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止め、はね、はらい。そのひとつひとつに書き手の身体と心が見える書の世界。しかし、いつしか書は、お習字にすり替わり、美文字を競う「手書きのワープロ」と化してしまった。下手だっていいじゃないか!書家・小熊廣美氏が語る「自分だけの字」を獲得するための、身体から入る書道入門。
「お習字、好きじゃなかった」「お習字、やってこなかった」
「書はもっと違うものだろう」
と気になる方のための、「今から」でいい、身体で考える大人の書道入門!
書の身体、書は身体
第六回「幕末志士の書」
文●小熊廣美
この連載ではここまで、書というものは、もともと水平垂直の文字造形だったものが、右上がりの定着をみ、肉筆の文字の形も、手で一回性のなかに書くということでの納まりやすい形があったことなど、書のもっている身体性についてみてきました。
今回は、書の身体性の実態を感じてもらうために、幕末に活躍した方の筆文字をみていきながら、改めて文字に現れた彼らの身体性と、書が形だけきれいに書けばいいものではないことを感じてほしいと思います。
文明開化の功罪
徳川三百年の幕藩体制から明治維新へ。
「文明開化」の名のもとに、社会制度から交通、食事、植民地政策と、先進国のそれを習い、徹底的に採り入れました。日本という国が、洋風建築に入って、洋服を着て、牛肉や牛乳が身近となり、太陽暦で時間をはかり、列車に乗りこんでいったのです。
そうしたなかで、音楽も西洋一辺倒になって、最初の音楽家養成の東京音楽学校に邦楽科は昭和までなく、江戸までの音楽文化は、急激に衰えます。モーツファルトを聴けて幸せかもしれませんが、三味線一丁とっても、音と音の間のあの間合いを感じることが、日本の粋であり、文化となって、身体の使い方にも共通した原理を示してくれていたのではないかと考えると、過去を否定し、何でもかんでもの西洋化はいかがなものだったのでしょうか。
武士の世にあって、刀を差した武術とともに、身体の研ぎ澄まされた世界があったのではないでしょうか。時に“殺気!”と感じたりするのは当たり前の身体感覚があったことなど想像できますが、その頃の暮らしの中では、一俵を担いだり、まき割りもまた子どもも当たり前にやってのけていたのだと思います。
今から思えば馬鹿げたことと思われますが、文字の方でも明治以降、漢字や平がなを廃止しローマ字にしようとしたり、日本語を廃止して英語にしようとかいう審議などが戦後まで幾度となく行われてきたようです。それでもどうにか、昔からの日本の身体性を備え伝えて、書道は文明開化の西洋化の波をかいくぐってきました。
書が残ったのは、明治維新期の多くの指導者たちの根本に、武士の心得とされた儒学があって、書との不離の関係があったことも大きかったものと思われます。
幕末の志士の書
書道の世界では、完璧な楷書の美しさを持った中国の唐時代から更に時代を遡り、日本では空海などの三筆、それに続く小野道風などの三蹟やみやびな連綿遊絲の王朝がなあたりが、注目度ナンバー1の時代です。
それに比べると、江戸の書は、“学ぶ”という点では見劣るのですが、本阿弥光悦などからはじまる江戸の書も、“鑑賞”という点では、そのまま美術として一級品の価値を保っています。そして幕末の書は、まさに“サムライ”を感じるといってもいいのかもしれません。
遣唐使に象徴されるように、日本は大陸から多くの先進文化を長い間、摂取吸収してきました。徳川の世になり戦がなくなり幕藩体制を支えるために武士の学問として儒学が普及していきました。
唐様(からよう)の書といういい方がありますが、直接には、中国は明時代あたりの書の影響を受けて、江戸時代には、唐様の書が儒教精神にいきる武士を中心に流行ります。
鎌倉から南北朝時代の尊円親王の流れになる青蓮院流の柔らかい和様書体で、徳川時代の公用書体となった“お家流”とは対照的です。
売り家と唐様で書く三代目(うりいえと からようでかく さんだいめ)
という有名な川柳にものされるように、苦心して初代が財を築くも、三代目になって破綻するなか、遊興三昧しただけあって、「売り家」と書いてある字だけは、しゃれて唐様で書いている。
というほどに、唐様は、庶民と違った一つのステイタスだったようです。
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