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イラストレーターである伊東昌美さんが、曹洞宗国際センター所長の藤田一照さんのもとを訪ねて、「生と死」「私とは?」など、仏教から観る“生きる智慧”についてじっくりうかがうこの対談。第五回は物を「見る」という行為について。物を見ている「私」と、それ以外の「物」との間に、境界線はあるのか? 前提を疑うことから、世界との関わり方が変わり始めます。
対談/藤田一照×伊東昌美 「生きる練習、死ぬ練習」
第五回 「私」に見えているのは、何?
語り●藤田一照、伊東昌美
構成●阿久津若菜
一照さん:「縁起には、いいも悪いもないんです。この世の中は全てのものがそういうあり方でできている。だから、解決方法は全部「縁起」がキーワードです」
伊東 全ての錯覚の始まりは、「分離した自分がいる」という前提なのでしょうか?
藤田 ええ。「分離した自分」が生まれて死ぬんだということが、そもそも錯覚ですね。
「分離した自分」とは、世界にポツンといる点みたいなもの。オール(all) 分の1ですよ。無限の数ある点のうちの一つの点。この“点みたいな自分”が何らかの理由で、この世界の中にポンと放り出されて、周りを見たら「自分」とは違うものばかりがいて、そんな怖いところで何とか生きていかなきゃいけない。しかも、嫌だと言っても、いつかそこからつまみ出されるような点としてある。
われわれはこういう前提で人生をやりくりして築いていこうと——「家が必要だから」家をつくり、「家を大きくするにはお金がいるから」働いて——と、いろんな工夫をしますよね、それなりに。
そういうことがうまい人は、幸いなことにどんどん成功して予定通りになっていくけど、それでも最期にはそこからポンと放り出されちゃうわけですよ。家も含めた「俺が自分の努力でつくったもの」を何から何まで全部残して、ここから去っていかなきゃいけない。
……と見ているのが「分離した意識」ですよね。
でも今言ったことは、「分離した意識」もひっくるめて仏教的に言うと「夢」なんです。
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–Profile–
●藤田一照(Issho Fujita)写真右
1954年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。曹洞宗紫竹林安泰寺で得度し、1987年からアメリカ・マサチューセッツ州のヴァレー禅堂住持を務め、そのかたわら近隣の大学や瞑想センターで禅の指導を行う。現在、曹洞宗国際センター所長。著書に『現代座禅講義』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(山下良道との共著、幻冬舎)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』(春秋社)、鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド2』(サンガ)など多数。
Web site 藤田一照公式サイト
オンライン禅コミュニティ磨塼寺