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イラストレーターである伊東昌美さんが、曹洞宗国際センター所長の藤田一照さんのもとを訪ねて、「生と死」「私とは?」など、仏教から観る“生きる智慧”についてじっくりうかがうこの対談。第九回は輪廻転生について、さらに深く掘り下げます。そのある/なしを論じることには「説得力がない」とおっしゃる一照さんの口から、生と死の境界線をごまかさない生き方について鋭い指摘が放たれます。
対談/藤田一照×伊東昌美 「生きる練習、死ぬ練習」
第九回 魂ってなんですか?
語り●藤田一照、伊東昌美
構成●阿久津若菜
一照さん:「未来を大事にする方法としては、現在を大事にすることしか、僕らにはできないですよ。現在というのは、この今わたしが生きているところ。『次があるからいいや』って今をいい加減に生きていたら、またいい加減なそのレベルの来世がある。そういう中途半端で不徹底な生き方で今を生きていたら、ものすごくもったいないことになっている、ということですよ」
伊東 前回(八回)では、「仏教において、輪廻転生説は必要ない(事実としてあるかどうかは別)」という、一照さんの考え方をお話しいただきました。
それでも「輪廻転生はある」と考える人、いわばリターンマッチがあると思っている人に「ちょっと違うんじゃない?」と言えるとしたらなぜか? について、もう少し説明をいただけますか。
藤田 「輪廻転生説がある」と考えることで、「これが最後の生だ」というスタンスで生きなくていいという、うまい口実が与えられるのだとしたら、違うと思いますね。
真剣に生きないための、ただの言い訳になってしまいますから。自分を慰めるためにでっちあげた、単なる自己満足のための作り話になってしまう。
伊東 それだけは、ちゃんと言っておいた方がいいですよね。私自身も「輪廻転生はある」と考えて楽になった時は、ちょっと逃げ道にしていたというか。「輪廻転生はあった方がいい、私はそれを信じたい」と思っていたので。
藤田 信じたいと思うのはいいけど、ほんとうに信じられるかどうかですよ。「もう一回、チャレンジできるんじゃないか」と思ってしまうのは「業の連続」と言ったら言い過ぎかもしれないけど……。
「私」の成立自体が、ある条件下で生じた奇跡のような確率で生まれた「私」なので、今ある「私=藤田一照」という意識がいったんほどけたら、そこには戻れないと思います。もう一度たまたま「私」になるなんて、ちょっと想像できないですね。
伊東 でも一般的に「輪廻転生」と言う場合は、「魂は続く」というニュアンスで使っている気がするんです。
藤田 「魂は不変」という意味で使っているの?
伊東 そこまで言い切っていいのかはわからないですけれど……。では反対に「私」という魂は、今生きている一回限りで終わってしまうものなのでしょうか?
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–Profile–
●藤田一照(Issho Fujita)写真右
1954年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。曹洞宗紫竹林安泰寺で得度し、1987年からアメリカ・マサチューセッツ州のヴァレー禅堂住持を務め、そのかたわら近隣の大学や瞑想センターで禅の指導を行う。現在、曹洞宗国際センター所長。著書に『現代座禅講義』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(山下良道との共著、幻冬舎)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』(春秋社)、鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド2』(サンガ)など多数。
Web site 藤田一照公式サイト
オンライン禅コミュニティ磨塼寺