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イラストレーターである伊東昌美さんが、曹洞宗国際センター所長の藤田一照さんのもとを訪ねて、「生と死」「私とは?」など、仏教から観る“生きる智慧”についてじっくりうかがうこの対談。第四回は「所有(having)」と「存在(being)」の違いについて。所有した物を手放したくない、という思い(執着)が、死への恐れにつながる経過について語ります。
対談/藤田一照×伊東昌美 「生きる練習、死ぬ練習」
第四回 「所有」のモードを変える
語り●藤田一照、伊東昌美
構成●阿久津若菜
一照さん:
「あらゆることが“自分を陥れようとしている”という前提のメガネをかけた人には、妙にそういうことが本当に起きちゃう。そういう前提で書かれたシナリオで生きている人は、自分でそういう問題を知らないうちに呼び込んでいるわけです」
藤田 前回(第三回)、僕らは仏教的にいうと「混乱したままで生きている」という話をしました。英語で「confused」というんですけど「困惑、混乱、混同」といった意味です。あるいはソクラテスが言ったそうだけど、「吟味されない人生は、生きるに値しない」。
考えや生き方の前提そのものを吟味するのが哲学の本来の仕事です。僕らはともすると「問題がある、さあ困った。早くそれを解決しなきゃ」と言ってすぐ問題を何とかしようとして手足を動かし出す。だけど、その問題そのものは外側にあるんじゃなくて実は自分の混乱から生じているので、おおもとの自分の混乱を調えれば問題そのものが解消することが多い。だから問題解決に向かって急いで手を出すんじゃなくて、ちょっと止まって何が起きているかをよく観てみる。問題そのものを吟味しよく理解してみることの方が大事です。
前回の喩えでいえば、暗い部屋の中にある、見えづらい、不可解なものを「蛇だ!」と間違って思い込むことがそもそもの問題。そうすると「蛇だ、逃げろ!」とか「蛇と直面したとき、どうすればいい?」と、“蛇に悩む人生”の物語に囚われてしまう。でも、不可解なものの正体がそもそも蛇じゃなかったら、その努力って全く意味をなさないわけですよね。それまで蛇だと思って湧き起こっていた恐怖心やパニックには、まったく根拠がないことになる。骨折り損のくたびれもうけもいいとこ。
だから、「あれは蛇だ」という前提をそのままに、「恐怖心をなくさなきゃ」と無理に努力しなくても、ちゃんと「蛇じゃない」と見えていたらもう、恐怖心は起きないんですよ。蛇ではないことがちゃんと見えたら、恐怖心は自ずとなくなる。無理になくすんじゃなくて、恐怖心の方が納得して自分から消えていく。
伊東 まず問題の正体を見極めるということですか?
藤田 そう。そうすれば「恐怖心をなくさなきゃ」としんどい努力しなくていい。
「蛇を問題だと思う『私』がいる。でも待てよ、蛇が問題だというこの『私』の大前提は正しいのか?」
そうやってチェックしてみると、どうも問題は蛇ではなくて、「私」の眼の問題だとわかってくる。ちゃんと眼を調えてよく見てみれば、根拠のない恐怖心は起きないんです。自分が作り出した架空の幻想とではなく真っ当な現実と取り組める。
でも、あらゆることが“自分を陥れようとしている”という前提のメガネをかけた人には、妙にそういうことが本当に起きちゃう。そういう前提で書かれたシナリオで生きている人は、自分でそういう問題を知らないうちに呼び込んでいるわけです。
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–Profile–
●藤田一照(Issho Fujita)写真右
1954年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。曹洞宗紫竹林安泰寺で得度し、1987年からアメリカ・マサチューセッツ州のヴァレー禅堂住持を務め、そのかたわら近隣の大学や瞑想センターで禅の指導を行う。現在、曹洞宗国際センター所長。著書に『現代座禅講義』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(山下良道との共著、幻冬舎)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』(春秋社)、鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド2』(サンガ)など多数。
Web site 藤田一照公式サイト
オンライン禅コミュニティ磨塼寺