コ2【kotsu】特別インタビュー 韓競辰導師に訊く「韓氏意拳の系譜」 第一回

| コ2【kotsu】編集部

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今年も韓氏意拳創始人である韓競辰導師の来日講習会が開催される。そこでコ2【kotsu】では、昨年来日した際に行った韓導師へのインタビューを三回に渡りご紹介する。

コ2【kotsu】特別インタビュー

2018来日講習会記念企画
韓競辰導師に訊く「韓氏意拳の系譜」(第一回)

インタビュアー・文コ2【kotsu】編集部
取材・写真協力日本韓氏意拳学会
監修光岡英稔

 

 

推拿は10代の頃から学びました

コ2【kotsu】編集部(以下、コ2) 今回は養生の講座ということでしたが、これは何か理由があったのでしょうか。

韓競辰導師(以下、韓) そういうリクエストがあったからですね(笑)。

光岡 韓老師は武術家という経歴とウイグル自治区で中医の医者をされていたという実績と経歴をお持ちなので、恐らく韓老師がおっしゃっていることを理解するためには、習う側もその両面を理解しておいた方が良いと考えて老師お願いしました。

韓氏意拳という体系、先生が教えられていること、意拳、韓家に伝わっている武術、中国文化というものが、どういうふうな関係でここまで生き残ってきたかということを学ぶ上で必要だと考えてお願いした次第です。

また格闘に関心はなくても治療や健康といった方向に関心を持っている方もいるので、こうした講座を企画しました。

コ2 分かりました。では基本的な質問ですが、韓先生ご自身は推拿もお父様(韓星橋老師)からお習いになったのでしょうか。

 そうです、10代の頃です。意拳を学ぶのとだいたい同時期でした。意拳を学ぶということから考えると、基本的な身体を動かす運動というのは小さい頃からやっていました。というのは、父は私が小さい頃には私に意拳を教えようとしませんでした。ただ、どういうふうに体を使うかといった基本功、基本運動を伝統的な手法で私に教えてくれました。

また私が10歳の時に皆さんもご存知の文化大革命が起こりました。学校は封鎖されずっと家にいることになりました。その時に父は私を外に連れて行き、体の鍛え方や少しずつ伝統的なこと、身体を動かすことのみでなく書道なども教えてくれました。そういう特殊な環境の中で私は育ちました。

もし文革がなければ私も皆さんと同じように学校に行き、恐らく医学部に進んでいたかもしれません。ですから私が特殊な歴史的背景、環境、時代にいたことが、そうしたことを学習する切っかけになった訳です。

 

韓老師親子。

 

コ2 文革の頃は、伝統的なことを学ぶのは大変危険なことだったと聞きます。

 私の住んでいるところではそうしたことはありませんでした。それは家の中でもそういう練習をする場所があったからです。

そして中医学について言えば、医療はいつの時代にも価値のあるものですから、皆も必要なので伝統的であるというだけで否定や排除はされませんでした。

コ2 ご兄弟も一緒にお習いになったのですか。

 一緒ということはなく、別々に習っていました。

コ2 お父様自身は医学についてどのように学ばれていたのでしょうか。

 まず上海で錢硯堂という推拿と様々な中医学に長けていた先生について学びました。父は旧・北京大学で当時の四大名医と呼ばれた人たちが主催する講座に参加したりなどもし、中国医学、西洋医学の両方を学ぶことができました。また当時の中国としては珍しく最先端だった解剖学や生理学についても学んでいたため、同時代の伝統的な治療家とは身体的な理解が違っていました。伝統的な考え方だけではなく、また近代的な考え方だけでもない視点を持っていたわけです。

コ2 その頃、お父様は王鄕斎先生より意拳を学ばれてもいたのでしょうか。

 それは医学を学んだ後ですね。王薌齋老師に出会ったきっかけは、王薌齋老師と錢硯堂老師が兄弟弟子の関係にあったからです。ですから二人とも郭雲深老師の弟子になります。また王薌齋老師が上海にいた時は兄弟子の錢硯堂老師が王老師の生活を助けていました。

郭雲深老師について言えば、郭老師は人を殺してしまったため山の中に潜んでいましたが、やがて捕まりました。その時、近くの村人が「郭老師を助けてください」と役所に嘆願したそうです。

それは郭雲深老師が殺した相手が山賊をしていた悪人で村の人から物を奪ったりと村の人たちが困っていたところを郭老師が助けてくれたからです。

結局、郭老師の罪が減じられ流刑となりました。その流刑先で錢硯堂老師のお父さんに出会ったわけです。錢老師のお父さんはその地域では社会的な地位の高い人物で、郭雲深老師を厚遇し、その際に息子に武術を教えてもらうことを郭老師に御願いし、錢硯堂少年が郭老師に武術を学ぶことになったわけです。

コ2 王薌齋先生と郭雲深先生の入門の時期はお分かりになりますか。

 詳しいことは分かりません。ただ王薌齋老師は郭雲深の晩年の弟子と言われていることや、その他のいろいろな情報から見ると錢硯堂老師の方が先だったことが分かります。ちなみに、実際二人が初めて出会ったのは上海だったそうです

 

王薌齋老師と父

コ2 そうだったのですか。では少しお話を戻してそもそも韓老師お父様が上海に行かれたのはなぜだったのでしょうか。

 それは父の父、私の祖父に関係しています。私の祖父は上海に行き形意拳と八極拳の道場を開いていました。ですから父も17、8歳の頃には北京から上海に行き静安寺というお寺を借りて武術の道場を開いていました。

父は上海で短期間ではありますが国家主席が出るような名家の方の保標(ボディーガード)の仕事もしていたそうです。その一家(衛家)は上海で最初に企業活動を始めた家で、有名な資本家でした。その後、自分の道場を開き武術の指導を始めました。道場と言えるほどのものではなかったそうですが、数カ所を巡回して教えていただそうです。上海と言えば当時は霍元甲の上海精武体育会もありました。

 

上海で道場を開いていた頃、若い時分の韓星橋老師(後列中央) 南京中央國術館にて。

 

コ2 お爺様の道場では教えていなかったのですか。

 練習はしていたそうですが祖父の道場では教えてなかったそうです。すでに自立していたのですね。ですから上海に行くきっかけは祖父の道場でしたが、教えるのは自分の道場だったそうです。

これは韓家の教えで、早く独立・自立して自分の道を歩くことが韓家では大事にされているからです。特に男は早く自立して外に出てゆくことが求められています。当時としても、ほかの家庭とはちょっと違ったかもしれません。

コ2 なるほど、ではそうした独立独歩で進む中でお父様は錢硯堂老師のご縁から王薌齋老師に出会ったわけですね。

 そうです。1930年から31年のことで、たしか当時23歳くらいだったはずです。

コ2 では当時は武術の指導をしながら、医学の勉強をされていたわけですか。

 ええ、まだ医学の勉強をしている学生ですね。ただ父は20歳の頃に武術家として自分はかなりのレベルに達していると感じていて、大体の伝統的な中国武術に対してそれがどういうものか分かっていたといいます。特に実戦、実際の場面でどう使うかということについてはよく理解していました。当時上海では私の父ともう一人有名な方では、趙道新の二人が若手のホープとされていたそうです

左 韓星橋、右 趙道新。

 

光岡 趙道新さんとお父様は仲が良かったそうです。

 大事なことは20歳の若さで伝統的な武術について大体理解していた父が、王老師に会った時に「今まで学んで来た何より、良いものがあったこと」を諭されたことです。王薌齋老師に出会われた後、今まで自分が学んできたものを全部やめて意拳を学び始めました。

コ2 王薌齋老師もとではどのくらい学ばれたのでしょうか。

 15年です。王薌齋老師に従って上海から河北の深県まで行き、その後に北京などを巡ったそうです。

コ2 医学と武術を両立されていたのですね。

 どうして私の父が医学を学ぶ必要があると思ったかというと、当時の社会を見た時に武術で生活することは難しいと感じたからです。中国武術界の多くの「達人、名人」と呼ばれた人たちは老後の生活はかなり悲惨なものだったそうです。そういう武術界の先輩達の姿を見ていたので、“このままではいけない”と思ったそうです。

医学の先生であれば、年を取ってからも心身に過酷なことを強いることなく、生活も安定していることから、当時から武術で得たお金で医学の勉強をしていたわけです。こうした考えは上海から北京に帰る時も持っていたそうです。その後の人生を見ると父のこの考え方は正しかったと言えるでしょう。

実際、父と同時期に一緒に武術を学んでいた人たちの老後の生活は決して楽ではありませんでした。年老いても私の父や叔父が生活に困ることはなかったのは医学、中医学を学んでいたからです。

光岡 韓星垣老師も実はお兄さんの韓星橋先師から中医学を学んでいたそうです。後に香港に行かれた時もそれで身を立てていたんですね。

 そう、ですから私の父は武術と医者を上海でやって、叔父(星垣先生)は香港で同じことをしていました。

コ2 武と医の一族なのですね。その当時、王薌齋老師は養生功と呼ばれるものをされていたのでしょうか。

 私の父が王老師と一緒だったころには意拳の養生はなかったそうです。そうしたものは新中国が成立した後ですね。新中国が設立された当初は武術の技撃などが野蛮とされていて、街で喧嘩はもちろん、そうしたこと(技撃)などの武術的攻防を見せることが許されず、武術の表演(演舞)の方が増えていきました。やはり、それは社会の状況や環境と関係があります。

コ2 では今日、韓氏意拳のなかに養生というものが大きくあるのは、王薌齋老師から由来したものではなく、医学を学んだお父様の影響ということでしょうか。

 王薌齋老師や他の意拳でやっている養生と韓氏意拳の養生は全く別の系統のものです。今現在“意拳”と呼ばれるている多くと韓氏意拳は親戚関係ではありますが、韓氏意拳はそれらの“意拳”とは教学方法から練習方法、練習の目的も全く違う独立した体系です。

なぜ独立したかというと、社会的な今流布されている意拳というものがもうすでに王薌齋先生から継承した意拳ではなくなってしまっているからです。よって韓氏意拳は、いま行われている他の意拳とは異なる独立した体系であると言えます。

ですから他の意拳とは親戚としての縁があるだけで、具体的な考え方や体系は全く違うものになっています

コ2 それはお父様の時代からですね。

 そうです。

コ2 では今回指導されていた養生は、お父様のオリジナルということになるのでしょうか。

 私の父と母が編纂し作ったものです。

コ2 お母様が関係しているのですか。

 はい。私の母は正式に王薌齋先生の正式な弟子になったことはないのですが、王薌齋先生に学んでいました。母も10代の頃から運動や身体を動かすことが大好きで、よく王薌齋先生のもとに通っていました。それがきっかけで父と出会ったわけです。ですから私の母も形意拳と八卦掌は一通りできます。父の存在が大きいのであまり母のことを語られることはないのですが、実はそうしたことがあるのです。

光岡 王群女史ですね

 あまりにも父が活動的でしたので、母は後ろからそれを支えるような立場でした。ですから韓氏意拳の養生功の成立や整理について言えば、母による努力が大きいのです。養生健身功なども母がまとめ作ったものです

後列 光岡英稔老師、韓競辰老師。前例 王群女史、韓星橋先師。

(第一回 了)

 

韓競辰導師、来日講習会情報

来る4月27日(土)から5月5日(日)、東京と岡山で、国際韓氏意拳総会会長・韓氏意拳創始人である韓競辰導師による講習会が行われることが決定、現在申し込み受付を行っている。会員向けの講座が中心だが、一般公開している講座もあるので、韓氏意拳に興味をお持ちの方は、この機会に実際に韓競辰導師に触れてみては?

詳しくはこちらへ。

 

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–Profile–

国際韓氏意拳総会会長 韓氏意拳創始人 韓競辰導師
韓星橋先師の四男で、きわめて明晰な拳学理論と、卓越した実力の持ち主。現在韓家に伝わる意拳の指導に力を注ぎ、意拳の更なる進歩発展のために努められている。
国際韓氏意拳総会会長。(日本韓氏意拳学会 Web Siteより)

Web site 日本韓氏意拳学会