この記事は有料です。
introduction現在、数ある総合格闘技(MMA)団体のなかでも、最高峰といえる存在がUFCだ。本国アメリカでは既に競技規模、ビジネス規模ともにボクシングに並ぶ存在と言われている。しかしMMAの歴史を振り返れば、その源には日本がある。大会としてUFCのあり方に大きなヒントを与えたPRIDEはもちろん、MMAという競技自体が日本発であるのはよく知られるところだ。
そこで本連載ではベテラン格闘技ライターであり、WOWOWで放送中の「UFC -究極格闘技-」で解説を務めている稲垣 收氏に、改めてUFCが如何にしてメジャー・スポーツとして今日の成功を築き上げたのかを語って頂く。
競技の骨組みとなるルール、選手の育成、ランキングはもちろん、大会運営やビジネス展開など如何にして今日の「UFCが出来上がったのか」そして、「なにが日本とは違ったのか?」を解き明かしていきたい。
世界一の“総合格闘技”大会 UFCとは何か?
The Root of UFC ―― The World Biggest MMA Event
第二回 「グレイシーの離脱~政治家によるバッシングで、ドサ回り」
著●稲垣 收(フリー・ジャーナリスト)
前回は第1回UFC(Ultimate Fighting Championship)と、現在のUFCのビジネスとしての世界的成功ぶりや、そのシステムなどについて概説した。今回は初期UFC を牽引した立役者であるホイス・グレイシーの離脱、そしてジョン・マッケイン上院議員らによって行なわれたバッシングによりドサ回りを余儀なくされた不遇の時代について書こうと思う。
第1期UFC ホイス・グレイシーの連覇、そして離脱まで
1993年11月にコロラド州デンバーで産声を上げたUFC。
第1回大会は体重無差別の8人トーナメントで、ボクシング王者アート・ジマーソン、“極真空手出身の巨人”ジェラルド・ゴルドー、“パンクラスのエース”ケン・シャムロックに3連続一本勝ちして優勝したブラジルのホイス・グレイシーは、翌94年3月に行なわれた第2回大会にも出場した。 そしてこの第2回大会で、大道塾の空手家・市原海樹(いちはら みのき)、中国拳法の使い手ジェイソン・デルーシア、そして第1回大会にも出場した円心空手出身の“ケンカ屋”パトリック・スミスら4人に一本勝ちして優勝する。
“日本格闘界の寵児”市原海樹
この時期、大道塾は日本で最も注目される格闘技団体の一つだった。
“ゴッドハンド”と呼ばれた大山倍達(おおやま ますたつ)が創始した極真空手から分派し、独自に開発したスーパーセーフを顔面に着用することで、極真ルールにはない顔面への拳による攻撃と投げ絞めが許されるルールで大会を行なっていた。
市原は、その大道塾のエースの一人だった。いや、それ以上の存在だった。当時の日本の格闘界で最も勢いがあり、最も脚光を浴びていた格闘家の一人だったと言うべきだろう。
170センチという格闘家としては小柄な体格にもかかわらず、大道塾の空手大会・北斗旗の重量級と無差別級で90年に優勝し、91年には重量級で二連覇を果たす。
そして92年3月には正道会館(のちにK-1を立ち上げる空手団体)の主宰する「格闘技オリンピック」で、オランダの“喧嘩嵐”ピーター・スミットを相手に、奇数ラウンドがキックボクシング・ルール、偶数ラウンドがリングス(総合格闘技)・ルールというミックス・ルールで対戦して、3RにKO勝利。
同年4月にはタイとミャンマーの国境付近で、「素手で行なうムエタイ」ともいうべきミャンマー・ラウェイの試合にも参戦してKO勝利。5月には北斗旗・重量級で三連覇を果たし、7月には後楽園ホールで行なわれた大道塾主宰の大会「THE WARS 7.7」で、ロシア人キックボクサーとキックボクシング・ルールで対戦して、1RKO。
さらに翌93年7月には「THE WARS 93」で、オランダのキック王者ヤン・ロムルダーに逆転TKO勝利し、11月には北斗旗・無差別級で優勝する。
かくも華々しい戦績を上げ続け、何度も格闘技雑誌の表紙を飾った市原は、まさに“時代の寵児”だったのだ。
その市原が、第1回UFCをデンバーの会場で観戦していた。
そして第1回大会から4ヵ月後の94年3月11日、やはりデンバーで行なわれた第2回UFCに出陣したのである。
連載を含む記事の更新情報は、メルマガとFacebook、Twitter(しもあつ@コ2編集部)でお知らせしています。
更新情報やイベント情報などのお知らせもありますので、
ぜひご登録または「いいね!」、フォローをお願いします。
–Profile–