【追悼特集】横山和正インタビュー01「空手は人生、人生は動く」

| コ2編集部 下村敦夫

【追悼特集】研心会館館長 横山和正先生を偲んで

インタビュー01「空手は人生、人生は動く」

聞き手・文日貿出版社 コ2編集部 下村敦夫

 

横山和正先生(東京 公開講座 2017年)

 

空手家・横山和正先生が2018年5月26日に亡くなられて、もうすぐ一年が経ちます。

コ2では追悼特集として、横山先生の残された言葉や映像をご紹介しています。

先週公開した追悼文「イメージと戦い続けた人」に続き、今週は闘病中の病室で伺ったお話を数回に分けてご紹介します。

※本インタビューは2018年5月12日に入院先の病室で収録したものです。


ヨコ・リーと呼ばれていた

コ2 先生は一貫して変わらないですね。

横山 武道でアメリカに行くって思った時に、既に(覚悟が)できちゃったのかな。やっぱり情報もないなかで知らない国に行くので「これはもう生きては帰れないな」というのはありましたね。母親にも「成功するまで帰ってくるな」と言われて、もう帰るところないじゃないですか(笑)

コ2 帰ろうと思うことはなかったんですか?

横山 年中ですよ。

コ2 帰らなかったのはなぜですか?

横山 まずひとつは「ここで帰ってしまったら何も残らない」ということ。でも(アメリカの)大会でトロフィーを獲っても「これじゃないな」というのがあって。「これで帰ったら、なにもないじゃん」というのは自分の中でありましたね。

コ2 一番帰りたくなったのは?

横山 毎日ですよ。ただビザの関係で、永住権を取るまでに8年かかったんですよ。その8年間は帰れないんですよ、一回帰っちゃうとまた今度入ってくる時に大変だから。でも自分が「これをしたい」と思った時に、それができなと辛いじゃないですか。周りはわけのわからない英語を喋って、こっちは全然わからないし、「いっそのこと帰ってしまえばどんなに楽か」と年中思っていましたね。なんか刑務所に入っているみたいな感じで(笑)。

コ2 最初は4年ぐらいやったら帰ってこようと思っていたんですよね。生活のためにずいぶん向こうで試合をされたそうですが。

横山 試合に出た期間は短いですから。あんな試合はっきり言って大したことないんですよ。だけど、それ以外にセミナーとかデモンストレーションの話がたくさんきて居続けてことになってしまった。だって最初に行った時点では誰も(自分のことを)知らないから「セミナーやりますよ」とか「デモンストレーションやりますよ」と言っても誰も呼んでくれないんですよ。

だけど試合で人気が出て、「この人がデモンストレーションをやりますよ」と言うと、人が集まるわけですよ。そうするとトーナメントを主催する人間も客を呼ぶために声をかけてくるわけで。すると今度は色々な道場から「今度うちの道場で講習会をやってくれ」となって。俺も試合についてはそのくらいのステップでしか考えてなかったですから。さっさとそっちの方に切り替えていきましたよね。

コ2 結構、試合では潰しに来ると仰っていましたね。

横山 そうそう、ただアメリカの良いところというのは「こいつ良いな」と思ったら、サッと味方になるところで(笑)。あんまり日本みたいなややこしいことがない。試合なんか行くと常連の連中がいて、レフリーよりも幅きかせていて、試合でもレフリーが気を利かせてポイントをあげていて。

そういうところに日本人が一人でやってきても全然相手にしてくれない。でも何か凄いことをやってみせて、常連の連中が一目置くようになると、彼らもヤバイと思って仲間に引き入れてくるんですよ。会場で「ヨコヤマ、ちょっとこっに来いよ」なんて(笑)。そうなると試合でも特別扱いになっちゃって、アメリカの試合なんてそんなもんですよ。なにやってもフリーパスになっちゃって(笑)。

コ2 (笑)映画の「ベストキット」そのままですね。

横山 本当にそのままですよ。

コ2 「ライトニング・フラッシュ・ハンド」という異名はいつぐらいからつけられたのですか?

横山 あれはカルフォルニア時代。俺はカルフォルニア時代は「ヨコ・リー」と呼ばれていましたからね(笑)。やっぱり空手とか武術というとブルース・リーのイメージがあるじゃないですか。若くて派手だったのでヨコ・リーと呼ばれてましたよ(笑)。

コ2 (笑)

横山 最初は子供が言い出して。道場で子供のクラスをやっていると「ヨコ・リーだ!」と、すごく喜んで言い出して。それで「ライトニング・フラッシュ・ハンドだ!」と(笑)。アメリカの子供ってそういうところが敏感なんで。本当にアメリカも面白かったですね、今考えると。

横浜 書籍打ち合わせ 2018年

空手は人生そのもの。思い切って動く

コ2 その後にテキサスですね。

横山 テキサスに行ったのは85年かな。

コ2 いまだにテキサスは嫌いだとおっしゃっていますね。

横山 大っ嫌い。だけどテキサスで得たものも多いから、それがちょっとね。映画づくりの仲間がサンアントニオというとこにいて、やっぱり、なんかいいんですよね。この間もミーティングで行ってきたんだけど、良いところで。

自分が一番戦ってきた街じゃないですか。だからそういう面から考えると、自分の歴史が入っているし、いろんな人とも出会ったから。だからテキサスの街は嫌いで、人間もあんまり好きじゃないけどよくあれだけ人種差別の激しいところでこれだけのしあがっていたなというのはありますね。

あれ話しましたっけ? 初めてテキサスで空手を教え始めた時。YMCAで教え始めたんですよ。コンロー(モンゴメリー郡)という田舎で、そこのディレクターが「うーん、じゃあ、あんたにチャンスをあげるよ。だけど期待しないで」と言うんですよ。「だってこのコンローの街には中華料理も何件しかないんだよ。あんたレッドネックっていう言葉知ってる? (空手なんか誰も知らないよ)だから期待しないでね」と言われたんですよ。

それで、クラスが開始になる二週間前に確認したら「5人サインアップしたよ」と言われて。俺にすれば5人なんてハードルが低いんですよ。まあ「ああ、そうですか」と答えて。いざ始まる時になったら20人になっていて。こっちももう派手にやりましたから、半年後には50人になって、一年後には80人になったんですよ。

そうしたらディレクターがぶったまげて、「うちの目玉商品だよ!」と。ローカルだけど新聞社から取材が来たりしましたね。

その時に入った生徒がまだいますからね。彼が言うには「それまで他の空手をやっていたけれど、YMCAにすごい空手の先生が来たという噂を聞いて見に行ったら先生で入門しました」と。

コ2 なぜ成功したんでしょう。

横山 やっぱり「やってやろう」という気力じゃないですか? 空手には色々なスタイルがあるんだけど、やっぱり最終的には「やってやろう!」という気迫とか、もちろん内容が伴わなければダメになっちゃうんだけど、あの時は「誰にも負けない」と思っていたし。とにかくやらなければ食っていけないというのもあるじゃないですか。あと大会で受けたりして、アメリカ人をあっと言わせるポイントは掴んでいたから

コ2 そのポイントとは?

横山 最初の駆け引きで相手を叩いてしまう、というか、「あっ!」と言わせるんですよ。それは試合も演武も同じ。本にも「喧嘩はパフォーマンス」だと書きましたけど、あれって重要なポイントなんですよ。

パフォーマンスにも色々なものがあって、(よくあるのが)見るからに強そうにして相手を威嚇してしまうパターンと、あんまり強そうに見えないけれどやってみたらすごく強いというパターン。

ブルース・リーなんかも上手いのは、自分のことを決して強そうには見せない、見た目だけでは。だけどちょっとした動きで「わっ!」とさせる。人間にはそういうギャップがあって、俺なんかもどう装っても強そうに見えるわけないんだから、もうそのギャップで勝負をする。だからその辺の一瞬芸があるかないかの違いが凄くあると思うんですよ。

だからA.J(オランダの弟子)なんかもそれでビックリしたみたいで。彼なんかは向かい合って俺にぶつかった時に「ビルにぶつかったような感じがした」と言いますね。彼は本気で試してきますから、俺の技は知っていますよ。

アメリカに行ってもそうでしたね。だからカルフォルニアでは「ヨコ・リー」でしたけどテキサスでは「ニンジャ」でしたから(笑)。当時はニンジャブームで最強に強いのはニンジャだというのがあったから。結構生意気なカウボーイなんかも来てチャレンジを受けたりもしたんですけど、最後には「ニンジャだ!」と驚いて(笑)。

コ2 そういう一瞬で相手を捉えてしまう技術というのはアメリカに行ってからですか。

横山 そうですね。沖縄時代は習う側だったので。習う側というのは全てを受け入れないといけないじゃないですか。今回の原稿にも書いたように「知っているだけじゃ……」ということで、やっぱり実践の部分というのは習っている時代にはまだないんですよね。

実践になる段階というのはやっぱり自分が独立した時。その時初めて今まだ習ったものの中の良い部分を自分の中に吸収して、捨てる部分を捨てる段階になっていくと思うんですよ。

自分に何が合っているのか、自分に何ができるのかということを考える

俺の場合その実践の部分がちょうどアメリカだったからやりたいことがやれた。変に協会とかの組織に入らなかったから、突飛なこともできた。アメリカ社会に入って現地の人に教えたじゃないですか、だから(向こうの)日本の先生のなかには「あいつはアメリカ人に空手を教えて、日本の空手から外れている」みたいなことを言われたこともあった。

でも、アメリカの中にいる日本人の数なんかたかが知れているんですよ。だからアメリカで生きていくんだったら、やっぱり現地のアメリカ人に教えなければダメなんですよ。だから日本の先生たちとまとまってやるよりも、そこから外れて現地の人を相手にした方が良いと思ったんですよ。

だからこの間、下村さん(コ2編集人)に空手観について聞かれましたけど、やっぱり俺にとって空手は「人生そのもの」で、じゃあ「人生ってどうなんだ?」となったら、「空手と同じで思い切って動く」動く時は本当に思い切って動くことが大事なんじゃないかな、と……。

「自分にとって空手は人生であって、人生そのものは動く」ということ。そういう風につながっていくのかな、と。

コ2 一貫していますね、そこはずっと。言い続けてますものね。

東京 『沖縄空手の学び方』撮影現場 2018年

(第一回 了)


書影『沖縄空手の学び方』

『沖縄空手の学び方』横山和正著

横山和正先生の遺著となった『舜撃の哲理 沖縄空手の学び方』。本書はすでにご自身が重篤な癌に冒され、余命宣告を受けたなか「最後の仕事」として向かい合った一冊です。横山先生が追求し実感した空手の姿がここにあります。

現在、アマゾン、全国書店で発売中です。

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–Profile–

横山和正(Kazumasa Yokoyama

沖縄小林流空手道研心会館々長。
本名・英信。1958(昭和33)年、神奈川県生まれ。幼少の頃から柔道・剣道・空手道に親しみつつ水泳・体操等のスポーツで活躍する。高校時代にはレスリング部に所属し、柔道・空手道・ボクシング等の活動・稽古を積む。

高校卒業の年、早くから進学が決まったことを利用し、台湾へ空手道の源泉ともいえる中国拳法の修行に出かけ、八歩蟷螂拳の名手・衛笑堂老師、他の指導を受ける。その後、糸東流系の全国大会団体戦で3位、以降も台湾へ数回渡る中で、型と実用性の接点を感じ取り、当時東京では少なかった沖縄小林流の師範を探しあて沖縄首里空手の修行を開始する。帯昇段を機に沖縄へ渡り、かねてから希望していた先生の一人、仲里周五郎師に師事し専門指導を受ける。

沖縄滞在期間に米国人空手家の目に留まり、米国人の招待、および仲里師の薦めもあり1981年にサンフランシスコへと渡る。見知らぬ異国の地で悪戦苦闘しながらも1984年にはテキサス州を中心としたカラテ大会で活躍し”閃光の鷹””見えない手”との異名を取り同州のマーシャルアーツ協会のMVPを受賞する。1988年にテキサス州を拠点として研心国際空手道(沖縄小林流)を発足、以後、米国AAU(Amateur Athletic Union アマチュア運動連合)の空手道ガルフ地区の会長、全米オフィスの技術部に役員の籍を置く。

これまでにも雑誌・DVD・セミナー・ラジオ・TV 等で独自の人生体験と沖縄空手を紹介して今日に至り、その年齢を感じさせない身体のキレは瞬撃手と呼ばれている。近年、沖縄の空手道=首里手が広く日本国内に紹介され様々な技法や身体操作が紹介される一方で、今一度沖縄空手の源泉的実体を掘り下げ、より現実的にその優秀性を解明していくことを説く。 すべては基本の中から生まれ応用に行き着くものでなくてはならない。 本来の空手のあり方は基本→型→応用すべてが深い繋がりのあるものなのだ。 そうした見解から沖縄空手に伝えられる基本を説いていこうと試みる。

平成30年5月26日、尿管癌により逝去。享年60。

書籍『瞬撃手・横山和正の空手の原理原則』(BABジャパン) ビデオ「沖縄小林流空手道 夫婦手を使う」・「沖縄小林流空手 ナイファンチをつかう」・「沖縄小林流空手道 ピンアン実戦型をつかう」「沖縄小林流の強さ【瞬撃の空手】」(BABジャパン)

web site: 「研心会館 沖縄小林流空手道」
blog:「瞬撃手 横山和正のオフィシャルブログ」