達人対談2016「果てなき内的探究」 成瀬雅春 × 藤田一照 第一回 瞑想をしないと生きていられない

| 成瀬雅春 藤田一照

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2016年10月14日に行われるソマティックフェスタでは、コ2【kotsu】のコラボ講座が行われることが決定! そこで今回は「ソマフェスコラボ記念!」として、5月1日に行われたイベント「達人対談2016」の模様を、三回にわたってお届けします。

この対談では、成瀬雅春さん(ヨーガ行者)と藤田一照さん(曹洞宗僧侶)のお二人に、「瞑想」をテーマに含蓄に富むお話をいただきました。司会は、本対談の企画者でもあり、ソマフェスの企画運営もつとめる有本匡男さん。ご自身もteateセラピストとして施術を行う中での気づきから、ツボをおさえた質問で会場を盛り上げました。

 

対談/成瀬雅春×藤田一照

「達人対談2016 果てなき内的探究
——瞑想の実践」

第一回 瞑想をしないと生きていられない

語り成瀬雅春、藤田一照
取材協力オーガニックライフTOKYO事務局
構成・撮影コ2編集部

 

有本匡男(以下、司会) 達人とは「長年の経験と豊富な実績により、その道を究めた人」という意味があるそうです。オーガニックライフTOKYOでは、昨年(2015年)より「達人対談」と銘打った対談(※)を行っています。今回は瞑想をテーマに、実践経験の長いお二方に対談していただき、その道の権威による深い視点からのお話を聴くことで、参加した皆さんに、いい時間といろいろな気づきをもって帰っていただければと思っています。

※昨年の達人対談は、DVD「達人対談2015 成瀬雅春&神尾学 対談」(熊猫堂)として発売中。

藤田一照(以下、藤田) 「達人対談」ということですけど、最初このタイトルを聞かずに引き受けてしまって。のちに“達人”対談だと言われて、ちょっと引いてしまいました。僕は未達人なので(笑)。でも成瀬先生はまちがいなく達人なので、今日は“達人 VS 未達人”対談と勝手に解釈して、ここに坐っております。

司会 いえいえ一照さんは……すみません、ふだんから「一照さん」とお呼びしていまして。「“先生”はやめてくれ」と言われたりもします。

成瀬雅春(以下、成瀬) 僕も“先生”はやめといてね。

司会 分かりました。「成瀬さん」にします。

成瀬 「成瀬くん」が一番うれしいな(笑)。

司会 それはちょっと勘弁してください(笑)。

ではまず、会場の方にお聞きしたいのですが、ふだんから瞑想を実践されている方はどのくらいおられますか?(会場からパラパラと手が挙がる)ありがとうございます。

では興味があって「やってみたい」と思われている方は? すばらしい。

今、かなり手が挙がりましたが、瞑想が今、世の中にいろいろな形で紹介される場面が増えてきました。でも実践にあたって「つかみどころがない」とか、「やろうと思っているのに、どうすればいいかわからない」という声もよくあがります。

そこでお二人に「どうして瞑想を始めたのでしょうか?」という経緯から、おうかがいしたいのですが。

成瀬 瞑想をやるきっかけというか、ヨーガのこと自体で僕がよく聞かれるのは「何でヨーガを始めたんですか?」とか「いつから始めたんですか?」という質問です。

ですが「ヨーガをする」というのは、「人間をしてます」というのと一緒なので。瞑想もそういうことなんです。だから、生きるためには瞑想をしないと生きていられない。これは皆さんも同じ。

こういう考えなので、「いつから」も「何で」も、実はないですね。

藤田 すごく深い答えが成瀬さんから来たので、僕も繰り返したいですけど……それでは、あまりに能がないので。

僕の場合は、10歳くらいの時に「星空体験」と呼んでいるものがあります。ある夜に自転車に乗って、それが何でなのか、どこへ行こうとしていたのか、全く前後の脈絡を忘れているのですが、とにかく自転車に乗ってふと星空を見上げたとたんに、何かにガーンと打たれるような体験がありました。

それは何だったのか……を言葉にしても、ほんの一部しか言えない感じがしますが、あえて言うなら「自分がなぜここに、こうしているかが分からない」ということ。別に分からなくても暮らしてはいける。でも「分からないということが分かった」とでもいうのでしょうか、そういう何か大きな疑問みたいなものが、自分の中に宿ってしまったのですね。

これは世の中の基準でいう“損得”とは、全く関係がないことです。これが分かったから得する/損するといった、大人たちが言う損得とは全然違う問題や次元があるのだと、その時、何か分かったような気がしました。

当時はそれを、ある概念として整理するための言葉も考えもなかったのですが、そういう“(認識の)裂け目”みたいなのが、自分の中に生まれたんです。それを解明したいというか、裂け目をふさぎたいというのが、今に至る一番遠い動機になっているのかなと思います。

司会 その後、なにか具体的な実践に入られたのですか?

藤田 はい。学校でやる勉強とは関係なく「勉強したら分かるんじゃないか」と、自分なりにいろいろ読んだり考えたりはしていました。でも大学院の博士課程にまで行った頃に、けっきょく学校でやることは、そこには全然触れないのだということが、やっと分かって。「もうムリだ、これは」と見切りがついたような感じになっていました。成瀬さんなんかに言わせたら、「ずいぶん時間がかかったねえ」ということになるんでしょうが。

その頃たまたま、ある人の勧めで禅の実践、つまり修行道場での雲水生活の実際に出会い、これだったら星空体験がきっかけで“ある”と分かった問題にまともに向き合う人生が送れるかもしれないと直感的に感じたんです。

こうして、子どもの時の星空体験から約20年を経て、やっとそれにちゃんと向き合えることができる道を見つけた。それが坐禅を中心にした修行生活に入ったいきさつです。

藤田一照先生
藤田一照さん

成瀬 僕の場合は「今晩、メシ何しようかな」とか、「洋食にするか、和食にするか。困ったな」とか。どっちにするか? それはもう瞑想です。

沈思黙考するというのは、もう瞑想の作業なんです。だから日々、そういうことをやっています(笑)。

皆さんだって同じですよ。後でまた話が出るかもしれないですけれど、瞑想って、自分の頭の中を整理する作業なんです。二つ選択肢があった時にどちらにするかは、頭にモヤがかかっているとわけが分からない。けれども瞑想をすると「こっちの方を選択すべきだ」というのが、クリアにポーンと見えてくるんですね。

日々いろいろなことを迷ったとき、瞑想すれば必ず「こっちにする」という選択肢が見えてくる。生きていくための非常に便利なツールですね、瞑想は。

藤田 成瀬さんの答えは、当たり前のようでなかなかというか……それを実際に行うのは、本当にすごく深い話だと思います。僕の場合は「どういう修行をしているか」という質問への答えとして、お話ししますね。

禅では日常生活はもちろん全部修行で、24hours a day、7days a week……継ぎ目なしの連続的修行という感じです。でもそうなるには、修行の基本形みたいなものが必要になってきます。

僕は曹洞宗という禅の一つの宗派に属していて、その基本形は「坐禅」だとされています。坐禅にもいろいろありますが、「只管打坐[しかんたざ]」といわれる「坐ることそのものを深めていく」のが基本形です。でも身体は坐っているだけではダメで、心も身体と一緒に坐っていないといけないんです。心が坐禅の形をしてそこに坐っている。

でも日常の、身体と心がバラバラになっているような、ふだんのあり方のまま坐ったのでは、なかなか坐禅に心が、魂が入っていかない。「体が坐っているだけ」になってしまう。心がどこかにさ迷いだしている。その身心一如の調え方を僕なりに工夫しているのですが、その中にヨガやソマティックワークとか、古武術とか、縁に任せていろいろかじりながら、調った身心で深く坐れるような道筋を探っているところです。

司会 日常の“迷走”状態の中で、“瞑想”してしまうと……あ、ちょっとややこしいことを言いましたね。

では「坐る」という基本形が成立する過程とは、どのようなものだったのでしょうか?

藤田 僕としては、お釈迦様が菩提樹の下で坐った、あの瞑想とも坐禅とも何ともラベルがつかない、テクニック以前、メソッド以前の原初の坐りが、後に「只管打坐」と呼ばれるようになった坐禅の原型だと考えています。

ただそこで、生命が純粋に生命している状態にしばらくとどまっていたいという願いが、そのままそういう姿になった、いまだテクニックやメソッドになっていない、非常に素朴なものとしての坐り。

それを僕は「樹下の打坐」と呼んでいるのですが、既成のメソッドを自分に当てはめるようなものではなく、「誰もが生きるためにしている最も基本的なこと、たとえば姿勢の微調整だとか呼吸という自然な運動だとかがより深いレベルで行われるような坐禅」を自分の生活の中心に置いて、そこからあらゆる生活行為を陶冶していくことが、瞑想の実践と言えると思います。

成瀬 「瞑想して坐る」ことは必要だとは思うんですけど。でもそれだけだとまだ、瞑想は活きていないですね。“瞑想するだけ”では、何にもならない。

いろいろな人と関わり合いがある時にどう付き合うかとか、面倒くさいことが起きたときにどう過ごすかというのを、きれいに処理できるのが、瞑想の能力です。

人生の中で、瞑想をいろいろなシチュエーションの時に使っていくことで「瞑想が活きる」わけだから。だから僕は、瞑想を使いまくってますね。

成瀬雅春先生
成瀬雅春さん

 

藤田 そのとおりですね! だから「日常がグチャグチャなので、ちょっとホッとしたい」という動機で瞑想しても、それはそれでいいのですが、瞑想で培われてくるものを、日常の中へ還元していく回路、というかチャンネルの大切さをあまり考えていない。むしろ「日常生活のことを忘れるために、そこから逃げるために坐ってる」みたいな人たちがいます。

アメリカで出会った人たちの中には、瞑想を逃げ場に使っている感じの人もいましたね。瞑想が、逃避の一つの形態や手段になってしまっている人たちには、「ここに来て瞑想するのはいいけれど、瞑想と日常生活が切れていないか、考えてね。そういうやり方だと、瞑想がそれこそ何の効果も持ちませんよ」と言ったりしてました。

成瀬 それは、瞑想のよくない例の一つだね。

例えばここに三人坐っていたとして、そのうちの誰がただ坐っているだけなのか、ただ眠っているだけなのか、もしくは坐禅をしているのか……表面的には分からないですよね。僕はわりと分かりますが。そうすると、まさに今言われた「逃避に走る」んです。今の生活から逃げたくなって、変な理想を描き始める。

ある時、一人のサラリーマンの方が僕の所に来て「どうも会社で仕事をするのが合わないんで、ヒマラヤに行って修行をしたいんです」と言うんですよ。「サラリーマンを全うできていないのに、ヒマラヤで修行はできないよ」と返したんですけどね(笑)。

瞑想も実は、ステップ・バイ・ステップ。ストレッチしたら身体の固い人だって徐々に柔らかくなるように、段階を踏むことで初めて、瞑想すると“見える”ようになってきます。ただ坐っていればいきなり「すごい悟りを得ちゃった」なんて、天才じゃない限りありえないです。

藤田 僕の属している曹洞禅の伝統もまた、「只管打坐」というのがモットーなので、下手をするとただ坐るという表面上の意味だけ捉えることの弊害が非常に多いというのは、よくあります。「坐ればそれでおしまい」ということ自体は間違っていないのだけど、その受けとめ方、実践の仕方が浅い。

成瀬 僕自身の教え方は、瞑想とはステップ・バイ・ステップで、やり方の第一歩があって、それが分かると第二歩、第三歩と、歩みが進んでいく。瞑想の能力って、こんな風にどんどん高くなっていくはずなんです。ただ何十年もじっと坐っているだけでは、能力は上がっていかないと僕は思います。

司会 瞑想もステップ・バイ・ステップ」ということなんですが、そうは言ってもおそらく皆さん、瞑想の実践にあたっては、さまざまなつまずきがあると思うのですが。具体的には、どんなところがポイントになりますか?

藤田 たしかに、瞑想や坐禅をいざ始めてみると、そこにはいろいろなつまずきがあると思います。僕らは、自身が気づいていないある枠組みの中で、感じたり、考えたり、行動したりしています。その枠組み自体に気がつかないまま、「瞑想とはこういうもの」と決めつけて実行してしまうと、その枠組みの中で瞑想の手順だけが細かくなっていくということが起こります。

先ほどの話にも関係しますけど、「自分はそもそも一体、何を目指してやっているのか?」を考えることが大事です。こうした正しいビジョン(見通し、方向性)をまずもたないことには、今まで自分が繰り返してきた誤りの延長上で努力をすることになってしまいます。

自分が不問に付してきた前提というか枠組みを何も吟味しないまま、人の話を聞いたり、何かを見たりして、「ああなりたい」と猛烈に理想を目指してダッシュしても、新しい世界は開かれていかない。正しいビジョンに導かれて初めて、実践が進むわけなので、そこがまず、一つ大事なポイントだと思いますね。

それから、こういったがむしゃらなアプローチの特徴というのは、非常に緊張型であることです。緊張を努力だと勘違いしてやっている。

力感というか手ごたえがあることで自分は一生懸命やっているという満足感に浸っている。実はその逆の方向じゃないといけないのではないか。「くつろぐ」と言ったらおかしいですが、深いリラクゼーションの中で綿密に行っていくこと。決してダラッとなることではありませんが、僕らは、何でも緊張することで問題解決することに慣れていますから、修行も同じ路線で考えてしまうのですね。

これは何をどうするかといった問題以前の、修行する手前のところの話です。僕も含めて今の人は、あんまり深く考えずにとにかくがんばっている人が多いんじゃないかな。そういうがんばり方って多くの場合危ないというか、自分のがんばりが逆に、自分の成長を押しとどめていることになっているのではないかなと思います。自分を解決の一部にではなく問題の一部にとどめている結果になっているのではないか。

成瀬 瞑想をステップ・バイ・ステップで実践していくときのポイントですね。それには「瞑想って何なの?」ということを知らなかったら、スタートできないでしょうね。その答えは非常に単純で、「瞑想とは自分を知る作業」です。

今の世の中は、分からないことがあったらすぐ“ネットで検索”する。検索語を入れると、どんな情報でも「これはこうだよ」と、解答がすぐパッと出るわけです。でも試しに「自分」と入力して、検索してご覧なさい。答えが出ますか? 自分のことは何も出てこないですよね。

一番分からないのは、自分のことなんです。他のことは今、何でもすぐ分かってしまう情報社会ですが、自分のことだけは一番分からない。だから生きている間に、自分を知ろうとする作業をするのが人生です。

瞑想をするにあたってのどうのこうのは、自分を知る作業のためにすることが分かれば、あとは「自分を見ようとする」だけでいい。

「今、自分はどこにいる? ああ、ここにいるんだ」というのをまず知ること。

「自分って何なの?」「自分は今、どんな状態なのかな」「自分はこれからどう生きていくんだろうか?」とか。何でもいいけど、外に意識を取られず自分にかかわる。それを全部知ろうとするのが瞑想で、そのステップ・バイ・ステップの第一歩は、自分を見ることです。

その分かりやすい入口を、私は「ハタヨーガ」として紹介しています。禅には「経行[きんひん]の行」などもありますが、ハタヨーガ的な行が、禅の場合は少ないですね。

自分を知る作業の第一歩って、例えば身体を右にひねって左にひねったとき、「こっちはひねりやすいけど、こっちはひねりにくいな」とか、そういうことです。ほかにも、階段を上がったときに身体がバクバクとなったら「今、心臓が動悸しているな」ということを知る。

自分のことに関するあらゆること、「今、おなか減っているな」「今、腰が痛い」とか、そういうのも全部、瞑想のワンステップ。それが分かって自分を見ていくと、自分ほど面白い遊び道具はないです。最高に面白い。

そうやって面白いことだらけの自分を見て、面白いことだらけのことをやる中で、瞑想能力がどんどん上がってくるんです。

司会 なるほど。ありがとうございます。

(第一回 了)

 

–Profile–

講座風景

 

成瀬雅春(Masaharu Naruse写真左

ヨーガ行者、ヨーガ指導者。12歳の頃に「即身成仏」願望が生じ、今日までハタ・ヨーガを中心に独自の修行を続けている。1976年からヨーガ指導を始め、1977年2月の初渡印以来、インド、チベット、モンゴル、ブータンなどを数十回訪れている。2011年6月、ガンジス河源流ゴームク(3892m)での12年のヒマラヤ修行を終える。現在、日本とインドを中心にヨーガ指導、講演等の活動をおこなっている。著書多数。

Web site 成瀬ヨーガグループ

藤田一照(Issho Fujita写真中央

曹洞宗国際センター2代目所長。東京大学大学院教育心理学専攻博士課程を中退し、曹洞宗僧侶となる。33歳で渡米し、以来17年半にわたってアメリカのパイオニア・ヴァレー禅堂で禅の指導を行う。現在、葉山を中心に坐禅の研究・指導にあたっている。著作に『現代坐禅講義 – 只管打坐への道』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(幻冬舎新書、山下良道氏との共著)、『禅の教室』(中公新書、伊藤比呂美氏との共著)、訳書に『禅マインド・ビギナーズ マインド2』(サンガ新書)など多数。

Web site 藤田一照公式サイト

有本匡男(Masao Arimoto写真右

(株)ホリスティックヘルスケア研究所マネージャー、(NPO法人)日本ホリスティック医学協会常任理事。幼少期に、仏教の考えに触れ、「幸せとは」について考え始める。2002年よりセラピストとして活動を開始、同時にヨガ、哲学を学び始める。2007年より「teate(てあて)セラピー」を始める。現在は講演、ワークショップを通じて、「teateセラピー」やホリスティックヘルスケアの普及につとめている。

Web site ホリスティックヘルスケア研究所

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