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肥田式強健術。日本人の身体感覚の核とも言える、“丹田”を中心としたこの身体開発法の名前は、武道・武術をはじめカラダに興味のある方であれば、一度は耳にしたことがあるだろう。その一方で、玄米菜食を中心とした食養や、腰を反る型の印象が強く、「ストイックで難しい」と言われることも少なくない。そこで本連載では肥田式強健術研究会・富田高久会長にお願いして、そうした肥田式にまつわる誤解を解きつつ、改めて現代人に合った肥田式入門法をご説明する。
新解・肥田式強健術入門
第三回 肥田式はオカルトに非ず
文●富田高久(肥田式強健術研究会会長)
肥田式にまつわるオカルトについて
前回の最後に、今回は肥田式の独特なる呼吸法について書くことを予告致しましたが、その前に肥田式強健術における最大の誤解、肥田春充先生の超人伝説が喧伝され独り歩きしたことに端を発し、今日も続く、肥田式にまつわるオカルトチックな風説をまずは正しておきたいと思います。
肥田式強健術研究会が立ち上がった1985年頃には私の家にも布団を担いで来て、「内弟子にしてくれ」とか、「一週間で空中浮遊が出来るようにしてくれ」などの訳の分からない人々が月にニ、三人は訪ねて来ていました。
その当時インターネットもなくよく私が肥田式の研究実践をしていることを探り当てたものだと感心しましたが、逆に言うと肥田式強健術の名を知る人は、オカルトチックな面ばかり見て間違った入り口で肥田式を欲していたということなのでしょうか。
その後も、中々その風評は断ち切れ難く、他力本願ですぐにでも肥田式強健術をかじれば今でもすぐそのように超人的な身体操法が出来ると思っている方が多かったのではないでしょうか。
確かに肥田春充先生は、超人的であり、不思議なことを高弟や戦前に親しかった方々の目の前でやって見せたようですが、先生が揮毫でよく書かれている言葉に
「玄妙即平凡」「玄妙即ち凡々」
というものがあります。
これは人であれば肉体と精神をもって鍛錬しその域に達すれば誰でも出来るし不思議なことではないという事だと思います。
確かに、戦前の名人、達人と言われた方々がまだご存命の頃の稽古の様子などをお伺いするとやはり常人では考えられないような稽古の仕方をなさっていたようです。
肥田春充先生もしかりです。
肥田家の人々、その生い立ち
肥田式強健術の成り立ちは、肥田先生の生家のエピソードを抜きには考えられません。春充先生が育った当時の平均寿命が50歳前後を考えると、山梨県南都留郡西桂村小沼という僻村はもっと公衆衛生の意識は低かったであろうと思われます。明治21年9月より22年9月までに一年間に母、兄弟姉妹5人が次々に亡くなっていき、春充先生生自身も生まれ落ちた時から生きるか死ぬかの際をさまよったのを始め、幼少の頃も何度も死に目に会いますし、生来身体が虚弱であったという事です。
こうしたエピソードに枚挙に暇がないのですが、当時の春充先生は体が非常に細かったので村の人々から、茅のように細く弱弱しく「茅棒」という渾名で呼ばれていたそうです。また体重も余りにも軽かったので村の少女達は競って先生をおんぶしたがっていたほどで、皮膚も弱く人目に晒される共同風呂に入るにも人目を憚っていたようです。
肥田先生は明治16年(1883)のお生まれですが、その当時の時代背景を考えますと、幕末の不平等条約はそのまま、西洋列強の脅威にさらされている日本国は富国強兵が急務として叫ばれている時代に生まれました。医師である父親の川合立玄(はるつね)さん、基督心宗教団の開祖、長兄の川合信水先生はもちろん江戸時代の生まれでありますが、父・立玄さんの出生地は長州周防であって、艱難辛苦の末に山梨県南都留郡西桂村に至ります。その経緯はさておき春充先生の性格は生来もって生まれたものに加えこのお二人の影響を大きく受けました。
このお二人は悪人、悪事、不正に対する許しがたき性格で、またそれに立ち向かう勇気と気概をお持ちでした。春充先生は終生父親と兄・信水先生への恩を忘れず、清廉潔白、天に向かって赤誠を全うして全生涯を閉じられます。
肥田式誕生の背景
時代背景の話に戻りますが当時は日本国に生まれたからには男児として天皇、国家に尽くさなければならない時代です。春充先生もまた
「この虚弱のままでは日本国男児として生まれた甲斐がない」
と思い18歳の頃一念発起します。これは一生涯を通して持ち続けた本願でした。ですから自分に対する甘えは一切排除して猛稽古に励みます。旧制中学時代には鉄棒の大車輪が出来るまで何度地面に落下して叩き付けられ、気を失ってもやり続け、見事にできるようになり、終いには鉄棒の上に座って手風琴(昔のアコーデオン)まで楽々奏でられるようになったと記述されています。
その一念発起した背景には、医師である父親の蔵書の中から解剖学、生理学等の本を読み、細胞が一日一日生まれ変わるという事に気が付かれ、「常人が既定の年数で細胞が入れ替わるのなら虚弱な自分はその二倍でも三倍でも懸けて健常人の域まで到達しよう」という強い意志を持ち、色々な体育法を研究されたそうです。
春充先生以外にも先人の中には神がかった人が何人もいますが、稽古の内実を知れば知るほど、今の我々がどれだけのことが出来ているか考えるとお寒い状況です。特に戦後は便利な機械の登場により肉体の代替用品として楽にはなりましたが、機械に取って代わられた肉体の一部は衰えていくばかりです。世の常として普通人の我々は安易な方へ楽な方へと流されがちです。
四期に分けられる肥田式
肥田式強健術を創案された肥田春充先生の教えは、
「人間それぞれが持っている能力は何時でも発揮できなくてならない」
という事です。
先人たちの稽古の様子を知るにつけ、我々の修行の拙さを痛感させられることは何時ものことです。多くの人は先人の神がかった到達点ばかりに思い入れを激しく持ち、到達点の姿を追い稽古をすれば同じことが出来ると短絡的に考えがちです。その為、その過程は故意にかどうかわかりませんがほとんど忘却され、認識されていないようです。
物事には順番があります。
プロで活躍するスポーツ選手でも、自分に必要な肉体鍛錬と基礎訓練はずっと欠かさないと言われております。
肥田先生の稽古の道程と進歩を見てみますと、先生ご自身で四期に分けて考察されております。
第一期の明治33年より明治44年までの12年間は、姿勢を正しくして気合をもって身体の内外を鍛えることに集中した時期。
第二期は明治44年より大正4年までの5年間、明治44年12月より青山の近衛歩兵第4連隊に入営し1年6ヶ月の軍隊生活の間、椅子運動法を創案し、毎夜の練修で、脚の踏み付けによる衝動力を腹に持ってくることに気づき、腹力の強弱は中心力の強弱に比例することを知り、中心力を一層強烈なものとなした時期。
第三期は大正4年より大正12年までの9年間では、それまでの全練修法を気合応用強健術と呼吸応用の簡易強健術の二つの型に分けました。気合応用強健術は第一期から続くものですが、正しい姿勢がますます徹底完全になります。
簡易強健術の「簡易」は「簡単」ではない!
ここで注意しておきたいのは簡易強健術は気合応用強健術が安易簡単になったものではないということです。
確かに型は簡易、つまりシンプルになり、気合応用のように飛んだり跳ねたりの激しい動きより静的な部分が多くなっているのですが、その分、もう一段も二段も身体運用の精妙さを要求されていることに気が付かなければなりません。つまりただ闇雲に型を行えば良いわけでは無く、自分の身体を観察する眼を持って練修しなければならず、一段と難しくなったといっても良いかも知れません。
そして第四期は、大正12年より昭和11年までの14年間です。大正12年6月18日に完全なる正中心生命に落節して正中心極意を悟得した後、すぐさま今まで正中心を鍛錬するための型を三法に集約していきます。その三法とは、簡易強健術の第4動斜腹筋の型(正中の型)、と正中心鍛冶法即ち正中心道腰腹練修法、俗に言われる鉄棒の型二種(上体より)と(下体より)を加えた三法で練修時間も2分30秒に短縮されました。
昭和2年ごろになるとますます時間を短縮して正中心鍛冶法(鉄棒の型)の二法に集約され時間も3,40秒に短縮されてきます。晩年はもっと短縮され(下体より)の型一つに集約されて行きます。
私が伊豆矢幡野の肥田本家に通っている頃に肥田春充先生の御稽古場に毎回入れて頂き、往時の春充先生を偲ばせてい頂きました。その四畳半か三畳ぐらいのお稽古場の隅には春充先生が中心力で踏み抜いた板、踏み折った根太、捩じ切った鉄棒などと一緒にお使いになられた鉄棒が置かれていました。その中心鍛冶法に使われたものは、鉄棒とは言えない、想像を絶するような鉄の塊で、私を指導して下さった二代目・肥田通夫先生に伺ったところ、春充先生が晩年に使われたものだという事でした。
その鉄棒は、昔の鉄道の貨車に使われていた厚さ2センチ幅十数センチの2メートルから1メートルぐらいの鉄の板バネを5,6枚重ねてそのまま針金で結わえて持ち手を付けたもので、重さ30キログラム以上はあったと思う相当重いものでした。
今でも大塚本部道場には重量挙げ用の15~20キログラムほどの器具が戦前より置いてあり、戦前のものですから両端の車輪状のものはセメントで作られてはおり、その当時私がそれを用いて(下体より)の練修を行ったところ、一回行っただけで腰を痛めてしまいました。「どれだけ春充先生の腰腹は強かったのだろうか」と、改めて思ったものです。
四大要件から八大要件へ
肥田式強健術には具備する“八大要件”というものがあります。これは肥田式強健術を志す者の目標でありまた練修の結果としてついてくるものです。
- 筋肉の発達
- 内臓の壮健
- 皮膚の強靭
- 体格の均整
- 姿勢の調和
- 動作の敏活
- 気力の充実
- 精神の平静
各々については又の機会に詳述致しますが、春充先生の進化の道程を大まかに前期と後期に分けると正中心極意を悟得する前とその後に分けることが出来ると思います。
この前期は春充先生が一念発起してからのことですので八大要件は当初は、四大要件として上記の1)から4)までしかありませんでした。
ここでまず最初に「筋肉の発達」が来ていることに注目しなければなりません。
虚弱だった肥田先生がまず目標にしたのは自分自身に筋肉をつけ、鍛えることを主眼としていたのです。
また二番目に来ているのが「内臓の壮健」ですが最初の著書『実験簡易強健術』(明治44年刊)には気合(腹力)を土台としてこの運動法が成り立つとしっかり書かれております。
気合即ち腹力
その腹力を強めるための呼吸法は意識的に深い呼吸をすることで結果的に内臓に刺激を与え、マッサージ効果があります。この二つは肥田式強健術の基礎中の基礎です。
この八大要件の順番を軽視してはなりません。
これが肥田式強健術を学ぶ上での順番であり、目標であり、肥田式を修めた結果に他ならないからです。
肥田式強健術はオカルト的なものでは決してなくしっかりとした強健になるためのメソッドが確立されています。昭和16年頃より先生が伊豆・矢幡野の山を降りられなくなり、戦後、「宇宙倫理の道」の執筆にかかられると肥田邸へ上る長い坂道の途中には5メートル間隔で面会謝絶の札がいくつも立てられていました。私が肥田邸に通っていた昭和50年代後半にもまだその札は所々に残されておりました。昭和60年代に入り肥田先生の紹介がちらほら武術雑誌などに掲載されて来ると、「戦前日本にもこんな超人が存在したのだ!」というセンセーショナルな紹介の仕方から始まったことは致し方がなかったのかもしれません。というのも肥田式強健術関連の専門出版社壮神社が肥田先生著作の復刻版を本格的に刊行し始めたのが昭和60年に入ってからです。戦争末期の空襲で原本の紙型がすべて焼失してしまい、再版ができなく、戦後は先生の名前も半ば忘れ去られ、著作物も古本屋でしか手に入らない時代が長く続いたからです。
壮神社から初期のころに復刻された『聖中心道肥田式強健術』の本の中にも超人的なことをなさったエピソードがいくつか書かれていることは確かです。
ただこの原本は先生が正中心極意を悟得された大正12年から時代を経て昭和11年に発行された肥田式強健術の集大成の本なのです。ですからこの本だけを読んだのでは、強健術を世に送り出した明治44年から幾たびかの型の変遷があり初期の型が「筋肉の発達」、「内臓の壮健」にあったことを知らずに最終段階の型を稽古することになってしまいます。
先にも述べましたが機械に代用されている現代人の体力、気力が先生の時代よりは相当に衰えていることは認めざるを得ません。あまりにも腰を反る、腰を据える、腰を反折すると多く書かれた『聖中心道肥田式強健術』の本を最初に読まれた方は腰を反ることが絶対条件のように受け止められ、自分の身体的状況を観察することもなく腰を反ることに拘泥して腰を痛められ挫折してしまうという結果に終わってしまわれたのではないでしょうか。
それを避けるためには、まずは腰回りの筋肉をつけることから始めなければなりません。それには今ある姿勢を見直して何とか正しい姿勢へ戻すことから始めなければならないと思います。足腰がしっかりしないと正しい型に嵌っていかないことに気付くべきです。
また、
「体力強化は足腰にある」
と先生も述べられていることですので、足腰の強化を考えて型の練修を積んでいかなければなりません。気合も土台があってのことですから、強健術の練修に励むには腹力つまりは呼吸の深さ、肥田式内臓操練法をしっかりと練修していかなければなりません。これが肥田式強健術を学ぶ上での基礎中の基礎であることを本連載では何度も言わせていただきます。
次回は運動の指針と八大要件を詳細に見ていき、初期に確立した強健術の成り立ちから説明していこうと考えております。
(第三回 了)
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–Profile–
●富田高久(Takahisa Tomita)
1949年、鹿児島県出身。30歳の時に肥田式強健術と出会い、取り組むほどにその効果と奥深さに衝撃を受ける。1985年、肥田式強健術研究会を設立。以来、会長として肥田式強健術の研究と普及に努めている。
ビデオ「肥田式強健術(入門編)」・「肥田式強健術(実践編)」
Web Site 肥田式強健術研究会