の中で得た最高の状態を、それを動という枠の中でもっとも近づき得たのかもしれないと乱暴に妄想したわけです。

藤田 坐禅と刀禅がそこで繫がってくるというのですね。

小用 しかし剣術は剣術で多くの課題を背負って成り立っているし、動ということ自体に多くの要素が混ざってもいるので、そうした課題にまで行き着き成功した例は少なかったと思われます。禅の場合はむしろ坐っての坐(ざ)という形態と静の中に限定し、それ以外のものを雑多な要素として排除しきった。だからこそ様々なジャンルに影響を与えながら、根を張って現在にまで面々と伝わっている、といっても良いでしょうか。

藤田 そうですね。移動のために動ける足も、道具を使える手も組んで一つにまとめてしまって、使えるはずのものをあえて封印して使いませんからね。

小用 分離しているものをいかにまとめ、使えるものをいかに使わないか、なのでしょうね。日本刀の場合、両手で持つことで手を拘束する反面、その分を足の働きで補えないといけない。これが通常の関節運動だと動くたびに崩れが起こって、刀がブレブレになってしまうわけです。

結局、歩の中で人間は均衡性を失い崩れざるを得ないこと、それが一番の問題なのですね。ここで重要になるのは、使える関節をいかに使わないかということになりますね。この歩の有り様というのが日本人、特に武士において独特であったわけで、だからお能が武士の嗜みとされたわけですね。

藤田 能の動作って、ほとんどこちらからあちらへ歩いているだけのようなものですからね。

小用 「能で学ぶのは歩だけである」と極端なことを言う人もあったそうです。これも静を内包した動の追求とみてもいいと思います。

藤田 禅の中でも「動中の工夫」とか、日常の何気ない所作が禅に適っていないといけないと、そこも修行しなければならないという言われ方をしているんですけれども、今では単にスローガンになってしまっているところもあって。でも今のご指摘なんかまさにそういうところに触れていることですね

小用 歩行しながら瞑想するというのもありますね。

藤田 経行(きんひん)ですね。

小用 それもそうですが、ウォーキングメディテーションなんかでは歩き方は全く普通ですね。

藤田 南方仏教系のウォーキングメディテーションでは、彼らはその中で自分の内側で実況中継をやっているんですね。“足を上げた”“動かす”“足を前に降ろす”と、だから別に動き方そのものを洗練するということはないですね。

小用 どう注目してどう(自分に)呼び戻していくかということですね。

藤田 ええ、歩くのはあくまでも集中力を養う手段でしかないので、歩法のあり方そのものを洗練させていくという発想はないと思います。

小用 確かにそうだと思います。ただ、なんとももったいないことだと思って(笑)。

藤田 本当にそうですね。歩き方のそのものの稽古として深めていけばいいのに、もったいない(笑)。そうすれば、歩くことと別の仕事として集中しようとしなくても、歩きそのものが集中になってくるでしょうね。

小用 丁寧に動きを見つめていた人も、動きそのものを対象にしたり、さらには改変というところにはいきにくいようですね。

藤田先生、小用先生
二人を相手に掛け掌を行う小用先生。刀禅でいわれる「内圧」と呼ばれる力の出し方が可能にしているという。

 

藤田 刀禅ならしかし実況中継するまでもなく、集中しないとそもそもできないわけですから、自然にそこに集中が要求されるような歩き方ですから、歩きと集中とふたつ別々にないわけですよね。

つまり“歩く”のと“集中する”のと二つではない。それが一つになっているのですから、やっぱり非常に禅的な感じです。禅はあれもこれもとバラバラにやることを嫌っていて、純粋に一つのものとしてやるので、刀禅もその道理に適っていると思います。禅ではそうですが、南方系の伝統では歩き方そのものを見直すという発想はないと思います。

小用 本当にこれは両手太刀の中でしか生まれない課題かもしれないですね。或いは武器としても色々あるわけですから、そういう要素は多少あったとしてもここまで端的に動きそのものの変容をともなうものはないように思います。

中国でもやはり長い刀を持った流儀もあるのですが、やはり中国人特有の動きです。

西洋なんかでも武器が長くて重たいから両手で持つということはあります。もちろんもっと長い例えば薙刀や槍を持つとかという場合は更に極端な一重身になります。しかし真ん中というのは存外ないんですね。

ただやっかいなのは刀の長さというのも時代によって変わってくる。おそらくは定寸(二尺三寸)と呼ばれる寸法に近づくにつれ身体の中心がより鮮明になってくる。それは物の長さが構えを規定してきたと言ってもいいでしょう。

体の真ん中で持ったがゆえに生ずる身体の軸や正中面の確かな自覚が生まれ、左右の均衡性といった重要な課題として浮上せざるを得なくなる。ここから刀と身体の相互の関係性をより厳密なものとして捉えだしたのではないかと思います。先ずは刀と身の位置関係を静の状態において。次に動の状態でその静の状態で最適な関係を保てるのか? といった課題に応えていった。

ここで歩行によって否応なく生じてしまうブレと立ち会わざるを得なくなる。直立二足歩行が宿命的にもつ人類史的な課題と対峙した、と大袈裟にいってもいいでしょうか。太刀を構えて動く、太刀の機能を最大限活かそうとすれば避けて通れない。

これはまた最良の静を動の中に実現する道に通じていったのではないか。また繰り返しになったりしてますが。

藤田 多分そういう刀を生み出した日本人の身体性というのが、どこか背景にあったのですね。そういう使い勝手の悪い道具をわざわざ洗練していって、その道具に合うような洗練した体の使い方を苦労の上に見出そうとした民族が日本人だった。でも、今では禅でも瞑想でも、普通だとバラバラに考えて個別にやろうとするんですね。「はい、まず姿勢です」「次に呼吸です」「最後に心です」と。だけど、刀禅はこれをまとめて一つでおこなっているわけですね。一挙にやる。僕は坐禅もそうでないといけないのではないかと思っているので、意見一致です(笑)

小用 そうでないと元々が注意散漫なので困ってしまうんです(笑)。

(第三回 了)

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–Profile–

小用茂夫先生
小用茂夫先生

小用茂夫(Shigeo Koyou
虚弱な幼少期、青年期の腰椎圧迫骨折などに悩まされる。活路を空手、古流剣術、中国武術、合気柔術など武術に求め、そこで多くの傑出した師に出会い素晴らしい境地を知る。一方で、そこへは辿り着けない自分の身体性と向き合うなかで、欠陥の多い身体でも、そうした師の境地に至る術は無いかと独自の模索を重ねる。幸い稽古仲間に恵まれ長い実験と検証の時代を経て現在の方法に辿り着き、ボディワーク刀禅として提唱するに至る。

Face Book:刀禅(グループ)

藤田一照さん

藤田一照(Issho Fujita
1954 年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。曹洞宗紫竹林安泰寺で得度し、1987 年からアメリカ・マサチューセッツ州のヴァレー禅堂住持を務め、そのかたわら近隣の大学や瞑想センターで禅の指導を行う。著書に『現代坐禅講義』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(山下良道との 共著、幻冬舎)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』(春秋社)、鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド2』(サンガ)など多数。写真に登場する猫は愛猫・テラ。

公式サイト: http://fujitaissho.info/

オンラインコミュニティ大空山磨塼寺:https://masenji.com/