【追悼特集】横山和正先生を偲んで「イメージと戦い続けた人」

| コ2編集部 下村敦夫

【追悼特集】研心会館館長 横山和正先生を偲んで

追悼文「イメージと戦い続けた人」

日貿出版社 コ2編集部 下村敦夫

 

横山和正先生

 

もうすぐ横山和正先生がお亡くなりなって、一年が経ちます。

もともとアメリカ・テキサスから年に数回日本にいらっしゃる度にお会いするという関係であったこともあり、いまでも「来月日本に行きます」というメッセージが届くような気がしています。

ここでは一年の区切りとして、コ2編集人として、また遺著となった『沖縄空手の学び方』の編集担当者として、私の知る横山先生について少し書いてみたいと思います。

また、コ2では追悼特集として、ご生前に病室で行ったインタビューや追悼動画も順次公開していく予定です。


私の知っている横山先生は「イメージ」と戦い続けた人です。

一つはご自身についていた「アメリカン空手の人」というイメージです。

私自身、最初の横山先生のイメージは「アメリカン空手の人」というものでした。

恐らく90年代に発行されていた雑誌「空手道」(福昌堂)にアメリカの空手事情について寄稿されていたことや、一緒に掲載された写真で、当時薄く口ひげをたくわえて、レガースをつけていた横山先生の姿がいかにも“アメリカン”な感じで、強く印象に残っていたのでしょう。

実際に横山先生とお付き合いをさせていただく中で、そうお話しすると、

「そうなんですよ。いまだにそういうイメージを持っている人が多くて」

とちょっと困ったような顔をされ、

「ただ、あれがなかったら生き残れなかったですから」

と、テキサス時代のことをお話ししてくれました。(1)

 

もう一つのイメージは多くの人が持っている「空手へのイメージ」です。

「空手というと突いたり蹴ったりするものだ、とみんな最初から一定のイメージを持っているんですよ。“空手とはこういうものだ”と。だけど違うんですよ。それは空手のほんの一部、表現の形で本質はもっと自由で、生きることに直結したドラマチックなものなんです」

会う度に横山先生はこんな話をされていました。

伺った当初は理念としての空手のお話をされているのかと思っていたのですが、繰り返し聞くうちに、そうした建前的なことではなく、横山先生自身の体験を踏まえた空手の捉え方だということに気がつきました。

何かを学ぶ際に、私たちはほとんどの場合、自分の外側にあるものを自分の内側へ取り込もうとします。

新しい言葉や公式、技術。

今の自分に備わっていないものを、見よう見まねで学び、イメージし少しずつ自分のものにしていく。

それは学びのプロセスとして間違っていないでしょう。

ですが横山先生はそのプロセス自体を認めつつも、知らず知らずのうちにそのプロセス自体に縛られてしまい、そこから離れず一番大事な要素に気がつかないことにもどかしさを感じていたようです。

「突きや蹴りができて、型を知っている。だからといって空手家なのかと言えばそれは違う」

そう横山先生はよく仰っていました。

では横山先生が考える一番大事な要素とはなんだったのでしょう。

それは横山先生が自分自身の体験を踏まえて、空手と人との関係が、

「学ぶものと学ばれるもので終わるものではない」

という確信だったと思われます。

「学ぶ・学ばれる」という相対的な関係では、どこまでいっても二つは真の意味で交わることはありません。

禅と同じく、「私が坐禅をする」のではなく「坐禅になる」。そこに我をはなく、またその結果得るものを想定せず、徹底的に没入し尽くす。

これは禅を例えに出すまでもなく、他の武術を含めてあらゆる分野で、ある種の独自のスタイルや理論を見つけた人は、学びを自分の中で消化し、学んだことと、そもそも自分の持っていたものとの境目が、本人にもわからなくなるほど同化しているのではないかと思います。

そうならなければ「(私が)知っている」ことにはなっても、それ以上の関係ではないのでしょう。

それは遺著となった『沖縄空手の学び方』の最後のインタビューにも伺われます。

 いま思うと私が学んだ沖縄での型の訓練はセンティエント(sentient)=感覚的なものを活用した訓練法だったと思いますね。本文にもくり返し書いているように、沖縄での稽古は理屈もなくただ「力一杯動く、最速で動く」といったものでした。説明なんて全然なくて、立ち方の名前もなかったくらいです。

逆に本土の空手はそうした名前を含めて色々なことがすごく整理されて空手というイメージに向かっていけるようになっている。多分それは本土で空手を広めるにあたって必要なことだったと思うのですが、そのなかで失われてしまったのが感覚的な部分だったと思います。

言い換えればイメージ(Image)原理の本土の空手に対して、私の学んだ沖縄小林流の訓練法はセンティエント原理であるということです。

もう少し言うと本土の空手が〝空手〟というイメージを最初から持って、それに近づけるように構成されている。競技の違いはあるけれど、それぞれに学ぶ人はもちろん観る人にもある共通認識のもとに空手というものが成立していて、皆そこへ向かっていくわけです。

沖縄小林流の空手はそういうイメージに向かっていくのではなく、何もないところから自然発生してくる現象や感覚を蓄積して自分の空手を創っていくわけです。

『沖縄空手の学び方』第15章 横山和正インタビュー p301~p302より

「センティエント(Sentient)」。つまり、空手に没入することで自分の内側にある「感覚的なもの」を賦活化させ目覚めさせることが横山先生の考える「空手」だったのだと思います。(2)

武道、武術、立ち技、格闘技……、ジャンルや技術などでラベルを付け、自分の外側に「空手」をイメージして、そこに自分をなぞらせる。そうしたことに対して、横山先生は「そうじゃないんだよ、それぞれが空手に成るんだよ」と言い続けていたのです。

だからこそ本書の「おわりに」で、

「空手プレイヤー」ではなく「空手家」なのです。

と記されていたのです。

空手との関係は、空手を「“do(する)”」ではなく「be”(なる)」。

それこそが横山先生が追求し続けた空手だったのでしょう。

それは横山先生の人生の軌跡にも現れています。

高校在学中に台湾で衛笑堂老師の元で学び、そこに空手の源流である沖縄空手の姿を見つけ、沖縄の中里周五郎先生門下に。そこで空手の爆発力に気がつき、師からの「君はアメリカに行って成功しなさい」という言葉に背中を押されて23歳で渡米。以来30年、空手一つで身を立てて、50過ぎてから映画デビュー……。

一般の人がイメージする日本人とはかけ離れていますが、それも「空手家・横山和正」と考えれば当然なのかもしれません。

なぜなら横山先生が実感した「空手に成る」ということは、多くの人にとっての「常識」という名の「イメージ」から解き放たれた存在であることだからです。

「自分の体の中にある爆発するような力。それ以外の何もかもが消し飛んでしまって、これがあれば大丈夫だと信じられるもの。それが空手なんですよ」

という言葉は、単に「瞬撃手」と呼ばれた卓越したスピードの身体的な原動力というだけではなく、生き方そのもの、人間・横山和正が横山和正として生きることの源であったことに今更ながら気付かされます。

そうした横山先生は自らが実感する「空手」を伝えたかったのだと思います。

それは技術的なことを越え、それぞれの生き方の源となるものであり、それ気づき実践すれば誰もが自分自身や常識から創られたイメージから自由に、それぞれの本質が賦活化した空手家になれるのだ、という想いがあったからでしょう。

残された我々には、横山先生を稀有なる空手家として懐かしむ存在にするのか、それとも、その教えを実践するのかが託されているのだと思います。

それは空手を学んでいるかどうかではなく、限られた時間の中ある私たちへ、予め物事にイメージを持ち、惰性で行うのではなく、常に予断なく物事に向かい合えるかという姿を、見せてくれたのだと思います。

最後に横山先生が「はじめに」で書かれた文章を引用して終わらせていただきます。

知るだけでは不十分 (Knowing is not enough.)
学びなさい (You must learn.)
学ぶだけでは不十分 (Learning is not enough.)
実践しなさい (You must apply.)

改めて空手家・横山和正先生のご冥福をお祈りいたします。

日貿出版社 コ2編集人 下村敦夫

 


(1)『沖縄空手の学び方』にも書かれていますが、横山先生がそもそもテキサスを活動拠点としたのは、サンフランシスコから東海岸を目指す途中で「難破」したからです。

「当時はアメリカの広さがあまりにも桁外れで実感がなかったんですよ。なにしろテキサス州だけで日本より広いんだから、西海岸から東海岸までなんて、今考えればボロ船で太平洋を横断するようなものですよ(笑)」

という通り、14万円で買った中古車はロスでタイヤが取れ、テキサスにたどり着いたところで廃車。手元にお金がなく、「なんとか車を買う金を稼ごう」と賞金を目当てに空手の大会にエントリーし続け、一週間、毎日一個のハンバーガーだけで過ごしたこともあったと言います。

それでも頑張り車を買うお金が貯まった頃には、「うちの道場で教えて欲しい」という声が多く離れようにも離れられなくなったそうです。

もちろんそこに至るまでは大変で、

「こっちが日本人だからということで、常連連中がグループになってもう最初から潰しにくるんですよ。薄いグローブで「寸止め」というルールなのに容赦無くフルスイングで顔面を打ってくるし、体重も滅茶苦茶。明らかに20キロ以上重い選手とやらされましたよ(苦笑)。それでもこっちがルールを守ってやっていても全然とってくれない。頭にきてバンバン倒しましたね」

と言います。その一方で強さを証明することでガラッと変わるのがアメリカ(テキサス?)流で、

「ある日会場に行くと、会場にいる子供たちが自分の顔写真が入ったTシャツを来ていて、「あれ、なんだろう?」と思っていたら、売店で売ってるんですよ、もちろん自分の許可なく(笑)。「なんだこれ?」と思っていたら、「カズ、こっちに来いよ!」と常連グループが声をかけてきて、「いやぁ、お前強いな。今度うちの道場に来てくれ」って(笑)。潔いというんじゃなくて、分かりやすく手のひら返しでコロッと(笑)。内心、「この野郎!」と思うんだけど、それがあっけらかんとしているから「しょうがねぇか」と(笑)」

以来、テキサスで着実にキャリアを積み、1988年に研心国際空手道を発足、米国のアマチュア運動連合(AAU)の空手道ガルフ地区の会長を務めることになります。

また最初こそ不本意であったものの、そこに居を構えるのですからテキサスの水が合ったのか、と思えばそんなことはなく、

「テキサスは嫌いです」

とおっしゃり続けていたのも印象的です。ただ、

「嫌いであり続けていることが、常に自分に緊迫感を持たせてくれているところもあるので、ちょうどいいのかもしれないですね」

とも言われていました。

(2)横山先生が常人とは異なるセンスを持っていたことは間違い無いと思います。その一つが生前ご自身もおっしゃっていた「物事を分析的に見る能力」です。『沖縄空手の学び方』にも蟷螂拳の七手とナイハンチの類似点を見つけるなど随所にそのセンスが現れていますが、私自身、実際に目にして驚いたことがあります。

それはコ2でもご紹介させて頂いている、小用茂夫先生が主催される刀禅の稽古にお連れした時のことです。

その時は「掛け掌」と呼ばれる、二人一組で手を合わせた状態で、互いに相手の圧を通し合うという稽古をしていました。※こう言葉にしても分からないと思いますが、それについてはまた改めてご説明する機会を作りたいと思います。

稽古場に現れた横山先生は小用先生に挨拶をすると、特に色々質問をするという風はなく、黙って1時間ほど稽古の様子を眺めていました。空手とはもちろん、いわゆる武術(刀禅はボディワークですが)の稽古とは全く違うこともあり、「うまく伝わったかな?」と、お連れした身としては気になったのですが、この日は稽古後に行事もあり、バタバタしていため直ぐに感想を聞くことができませんでした。

後日、再度来日して『沖縄空手の学び方』の打ち合わせの際に感想を伺うと、

「ああいう長時間相手に触れ合う稽古というのはいいですね。お互いに伝わる情報量が多くなるので。じっくり触るなかで体の内側の感覚とか力とか繋がりが言葉でなく感じられるので、凄くいい稽古だと思いました」

と、稽古の本質をズバリと言い当てたのです。驚いて、

「なんでそう思われたのですか?」と尋ねると、

「空手の「掛け手」なんかもそうですよ。あまりそんな風に考えている人はいないかもしれないけど」

と仰り、「ああ、やっぱりこの先生は凄い」と実感した瞬間でした。

またその後で少し懐かしそうに、

「あと台湾での稽古を思い出しましたね。向こうではああいう感じで号令なんかなくて、ポツポツと集まって稽古していたんですよ。そういう雰囲気がありましたね」

と仰ったのを覚えています。


書影『沖縄空手の学び方』

『沖縄空手の学び方』横山和正著

横山和正先生の遺著となった『舜撃の哲理 沖縄空手の学び方』。本書はすでにご自身が重篤な癌に冒され、余命宣告を受けたなか「最後の仕事」として向かい合った一冊です。横山先生が追求し実感した空手の姿がここにあります。

現在、アマゾン、全国書店で発売中です。

連載を含む記事の更新情報は、メルマガFacebookでお知らせしています。
更新情報やイベント情報などのお知らせもありますので、
ぜひご登録または「いいね!」をお願いします。

–Profile–

横山和正(Kazumasa Yokoyama

沖縄小林流空手道研心会館々長。
本名・英信。1958(昭和33)年、神奈川県生まれ。幼少の頃から柔道・剣道・空手道に親しみつつ水泳・体操等のスポーツで活躍する。高校時代にはレスリング部に所属し、柔道・空手道・ボクシング等の活動・稽古を積む。

高校卒業の年、早くから進学が決まったことを利用し、台湾へ空手道の源泉ともいえる中国拳法の修行に出かけ、八歩蟷螂拳の名手・衛笑堂老師、他の指導を受ける。その後、糸東流系の全国大会団体戦で3位、以降も台湾へ数回渡る中で、型と実用性の接点を感じ取り、当時東京では少なかった沖縄小林流の師範を探しあて沖縄首里空手の修行を開始する。帯昇段を機に沖縄へ渡り、かねてから希望していた先生の一人、仲里周五郎師に師事し専門指導を受ける。

沖縄滞在期間に米国人空手家の目に留まり、米国人の招待、および仲里師の薦めもあり1981年にサンフランシスコへと渡る。見知らぬ異国の地で悪戦苦闘しながらも1984年にはテキサス州を中心としたカラテ大会で活躍し”閃光の鷹””見えない手”との異名を取り同州のマーシャルアーツ協会のMVPを受賞する。1988年にテキサス州を拠点として研心国際空手道(沖縄小林流)を発足、以後、米国AAU(Amateur Athletic Union アマチュア運動連合)の空手道ガルフ地区の会長、全米オフィスの技術部に役員の籍を置く。

これまでにも雑誌・DVD・セミナー・ラジオ・TV 等で独自の人生体験と沖縄空手を紹介して今日に至り、その年齢を感じさせない身体のキレは瞬撃手と呼ばれている。近年、沖縄の空手道=首里手が広く日本国内に紹介され様々な技法や身体操作が紹介される一方で、今一度沖縄空手の源泉的実体を掘り下げ、より現実的にその優秀性を解明していくことを説く。 すべては基本の中から生まれ応用に行き着くものでなくてはならない。 本来の空手のあり方は基本→型→応用すべてが深い繋がりのあるものなのだ。 そうした見解から沖縄空手に伝えられる基本を説いていこうと試みる。

平成30年5月26日、尿管癌により逝去。享年60。

書籍『瞬撃手・横山和正の空手の原理原則』(BABジャパン) ビデオ「沖縄小林流空手道 夫婦手を使う」・「沖縄小林流空手 ナイファンチをつかう」・「沖縄小林流空手道 ピンアン実戦型をつかう」「沖縄小林流の強さ【瞬撃の空手】」(BABジャパン)

web site: 「研心会館 沖縄小林流空手道」
blog:「瞬撃手 横山和正のオフィシャルブログ」