藤田一照×伊東昌美「生きる練習、死ぬ練習」 最終回 仏教を「する」こと

| 藤田一照 伊東昌美

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イラストレーターである伊東昌美さんが、曹洞宗国際センター所長の藤田一照さんのもとを訪ねて、「生と死」「私とは?」など、仏教から観る“生きる智慧”についてじっくりうかがうこの対談も、いよいよ最終回。
第十二回は「マインドフルネスとは何か?」という疑問から始まります。その答えは、仏教が探求しようとしていること、その営みを我が身に引き受けるとは? という、“宗教と私”の本質的な関わりについて語られます。

対談/藤田一照×伊東昌美 「生きる練習、死ぬ練習」

第十二回  仏教を「する」こと

語り藤田一照、伊東昌美
構成阿久津若菜

一照さん:「本来的なマインドフルネスは、「私“の”自由」じゃなくて「私“から”の自由」を目指していますからね。それは宗教という枠組みすら超えていると僕は思ってます。「私の自由」ということは誤解ですもん。「私」には自由がないですよ」

 

伊東 今、若い人たちの中では、いろんなことの二極化が進んでいると思うんです。すごく勉強のできる人と全然できない人とか、お金のあるお家とお金のないお家とか。そういう意味でいうと、信仰や宗教に限定せず「もっと心のことを学びたい」人たちが、一定数は必ずいると思うんです。
ただ(オウムの例を挙げずとも)、いわゆる“宗教”へのアレルギー反応が、日本は非常に強い国だと思いますので……その中で、禅というのはある種、特別な位置にあると思うんです。

藤田 わりと宗教臭さがないということですか?

伊東 ないと思うんですね。一般的には、お経を唱えるというイメージすら、ないんじゃないでしょうか。宗教というより、身を調える=修行するという感じです。

藤田 お経は禅宗でも唱えますよ。そういうのが一般の人たちの禅のイメージなんですか。そういうイメージをうまく活用すれば、禅への入り口の敷居が下がるというか、一般的な人の関心に食い込みやすいということですかね。

伊東 「マインドフルネス」は、(あまりいい言い方ではないですが)“禅のうまいとこ取り”しているなと思うんです。

藤田 「心の持ち方を変えることで、今いる状況で我慢できて、いいパフォーマンスが発揮できるようになる」というのが、グーグルやヤフーといった大企業でやろうとしているマインドフルネスです。
グーグルで開発された社員研修プログラムは「サーチ・インサイド・ユアセルフ」と呼ばれていますが、僕はこれにはちょっと注文がある。

伊東 どういうことでしょうか。

藤田 仏教的に言うと根本的な解決にはならないんじゃないか、ということです。まあ、そんなもの目指していないよ、と言われたらそれまでですけど。
そもそもの前提が、「サーチ・インサイド・ユアセルフ」と言うくらいだから、セルフ(自分)の存在を前提にしているでしょ。 これは、『アップデートする仏教』(幻冬舎新書)で、山下良道さんと話をした「雲」と「青空」の話になるんですけど。

分離した自己意識としての自分を雲に譬えているんですが、その「雲としての私」を何とかマシにしていこうというのが、企業でやるマインドフルネスのスタンスです。 それは「世俗的なマインドフルネス」と僕が呼んでいるものの特徴です。

「私」という分離した意識のままでマインドフルになろうとすることで—この話は第四回でしましたが—、「分離した私」が集中力をつけたり、創造性を身につけたりしようとがんばる。だから、いわゆる「私」の能力アップです。 でもそれは、本来マインドフルネスが目指していることと全く逆のこと。

「私」の解体を目指すのが、本来のマインドフルネスですからね。解体と言っても実体的にあるものを壊すわけじゃなくて、もともとそんなものはないということを洞察するだけですけどね。そのための道具立ての一つがマインドフルネスだったんです。

伊東 「私」の解体を目指すはずが、「私」の能力アップのために、マインドフルネスになるのですね。まったく逆方向に走っている気がします(笑)。

「(世俗的なマインドフルネスは)仏教的に言うと根本的な解決にはならないんじゃないか、ということです」(一照さん)

 

藤田 鈴木俊隆老師(※1)の広めた坐禅だって、そういうことが起こった。
禅に飛びついた人たちはこの「私」をマシにするために坐禅を組もうとしたわけです。坐禅は本来は「私」という余計な力みをリラックスさせることなのにね。 最初のボタンを掛け違えているというか、「発心正しからざれは、万行空しく通ず」と言いますが、その発心のところで問題があるんです。
[※1 1905〜1971年、曹洞宗の僧侶としてアメリカに禅を広める。55歳で渡米し、1962年にサンフランシスコ禅センターを、1967年にカリフォルニア州に禅心寺を設立。『禅マインド ビギナーズマインド』『禅マインド ビギナーズマインド2』(サンガ新書、「2」は藤田一照が翻訳)などの著書がある]

伊東 最初「マインドフルネス」の方法を聞いた時、誰でもできるメソッドに仕上げていくアメリカ人って、すごいなと思ったんですね。 でも彼らのやっているのは、やればやるほど「我」が抜けなくなるメソッドなんですね(笑)。

藤田 「我」の強化のためにやるわけですからね。「我」というのは緊張・収縮です。だから坐禅を緊張によってやろうとしているんだけど、本来の坐禅はリラックスしないとできないものなんです。マインドフルネスもそうです。

「私が呼吸を意識するぞ」と思った途端に、呼吸と自分が離れたものになってしまう。マインドフルネスというのはつながりですからね。分離した自分を、何とか呼吸と一緒にしなきゃいけないとなったら、これは努力が要りますよ。自分で分離を作っておいて、それからそれを無理につなげようとするような芸当になります。

意識してつながるぞー! とアグレッシブにやったら、呼吸が嫌がって逃げちゃいますよ。だから「自分は呼吸瞑想が下手だ。もっとがんばらなければ」となって、必然的に泥沼におちいるわけですよ。

伊東 どうしたって、力ずくのマインドフルネスにならざるをえない。

藤田 そう、「私」が主体になってやってたらね。 そうではなくて、ナチュラルなマインドフルネスというものがあるんですよ。「私」が一生懸命にやっているという意識はないけど、自ずとマインドフルネスでいられるというのが本来のことのはずです。

それはお坊さんになって特別の修行をしなくても、世俗にいても正しい理解と育て方をすれば、そういうマインドフルネスを身につけることはできるはずだと、僕は思っています。 そこから本当の意味での企業のイノベーションが起きるんじゃないかと思います。でも今、企業で言われているイノベーションとは……。

伊東 言い方は悪いですけど、あくまでも、企業で歯車として働く「私」の効率をよくする話ですよね。

藤田 そうですね。歯車の「私」がいかに効率よく動くようになれるかという点では、今までと何も変わらない。
本当のイノベーションは、そのもっと手前の前提から変わらないといけないでしょうね。働くとはとか、利潤とはとか、自分とは、といった元のところからの変化。

だから「世俗的なマインドフルネス」としてメソッド化して、いくら宗教色を抜いても、「私」から出発するなら、長い目で見たらメソッドとしても行き詰まってうまくいかなくなるんじゃないですかね。
「私」がマインドフルネスにならなきゃ、となったら、(マインドフルネスが)できた/できないの話になってきて、それ自体がストレスの元になる。今のマインドフルネスは世俗的文脈においても、改良の余地がまだまだあるんじゃないですかね。

それは「世俗的なマインドフルネス」にあらためて宗教色を入れれば解決するような単純な話じゃなくてね。前提というかパラダイムのところから見直す必要があると思います。

伊東 今、一照さんがおっしゃった問題点をわかった上で、それでも一定期間、心を落ち着かせるやり方として「世俗的なマインドフルネス」に効果があることは認めているのでしょうか。

藤田 それはそれなりの効果感はあるでしょうね。でも、本来のマインドフルネスはそれよりもはるかに大きくて深い効果を持っているはずです。本来的なマインドフルネスは、「私“の”自由」じゃなくて「私“からの”自由」を目指していますからね。
それは宗教という枠組みすら超えていると僕は思っています。「私の自由」ということは誤解ですもん。「私」には自由がないですよ。

伊東 私が「私」である限りは。

藤田 そう。だからこそ、そこからの自由が、本当の解放なんだと思うんですけどね。

僕は「無我」って、宗教の話じゃないと思いますからね。無我だから「私」というのが立ち上げられるんですよ。必要のない時は「私」はひっこんでいていい。それで「私」は消えるわけじゃないから。

「私」って本来はもっと、柔らかいものなんです。 なのに無理矢理「私」を作っておいて、その私を「自由にさせなきゃ」「周りに溶け込みたい」と願うのは、アクセルとブレーキを同時に踏みながら「前に進めない!」と文句を言っているようなものです。

伊東 このことはもともと、仏教が求めていたものなんでしょうか。 仏陀が目覚めた(=悟った)時に「これは人に話してもわからないから」と言ったという、エピソードを聞いたことがあります。

藤田 仏陀は梵天さんから「わかる人も少数だけどいるからどうかお願いします」と頼まれて、2回断ったけど、3回目で「じゃあやるか」と言って、立ち上がって説法を始めたという話ですね。 そして亡くなる時には、「わたしを拝んだりするんじゃないよ」とも言っています。

「私亡き後はダルマ(法)に従えば、私に従っているのと変わりはない」「私もダルマに従う者の一人であっただけだから」ということも言っています。「怠らず励みなさい」、それが最期の遺言ですからね。

伊東 仏教を個人崇拝にしてはだめだよ、ということですね。

藤田 そうです。個人崇拝してもしょうがないってよくわかっているから。

伊東 それだとある意味、自分が否定してきた既存の宗教に、また戻っちゃうわけですよね。

 

「仏教を個人崇拝にしてはだめだよ、ということですね」(伊東さん)

 

藤田 そう。仏教はある意味、宗教否定ですよ。それまでの既存宗教のパラダイムとは、全然違いますから。 仏陀は、お城を出た後、既成宗教の代表的行法を二つとも徹底的にやったわけです。「苦行」と「瞑想」を。でもこれではダメだと見極めてますからね。

伊東 そうした苦行は無駄な過程だったんですか。それともやらなきゃいけなかった過程なのでしょうか。

藤田 仏陀はやってみて、わかったということでしょう。

伊東 やはりそれを経たからこその、悟りの境地に至ったと考えた方がいいんですね。

藤田 ええ。当時、一応代表される宗教的行法、心でいく瞑想体でいく苦行を極めてみたけど、これは私の抱いた問題の解決にはならない。一時的逃避にはなるかもしれないけど、解決にはならないことがわかったので、それまでの宗教と全く違う、革命的なことをやって、そこから出てきたのが仏教です。

慰めとか苦悩から逃げるんじゃなくて、苦悩にちゃんと向き合って、苦悩の正体を見極めようという道です。

伊東 (第四回、第六回であったように)このモヤモヤをちゃんと見て、お皿とお湯のみとを見ろ、という話ですね。

藤田 そうそう、実際に何が起きているのかをよく観る。そして、縄を蛇と見間違った理由はどこから来るのか。見間違えることによって何が起きているのか。それが縁起観ですからね。

伊東 検証するということですか?

藤田 そうそう、起きていることを吟味したということ。investigationと英語で言うんですけどね、探偵のように因・縁・果を綿密に調べる

伊東 事情聴取の時の。

藤田 そういうこと。だから当然、知性は必要なんですよ。感性と知性のおかげでそこまで見えたので、それならば、それを変容できるような行法が必要になって、瞑想とか、坐禅が登場するわけですよ。あれは無意識のレベルでの心の入れ替えですからね。

僕らの日常意識って、無意識に操られていると心理学では言いますよね。「深層意識」というやつです。それがカルマ。カルマって癖のことですからね。習慣的なパターンのこと。

伊東 なかなか自分では、無意識を変えることはできないですから。そのための一つの行法が瞑想?

藤田 外にばかり原因を見出そうとしているのを、まずじっと止まって、外と内で何が起きているかを観察して、洞察する。 怒りなどいろんなものが湧き上がっても、そのままリアクションを起こさずに見ているということです。普通はすぐにリアクションを起こして、手を出したり、口で怒りを表現してしまうから、なにがなにやらわからなくなってしまう。いつものパターンに翻弄される。

原因がわかったら、その原因を変えていくための方法も、仏陀は同時に提示しているんです。だから基本的に、仏教は「する」ものなんです。行の宗教。

伊東 つまり仏教「do」(笑)?

藤田 そうそう、「仏教する?」です(笑)。行というのは、実践のことですから。あくまでも仏教は実践、考えることもその中にはもちろん入っているけど。

伊東 なるほど、あくまでも仏教は「する」ものなんですね。

(最終回 了)

※長い間のご愛読ありがとうございました。こちらの連載は、来年増補加筆のうえ書籍として改めてまとめる予定です。お楽しみにお待ちください。

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–Profile–

藤田一照Issho Fujita)写真右
1954年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。曹洞宗紫竹林安泰寺で得度し、1987年からアメリカ・マサチューセッツ州のヴァレー禅堂住持を務め、そのかたわら近隣の大学や瞑想センターで禅の指導を行う。現在、曹洞宗国際センター所長。著書に『現代座禅講義』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(山下良道との共著、幻冬舎)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』(春秋社)、鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド2』(サンガ)など多数。

Web site​ 藤田一照公式サイト

オンライン禅コミュニティ磨塼寺

 

伊東昌美Masami Itou)写真左
愛知県出身。イラストレーターとして、雑誌や書籍の挿画を描いています。『1日1分であらゆる疲れがとれる耳ひっぱり』(藤本靖・著 飛鳥新社)、『舌を、見る、動かす、食べるで健康になる!』(平地治美・著 日貿出版社)、『システム感情片付け術』(小笠原和葉・著 日貿出版社)と、最近は健康本のイラストを描かせてもらっています。長年続けている太極拳は準師範(日本健康太極拳協会)、健康についてのイラストを描くことは、ライフワークとなりつつあります。自身の作品は『ペソペソ』『おそうじ』『ヒメ』という絵本3冊。いずれもPHP出版。

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