コ2【kotsu】特別インタビュー 韓競辰導師に訊く「韓氏意拳とは何か?」 第二回

| コ2【kotsu】編集部

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いよいよ今年も韓氏意拳創始者である韓競辰導師の来日講習会が開催が近づいてきた。
毎年恒例で行われている講習会では、まったく初めての方から熟練者まで、直接韓競辰導師に触れられる貴重な機会となっている。
とはいえ韓導師の高名さと、どこかに漂う韓氏意拳の敷居の高さから及び腰の方もいらっしゃることだろう。

そこでコ2【kotsu】では、前回来日時に収録した韓競辰導師のインタビューを全三回で公開!
韓氏意拳が求める武術の核”状態”から導師ご自身のことはもちろんお父様である韓星橋老師のことまでお話をご紹介したい。

二回目の今回は韓氏意拳が考える自然な”運動”がどこから生じるのかを伺った。

コ2【kotsu】特別インタビュー

来日講習会記念企画
韓競辰導師に訊く「韓氏意拳とは何か?」

第二回 「運動はどこから生じるのか?」

インタビュアー・文コ2【kotsu】編集部
取材・写真協力日本韓氏意拳学会
監修光岡英稔師範

 

何が”自然”なのか?

コ2編集部(以下、コ2) お父さまは、どんなふうに王向斎先生についてお話しされていましたか?

韓競辰導師(以下、韓) 私もまさにその質問を若いころ父にぶつけてみたことがあります。父は王向斎先生についてこう述べています。

とても賢く聡明な人で、頭の中がどうなっているか他人にはわかり難く。頭の中がストップすることなく、常に発想が転換しており何を訊ねても答えが返って来る頭の回る人でした」と。

また、伝統文化を重んじながらも、新らしいことで気になることがあったらすぐやってみるという、新進の気風がある人だったそうです。後先どうなるかはあまり考えずに気になったらまずやってみる、すぐやってみては御自身の経験から考えていたそうです。
生活のある面では伝統へのこだわりが非常に強い人だったと同時に真新しい西洋文化も好きだったそうです。

コ2 王先生、当時としてはハイカラだったわけですね。

 たしかに時代の先を行っていたと言えます。それまでは中国の伝統的な服を着ていましたが、西洋の服が中国に入れば洋服を着てみたり、そういう伝統や先端のものに非常に関心のあった方のようです。

王向斎先生の実家は大地主で、何平米とあるとても大きな土地をもっていましたが、その土地を拳術を習うために全部少しずつ切売りして、どんどん拳術のために費やしてしまったそうです(笑)。しかし、中国が解放された後は土地も丁度なくなり生活は非常に簡素なものになってしまいました。時代が変わり中国が解放された後は、それまでとは違い買いたいものがあり市場に行っても物資が少なく売り切れたりして買えなかったりと、非常に苦しい生活になっていました。

王向斎老師

 

意拳創始者の王向斎老師と心意六合八法の呉翼輝老師。王向斎老師は無論のこと、前回の記事に出てきた呉翼輝老師も韓家との関わりは深く韓家に伝わる拳学の確立に大きく影響した人である。

 

コ2 武術を教えることに関しては、どんなことをやっていたか聞きことはあるのでしょうか? 実際に 王向斎老師はお父様にどんなふうに教えていたのでしょうか?

 各代、各代の教え方はその代ごとに変化があり、すごく異なります。王先生の意拳という体系は、それはもともと形意拳から来ています。

王向斎先生により形意拳から意拳へと発展していきました。王先生は形意拳をはじめ中国における多くの伝統武術が形骸化し始めていることに気づきました。中国武術界に渡って形や形式だけが残り意が見失われて来ていることに気が付き、皆が形式的な動作や動きの方ばかりに注目するなか肝心の意がなくなっていることを辛辣に感じたのです。

拳にせよ何にせよ一番大事なのは内面から生じる意であり、それを中心とする拳を立てたく意拳を設立しました。今日わたしが講習中に教えたこととも通じますが、意にて感じるその感覚、つまり “状態” が伝統の拳の中からなくなってしまったのです。

コ2 講習を見学させて頂いて最初に思ったのは、王向斎先生が形意拳から型式を省ていき練習体系の要が站椿(たんとう)になった理由が、おそらく当時の時代から既に型というものを形式的に行うことのみに皆が注目し始めていて内実がなくなり形骸化していたことに気づいたからだったのだろう、と思いました。

講習風景を拝見していて韓先生もまた王向斎先生が行っていたように「意」の部分に戻る、もともとの根幹に立ち戻ろうとしているように感じました。

パワフルに講座を行う韓導師。

 

 父が拳をどういうふうに総括していたかと言いますと、父は常々昔から“拳は一つなり”と根本は一つしかなく自然からなる拳はもともと一つしかないと言っておりました。

ただ、父や王先生の時代から既に人は実践経験から離れ、人為的に作り出された拳や武術を学習する者も多く、何が拳や武術で、如何に拳や武術を求めて練習すれば良いのか分からなくなっていました。その父の総括は私たちの行為が自然か否かを問うており他流を咎める訳ではなく、迷いなき拳の修め方を“拳は一つなり”と父はそのように自らの拳に対する理解を総括して後世の私たちに向けて語っていました。

私の伝える韓氏意拳でもそのことは強調しています。よって、その拳を通じて自然を把握し理解することを練習では話しています。自然は一つしかなく、自然な状態というのも一つしかない。また、多様にある自然な拳や掌の動作はもちろん千変万化します。しかし、その千変万化する源の自然の法則は一つしかありません。昔から今に至って天や道(タオ)は変わったことがなく全ての変化はその不変から始まります。
人間や万物の方はいろいろと変わっていますが、その変化をもたらせている自然法則は変わったことがないのです。

そのように一代一代と教えが伝わってきて、今は私の代で韓氏意拳という形になっています。いま私が話していることは中国の伝統武術や伝統文化の中では「勁」とか「内功」などと、いろいろな言われ方をしてきました。そういうものは過去にそういう名称があったことは知っておけばいいかと思います。
現代風に今現在の言葉でいえば、“そもそもの自然本能”がどんなものかを語っています。私は新しい概念でこのことを「状態、抓住、同歩」と言い「状態を瞬時に捉える」ということで拳の教学を総括しています。

 

答えは自分の中にある

コ2 今日の稽古を拝見していて、そもそも自分の中に”正しい状態”というのがない私たち人はどうすれば良いかというところが気になりました。例えば今日のお話で、站椿(たんとう)されている時に、「手が自然に上がって行くには、手や腕を意識して意志で上げるんじゃなくて、”自然に上がっていく状態”があり、自分の中に注目することで、それは分かります」というお話でしたが、老師の仰る “その状態がない人”はどのように理解すればよろしいのでしょうか?

 もちろん站樁において、この手を挙げることの問題は一回の練習で解決できることではありません。まず、

いま自分が何処に重点を置いてやっているのか?
その重点とは何か?
自分がそこで本当に何を経験しているのか?

といったことに目を向けていただきたいということです。

中国の伝統文化で言われる「明=ことを明らかにする」考え方には2つの意味があります。まず、1つの「明」は頭の中の思考が「明=明らかになる」ということです。
それは先生の話を聞いたり、何かを学習したり、やり方を教わったりしながら先生から学んだことを通じて、その事を自分で纏めて整理しながら明らかにしていくことです。

もう一つの「明」は自分が何かを自発的に経験しながら得られることです。その「明」は、実際に何かを体験しながら、感じ取ることで明らかにしていくことを指します。この後者の「明」の場合には自分でやってみて経験することが大切です、まず後のことは考慮せずやってみます。

この場合は事前にわからなくても後にことが明らかになったり、やっている最中にことが明らかになって行きます。体験的に学習する場合は何よりも “正誤が分からなくても、まず実際に自分でやってみること”が大事です。実際にやってみた時に本当にそれがどうなっているか、できるかどうかなどが分かります。その場合の「明」は、自分の経験として事前に分からない事があるからこそやってみて明らかにする「明」となります。

コ2 習って得る「明」と、実際に経験して得る「明」があるわけですね。

 韓氏意拳の練習の中でも最初の内は先生の話がわからなくても、実際にやってみればその内に先生が言っている “それ(状態)” がどういうものであるかが見えてきて分かってきます。

仏教、禅などでいわれる「喫茶去」(きっさこ)というのは、聞いたらすぐにやってみることを指します。問わず茶を飲んでみる、その後に自分にとっての茶の味が分かります、茶を飲んだ瞬間にその茶の味、その感じ、その時の自分が分かる、それが「喫茶去」です。

コ2 自分の外にある価値観に対して「分かる、分からない」ということではなく、そもそも「答えは自分の中にある」ということが根本にあるのでしょうか?

 そうです、その理解の仕方はとてもいいです。私はずっと自分を始めとする万物の本来の姿について語っています。本能とは如何なるものか?自然本来の発生源は何処にあるのか?私は自分が経験的に感じたことについて語っています。私は自分が経験してないことや感じたことのないことを想像から思考し話している分けではありません。

コ2 それでは、いま自分にないものを造って、そこに何かを付け足して、何か特殊なことを行おうとしているわけではなく、今もあるのだけれども、見えなくなっているものを見つけようとされている訳ですね。

 そうです。私は自分に本来ないものをつくり出して、それを学べと言っている訳ではありません。私たちがお母さんのお腹にいた頃から元々もっていたもの、そのことについて話しています。また、生まれた時からある状態の話をしています。目が見えるか否か、指が動かせるかどうか、そういった話しではなく、世に生を受け産まれ来たことのように学習できないことについて語っています。
これは古の時代では「天賦」と呼ばれていたことで、大自然が私たちに与えてくれていることの話です。

その「天賦」とは訓練して学べるようなことではありません。それは本来なら私達が生まれた時から持っているのですが、現代のような生活様式のなかで皆その生まれた時から与えられている状態を見失なっているのです。

 

現代的な生活様式のなかで私たちは人工的に整備された環境に矯正されつつも依存していて、普段から身体が固まり緊張し過ぎている状態も現代人に多い傾向です。

また、その反動で人工管理された環境の中でのストレスに対して極端にリラックスしようとワザと力を抜いて脱力し、身体がダラけた状態になっています。そのため危機が迫って来ても多くの人はただ呆然とし、ダラけ過ぎてか緊張し過ぎて咄嗟に動くことが出来なくなっています。その気の抜けた状態から慌てて準備して動こうとしても身体は力が抜け過ぎているか、緊張しすぎてスムーズに目の前の状況に応じられなくなっています。

私がずっとお話ししていることは、生きている以上、如何なる環境の中でも注目しておかないと行けない「私たちの本来の姿」と「その生まれた時の“状態”」についてです。

コ2 今日の立ち方でも、形がたくさんあるというのは、それは今仰った自分のなかにそもそも備わっている自然反応を引き出すために様々な方法、つまり”たくさんの鍵”があるような感じなのでしょうか?

 多くの形や行為があるのは、これは言い方を変えれば多くの方法があると言えるでしょう。しかし、本来なら人間が作り出した方法で自然を解明することはできないのです。ところが一般社会では本末転倒していて人間が作り出した方法で自然を解明できるのではないかと考える方々も少なくありません。そして、方法を変えては言葉やラベルを変え話しますが、それは言い方ややり方が変わっただけで自分が対している対象が変わった訳ではありません、自然に対する私たちの見方、捉え方が変わっただけなのです。

どんなに私たちが与える名前やラベリングの仕方を変えたところで自然は前からその要素を兼ね備えているのです。

例えば、この様な形や行為が自然の扉を開くための鍵だという言い方もできます。しかし、その“鍵”とは何を指しているのか? その鍵と言う呼び方も、やはり言い方を変えただけで、結局は鍵というアイデアも数ある方法の一つになっています。下手をすると、その時に頭の中でちょっと転換が起き「これは方法ではない、鍵である」と、言い方を変えることで自分で自分を騙すことにもなり兼ねません。

コ2 ああ、鍵であれ何であれ、何かを定義付けた時点でイメージが固着し、つまり対象を固定観念の中におさめてしまうので、結局そこに不自然性がが生まれてしまうわけですね。また、そうすると“鍵”の喩え自体が観念的に自然を特定して定義する “方法のための方法” となってしまい本筋から外れてしまう訳ですね。これは難しいですね。

 たしかに行為から行為、形から形へと移る時に様々な方法や形式を用いて練習します。そこで大切なことは定義されたことや、方法、形、やり方よりも過程の中で何を体験するかの方が大切です。

何かを行う時に、その行う過程こそが私たちに経験を与えてくれ、その経験を通じて私たちが感じたことこそが自分自身の体験となるのです。

ご飯を食べることを例にとってみると、私たちはどの様に御飯を食べるでしょう?お皿に誰かが食べ物を盛り、お箸を取り出して……、箸を指にはさんで……、箸で食べ物を食べ、食べ終わったら食器をキッチンに戻すと言ったように様々に方法を用いて食事をします。または、ナイフ、フォーク、スプーンで食べることもあれば、食べ物を手で掴んで食べる方法もあります。そして、お皿に口を近づけて手を使わず食べる方法もあります(笑)。

しかし、私はそういう様々な食べ方の話しをしている訳でなく“食べること”の話しているのです。これらの方法を問わず“食べること”が様々な食べ方の中心にあり、どの方法が一番正しいとは言えません。どの方法でも食べれるのです。

そういった意味で韓氏意拳はとても簡単です、それは練習の目的である拳、自然、生命を明白にしているからです。だからこそ韓氏意拳では様々な方法があり、同時に如何なる方法でもいいのです。ただ、食べ物を持って来る時に口もとを外してしまわなければ大丈夫(笑)。

どの方法を用いても“食べる”と言う条件から離れてしまうと意味を為さなくなります。只このようなお店では、もう一つだけ条件があります…それは御飯を食べたらちゃんとお金を払うこと!それが、もう一つの条件です(笑)。

コ2 そうですね、たしかに今日のようにお店で食べた場合にはその条件も大切です(笑)。しかし、本当に韓氏意拳では根本的なことのみに焦点を当てて行くんですね。

 ご飯を食べる意味とか、いつ食べるのかとか、食べ物の栄養はどうかとか、どういう食べ方が適切か、どういった食べ方が一番良いか、食べる時にそう言ったことを考えながら食べる必要はありません。

そういうことは教える必要もなく思い悩む必要もありません。私たちが親のしていたことをただ真似て身に付けて来たように、向こうがワザワザ教えなくても身に付くのです。あとは自分なりに実際にやってみるだけです、目の前に出されたものを“食べる”“食べてみる”だけで良いのです。

私がお話ししていることは、人が本来なぜ“食べるのか”“食べる必要があるのか”についてです。食卓での正しい食べ方や、食べ物の良し悪しの話はしてなく、お腹が減ったら食べる、食べれるものを美味しく食べる、只それだけです(笑)。

コ2 先生の仰っていることは、「12時になったから昼ご飯を食べよう」といった自分の外側からの条件付けによる不自然なことではなく、「本当にお腹が空いて身体がご飯を求めているから食べる」という”自然”なことで、そのためにも身体の声をよく聴き、身体の状態によく注目しておく必要があると理解して宜しいでしょうか。

 そう、何時になったから食べるとか、何時まで食べたらいけないとか、お腹が減っているかどうかを考えて決めて食べるとか、そういうことではありません。

例えば社会の中にはいろんな分野に色々な訓練の方法がありますよね。そこでよく見受けられるのは私たちはパブロフの犬の科学実験のように条件反射を身に付けて何かをする様になっているということです。結局、条件反射とは何でしょうか? それは調教された動物園の動物かペットのようになる訓練や練習です。例えば犬に何かをやらせて、正しくやれば餌を与えて、間違ったら餌をやらない。または笛が鳴ったら御飯の時間とか、そのような訓練方法のことです。

何時だから今ご飯を食べる時間だとか、休み時間のベルが鳴ったらトイレに行き、電気が消えたら寝る、先生が笛を吹いたら立ったり座ったりするとか、それはパブロフの犬と同じ条件反射の訓練です。これは動物を調教し訓練する方法であって、人間を訓練する方法ではありません(笑)。

これを言うと耳障りに感じる人も居るかも知れませんが、一般社会でいま行われている訓練方法や練習というのは、パブロフが犬に行なった条件反射の訓練と同じことをしています。言いかえれば人間が造った条件に人間が反射するよう訓練することです。これは自分が造った条件に自分が反応することとも言えます。この様な独り善がりは、何れにせよ自然本能に従った運動にはなりえません。

僅かでもこのように条件的に反射する運動習慣が身に付くと自然運動にはなりません。本当にその衝動が自分の中で自然発生的に起きたことでない限り自然本能に従った動きにはなりません。

条件反射の練習ですと、一定の条件の中で一つの動きに対して一つの反射運動で反応することを増幅するか、あるいは其処に速度の強弱をつける程度のことしか出来なくなります。

自然と発生する働きや運動とは、お腹がグルグルと鳴るとどこかへ食べに行きたくなることや、誰かが食べものを与えようとすると野生動物のようにサッと逃げる、このような衝動こそが自然本能に従った働きと運動の表れとなります。

コ2 韓老師は、いつ頃からそのような認識を拳学や武術に持つようになったのですか?

 私が30代のころ、ある時から私が拳の追究をしようと決め、改めて父に習い始めたころに研究のテーマとして取り上げた問題は、あらゆる行為、動作、運動がどこから生まれてきたかを経験的に理解することにありました。

 

行為、動作、運動、どこからそういうものが生まれてきたのか?

当時から今に至り、拳を学習する人や武術を教える人の多くは、それを自分で経験せず仮説や想定によって理解しようとしていました。もし相手がこう来たら私はこうしよう、Aを見たらBをする、Bを見たらCをする、Cを見たらDをする、またAの時にB、C、Dをすることも覚えます。そのように想像と仮説に基づいて条件反射を身に付ける訓練が行われていました。

しかし、実際に相手と拳を交える時にはどうでしょう? その様な条件Aが来るとBで反射する習慣が僅かにでも実践時に出てしまうと、Aを見た瞬間「えーと、何だっけ…」と反射条件B、C、Dを一瞬でも思考に巡らせ検索すると相手に打たれて終わってしまいます。これは本当に良く起こることです。パブロフの犬の原理、条件反射を訓練して戦うとはこの様なことを言います。

コ2 そうしたこともあり韓氏意拳では、組手をやらないわけですね。

 今日もその話を講習中にしましたね。戦いにおける自然とはどういうこと言うのでしょう? 私の講習会では動き方や動作の技術論的な問題を取り上げることなく、生命、生きること、生存の話をしています。生命が自然な状態に在る時どのように生存していくのか。そこに自然の答え、自然界の中での戦いや拳による攻防の答えがあります。

戦いを生存という観点から見た時に、自分自身を守ろうとするための行為はすべて拳であるといえます。それが自然から見た答えなのです。

 

頭をパッと下げて何か上から落ちてくるものを避ける、これは拳でないでしょうか。災害から身を守る、それが天災であろうと人災であろうと生きる必要があります。また練習においては、そっと手を前後上下左右にユックリと動かします、これは拳でありえますか? この様な動きは一見何でもないような動作に見えますが、これこそが拳なのです。しかし、それはありえないと多くの人は言います。

多くの武術家や拳学家は気張って無理に力を入れたり、ワザと力を抜いて相手を打つための方法や技術を練習することを拳や武術であると思っていますが、それは違います。

生命を守るための行い、それらはすべて拳となります。それは自然本能の運動であり、自然本能の拳でもあるのです。ですから、拳とは技術や方法論の競い合いではないのです。

※本記事では、中国では年齢を問わず“先生”のことを“老師”と呼ぶ慣習に倣って表記しています。

(第二回 了)

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–Profile–

国際韓氏意拳総会会長 韓氏意拳創始人 韓競辰導師
韓星橋先師の四男で、きわめて明晰な拳学理論と、卓越した実力の持ち主。現在韓家に伝わる意拳の指導に力を注ぎ、意拳の更なる進歩発展のために努められている。
国際韓氏意拳総会会長。(日本韓氏意拳学会 Web Siteより)

Web site 日本韓氏意拳学会