この記事は無料です。
2015年11月17日、朝日カルチャーセンター新宿教室にて、講座「自然体は稽古できるか? 韓氏意拳と坐禅の出会い」が行われました。藤本靖さん(身体論者、ロルファー)の企画による、藤田一照さん(曹洞宗国際センター所長)と光岡英稔さん(日本韓氏意拳学会会長)のコラボ講座は、4月に引き続き2回目。
今回は、禅の所作や型を武術の観点から読み解き、受講生自身の体験を通じて「今・ここ」で「身体に何が起きているのか」を体感できる、貴重なワークショップとなりました。
※本文中に登場する「型(かた)」と「形(かたち)」の違いについては、光岡英稔師より後日、あらためて詳細な解説をいただきました。本稿の最後に記してありますので、ぜひ併せてご一読ください。(コ2【kotsu】編集部)
コ2【kotsu】レポート
「自然体は稽古できるか? 韓氏意拳と坐禅の出会い」
朝日カルチャーセンター新宿教室
文・写真●阿久津若菜(編集者・ライター)
取材協力●朝日カルチャーセンター新宿教室
わからなさの愉しみ
今回の講座は、禅にも武術にも明るくない(ただし興味はある)私にとって、終止わけのわからないことの連続でした。でも同時に、そのわからなさが滅法愉しい! という不思議な時間でもありました。
この「わからなさの愉しみ」には、思い返すと2点あったように思います。
ひとつは「未知のことを識(し)る」。
これは講師の藤田一照さんのリードで、修行道場で日々なされている行(ぎょう)の数々を見せてもらえたことです。道具(法具)の持ち方、歩き方、視線の置き所……、すべての所作が厳密に決まっていて不自由そうなのに、目の前で執り行われる姿は、流れるように美しい。長い年月をかけて磨き上げられた「型(かた)」の凄みを感じました。
もうひとつは「“タイムスリップする身体”の不可思議さ」。
これは同じく講師の光岡英稔さんのリードで、合掌という型に武術的な解釈が加えられた時に感じたこと。
「古の身体観に戻らなければ、当時の技を理解できない」という光岡さんのお話は、最初聞いただけではどういうことか理解できず。でも“集注観”をキーワードに、古の身体が(ほんのつかの間)導かれたことで、今考える身体の合理性だけで「型」を解釈するのは、片手落ちどころか勘違いにもなりかねないことを学んだのでした。
以下、講座で何が行われたのか、つたないながらまとめてみます。
黒子に徹するための“型”
教室に入ると、衣と袈裟をまとった僧侶が3名(藤田さん、所作のデモをしてくださる太田賢孝さん、林秀典さん)。前の方には見慣れない道具もおかれ、これだけでもこの講座、なにやら普通ではない感じがします。
今回で2回目となるこの講座は、そもそも「禅の所作に武術的な意味があるのではないか」と、光岡さんが思われたことが企画の発端だったといいます。
「打ち合わせの時、一照さんに道場での所作をいくつか見せていただいて。なかでも“五体投地”は、まこと見事に「型」として残されていて、感じるものがありました」と光岡さん。
一方の藤田さんも、「衣をまとってデモをするのには理由があります」と言います。
「袈裟と着物で行う動作は、作務衣とはまた違う感覚になります。法要の時には、これを着ていろいろな動作をしないといけない。衣が身体意識にどのように影響しているかも含めて、みなさんにデモできたらと思います」とのこと。
実際に講座で披露された所作は、修行道場で僧侶が毎朝されている「見台(けんだい)の出し方・下げ方」「三方(さんぽう)の出し方・下げ方」「茶湯器の受け渡し」といった、日常あまり目にすることがないもの。
デモをされた林さんは「修行時代にはよく“黒子であれ”と、指導されました。この場合は回向本[編注:えこうぼん。お経を読むことで生まれた功徳を、世界中に巡らすための祈りが書かれた本]が主役ですから、動きが目立ってはいけないんです。
そして必ず、相手がいることを忘れないようにとも。人に渡す時には、相手が取りやすい高さやタイミングに合わせる必要があります」とその要訣を説明してくれました。
ちなみに見台と三方とは、回向本をのせる法具を指します。これらに共通する持ち方は「つかまない」こと。
見台はピンと伸ばした指の張りだけで支え、三方は(通常は袱紗に覆われて見えませんが)手を裏返して甲側で台をはさんで持つという、一見とても不自然なやり方をとります。
ですが光岡さんによると、畳の上で台を掲げて歩き、相手に回向本を渡してまた台を掲げ直して帰っていく……という一連の動作をスムースに行うには、理にかなった動きだと言います。
「これは局所から全身を巧みに観て使わないと、できない所作ですね。でも日常的にこうした所作をしたことのない人が、いきなり“坐禅をする”って、ハードルが高くないですか?」という光岡さんの問いかけには、藤田さんもすかさず「ええ、高いですよね(笑)」と応じていました。
ただ“坐る”だけにも見える坐禅ですが、畳の上での動作は、普段経験している“(イスに)坐る”こととは全く違います。
私は数年だけ茶道教室に通ったことがあるのですが、最初の頃は「正座姿から音を立てずに、スッと立つ」だけで、ヘトヘトになりました。正座はすぐに痺れてしまうし、脚の力だけで身体を持ち上げようとすると無駄な力が必要になるし。そのたびに延々と続く割稽古[編注:所作の一部だけを取り出す稽古]を受けては、何もできない自分がとても情けなかった記憶があります。
畳と床の違いを痛いほど(いや痺れるほど?)味わう理由は、精神をどうこうする以前に、こうした坐る前の日常性の違いにあったわけです。
型を通じて身体に“集注”する
ここで光岡さんから、最近の自身の研究テーマであるという「身体観」「集注観」についてお話がありました。明治時代に西洋文明が入ってきたことで、日本人の身体観はそれまでとは劇的に変わってしまったのだといいます。
たとえば膝の伸び。明治初期頃までの日本人は「気をつけ!」の姿勢を取ろうとしてもピンと膝を伸ばせず、少し曲がった状態でしか立てませんでした。でもこれは、野良仕事でしゃがみ続けたり、大量の荷を運んだりと、終日身体を酷使し続けていた彼らにとっては一番“強い”姿勢。
「ただ立つ、という動作ひとつでも変わってしまっているのに、当時の身体(観)に戻らなければ、当時の技を理解することはできないでしょう?」と光岡さん。
そこで明治時代以前の身体にタイムスリップする糸口として、二人一組になって合掌の型を使ったデモが行われました。所作としては、一人が合掌をしてパートナーはその人の肘を軽く支えた姿から、お辞儀をするだけです。
普通に行えば、押さえられている肘を押し返そうとつい力が入ったりして、まともなお辞儀になりません(私が実際そうでした)。
ところが光岡さんが、お辞儀をする人に目を閉じてもらい体への観方や捉え方を促し、気持ちや気を肘や脇の下、腰の方に向けるようにリードしながらお辞儀をすると……不思議なことに、肘に触れていた人の体勢が、ぐしゃりと崩れてしまいました。会場は一瞬、「んん???」と何が起こったかわからず。
私も受講生の方とペアを組み体験をしたものの、肘をぐいぐい押して体重をかける状態のお辞儀にしかならず、ぽかーんとなるばかり。
この様子を見た光岡さんは
「デモをしてくださった方は、型の稽古を積まれており形(かたち)がすでに身に付いていたので、明治以前の身体がもっていた“集注観”へと導きやすかったんです。形が身に付いていればそれがレンズのようになり、集注観、いわゆる内観が生まれる。そうなるように身体をもっていければ、武術でいう“隙のない動き”に即、つながります」と説明。
これには藤田さんも「(修行道場では)こういう風には教わらなかったよね!」と大笑い。
この“形はレンズ”という光岡さんの言葉から、私がつらつら考えたのは……
「本来、誰もがもっているはずの身体の自然さを、後から身につけた近代的な教育や知識で覆い隠してしまっているのでは?」ということです。
近代化、それ自体は悪いことではなく、現代を普通に暮らす上では便利なことなのですが。でもどこかでその不自然さを感じているからこそ、こうした「自然体」をテーマにした講座に興味を持ち、参加したわけで。
その不自然さの覆いを、ちょうどルーペで光を集めるように焼き払ってくれるのが、型を通じて観えて来る“形=レンズ”なのではないかと思ったのです。
考えてみれば、明治以前の日本では当たり前だった畳と着物の暮らしは、この国の風土の中で、私たち日本人の身体知が自然に形作ってきたものでもあります。こうした視点を抜きに、古の身体や武術、禅を考えようとするのは、むつかしいことなのかもしれません。
林さんとともに一連のデモをされた太田さんは、「衣もまた型のひとつではないか」と言います。
「衣を着ていると、合掌がちゃんとこういう風に(肘を地面と平行に一直線に張り、ぴたりと手をあわせた姿に)なるんですね。作務衣だと、少し手が落ちていてもいいかという気にもなりますので……衣と作務衣では感覚が違います」と話してくださいました。
このほかにも、
- 「五体投地[編注:“五体(額、両肘、両膝)”を地面につけて伏し、お拝をすること]」で集注観を導く体験
- 「馬歩(まほ)」という中国武術ではよく練習される立ち方の体験
- 坐禅と坐禅の合間に行う「経行(きんひん)の歩法」の体験
などもありました。こうして2時間半の講座は、あっと言う間に過ぎていきました。
言語化できない身体を磨く
今回の講座は初めて見聞きすることが多く、目の前で何が行われているのかを追いかけるだけで精一杯。体験の機会はいくつもあったのに、「お辞儀する時に腰が伸びない」とか「合掌すると肩がすぼまって苦しい」とか、身体のパーツごとの動きが気になって、なかなか的確に集注できませんでした。
光岡さんは型へ入り形を透かして身体が観えるようになることを、“レンズがクリアーになり身体が観えるようになること”と表現されていましたが、身体への観方の磨き方(導かれ方)次第で、美しい所作になり、それが実用美となり武術にも通じる身体の所作にもなる。「集注が生じ、型がきまると、身体がまとまる」ことを目の当たりにできて、型への苦手意識がだいぶ薄らいだのでした。
最後に司会進行役の藤本靖さんに、今回の講座について伺ってみると、
「言語化できないことを前提にしている内容なので、みなさんに体感してもらうのは本来、むずかしいんです。でも今回は、禅の身体作法という具体的な所作に、“型”や“衣”という糸口があったことで、何かを感じてもらえたんじゃないかと。
はっきりした答えを教えてもらうような場ではないのに、何かを受け取ろうとする受講生のみなさんの探究心と、伝えようとする講師の方々の熱意には感謝したいです。この企画は続けていくことが、大事だとおもっています」とのこと。
まだ次回の予定は未定だそうですが、今後さらにパワーアップした講座が期待できそうです。
●朝日カルチャーセンター新宿 講座情報
レポートに登場している藤田一照先生の講座が来年2月と3月に朝日カルチャーセンター新宿で行われます。ご興味ある方は是非どうぞ!
「実践坐禅学事始」 2015/2/2、2/23 火曜(18:30-20:30)
「鼎談・仏教3.0を哲学する 3」 2015/3/5 土曜(18:00-21:00)
◎型(かた)と形(かたち)の違い
[光岡英稔師による解説]
【型と形について】
人は常に主客の観点を持ち他者を通じて生きている。
これが人特有の性質なのかは分からないが、人は他を通じて自らを省みることができる。様々な異なる層の場所と空間で他者と交差し、それらの他者から今の自分を省みれる事こそが人間特有の他者性でもある。
その異なる他者性の表れとして「形」(かたち)や『型』(かた)、『式』などがある。ここでは前掲のレポートに関連して、少しこの辺りの話を纏めてみたいと思う。
私から観た表層が私であるように個々の属性としての「形」が万物にはある。
また、その「形」は自分の内面にある働きを観る時に用いる輪郭を指しており、この「形」が鮮明になるにつれて私自身の内面を観る目が鮮明になり、私の本意が私自身に明らかになってくる。
それとは別に『型』は私と直接関係が結ばれることのない自身と他者との間で共有可能な“媒体” であり、他者の経験を授かる仲介機能でもある。
異なる時代や文化の中にある民族性、風習、言葉のように客体的に共有されている技術を時空を超えて汲み取り伝えるための仲介機能として『型』は代々遺されてきた。
(※ここで客観的を用いない理由として、客体には感覚経験や体験が必ず必要で、客観的視点の場合には必ずしも感覚経験がなくとも情報や知識のみの仮説で客観的事実が構築できるので使い分けてます)
簡単に言うなら「形」は主体固有の属性であり、その主体の輪郭である「形」を観るために『型』は用いられる。さらには「形」から観えてくる内面の働きと「形」の間で生じる一致にて『型』が成立したか否かが決まってくる。
武術の世界で形と意の一致/不一致が語られる所以もここにある。
『型』には自身の身体の感覚的な拘りや癒着が生じた折の癒着を剥がしたり拘りを外すための作用もあり、その『型』によって感覚的な癒着が剥がれた時に「形」がクリアーな輪郭となり自らの働きを鮮明に内省することを許してくれる。
『型』は個人の属性から離れた、流祖や先人など他者の感覚経験から作られており、ここは『型における他者性』と関係している。
『型における他者性』は言うならば「昨日の私」より「産まれた当初の私」の方が“今の私”からは離れており、他者性が感じられるよう武術の流儀においては直接の先生より何代か前の流祖の方が私との癒着が少なく他者性が感じられる。
この様に型の始祖から今に至る先人との間合いの取り方を個人レベルで稽古できることが『型』の真骨頂であり存在意義にもなる。
『型』との距離間が遠ければ難しくも美しく神格化することもでき、近ければ分かりやすくも煩わしさが生じ現実的すぎて夢がなくなってしまう。
ここで『型』との距離間や間合いをはかり《遠すぎず、近すぎない間合い》を獲得していくことが武術における型稽古の目的となる。
また『型における他者性』の他/他者は過去の自分自身をも含む、流れつつある刹那にいる私以外が全て他/他者となる。
よって他者が必ずしも他人であるとは限らない。
ここは型稽古において最も難儀なところでもあり、過去の経験をアイデンティティーの糧として生きている私たち人間にとっては型稽古の難題をここに感じてしまう。
この“既存の自分との癒着”は身に染み付いている拘り故に詰めるところまで詰め、行くところまで行った先で初めて剥がせる癒着となるので、生半可な気持ちで外せる惰性ではない。
これは母国語のように無自覚に身についてしまう感覚経験との癒着でもあり、なかなか本人が気付けないところでもある。しかし新たな言葉を身に付ける上で、慣れ親しんだ母国語に戻ろうとすることは、常に新たな言語を“そのまま学習する”ことへの弊害になってしまうように、居心地の良い既存の自分や自分のやり方に戻ることは新たな体験による核心的な自分が発見されないまま朽ちて行くことにもなる。
特に大人は既存の分かりやすい意味から言葉を汲み取ろうとし、言語を対応させてしまうので“そのままの意味”を習得することに後れを取ってしまう。よって母国語のように《意味も分からず身に付けて行くプロセス》を通らずに意味から入ろうとするので、一度は予め知っている自分の母国語に変換し意味を汲み取ろうとする二度手間を取ってしまい言語習得に倍以上の時間と努力が必要となる。
ここで話しを『型』の話に戻すが、その過去の経験との癒着を剥がすための『型』は、地球や天体の周期のようなもので、一定の法則を持ちながらも常に事が近すぎず遠すぎない所での一回性から成り立っている。そのことを観測可能にしてくれているのが型稽古でもある。
自作自演でない『型』を用いての稽古の意味はこの辺りにあり、主客の観点を常に持つ人間は『他者としての型』を通じてのみ自身を省みることが可能となる。
武術の流儀において自作自演のオリジナル技術は多くの場合、当人の思い込みでしかない。思い込みが悪い訳ではないが、日本語や英語なり母国語の言語体系を借りずしてオリジナルの言語を自分が作ることが出来ないように武術の新たな型や技、流儀を何の母体もない0から作ることは不可能に等しい。
他を通じて自分が身に付けてきた慣習を省みずして自省内観することは不可能である。
その流儀の始祖が残した稽古方法や種族の祖先が遺した言葉や言語体系のように、それら他者の経験から遺されて来た伝承があるからこそ、そこからの仕組みや法則性を感覚経験として汲み取れ『型』へと成熟して行ける訳である。この先人から託された『型』を持たずして自省内観や体認に至ることは極めて難しい。
他の人の話しを聞いたり、書物を読んだりと他者の言葉を借りて自分を省みた時の方が、自分自身の言葉で自分のことを考えるよりも自分を省みやすくなる現象も、『型』によって自身の輪郭が「形」となって現れてくるからであり、また、そこにも『型』と「形」の関係性がある。
自分自身の言葉だと“思い込んでいる言葉”には拘りが生じ過ぎて、自我から離れにくくなるので『他者=型』を通じて一旦自分からは距離を置き離れることで自省体観がしやすくなる。
ただし伝承において『型』は形骸化してしまう可能性も十二分にあり、『型』の仕組みや法則性への理解がなくとも『式』のように手順のみが残り、下手をすると感覚経験と理解の伴わない勝手な解釈を付属させた式が意味なく繰り返されることにもなり得る。
本来『式』は勝手な解釈や意味を持たせないことに其の意味と役割があるのだが、『式』のもう一つの役割は勝手な解釈や意味以外の理解を式から観出だすことにある。
安直な意味や解釈から離れ、『式』に潜む本質的な意味を経験的に発見することで私たちが『式』を生かすこともできる。
そこで古典的な武術の世界では『式』から発展し、法則性や仕組みのある『型』を用いることで更に厳密に無自覚さをなくそうと試みるのだが、これは此れで『型』の発生と関わっている時代背景からなる身体観と、現状の私達との間での《身体的ジェネレーション・ギャップ》が生じるといった全く別の難題が目の前に立ち上がってくる。
この別の難題は、時代を遡ったところの『型』が要求する細かな精密さに、私たちの近代的な身体性である“身に付いた動きやすさ”が居心地の悪さを感じ、先ずは其の型を拒絶してしまおうとする所にある。
そして、その『型』の方を私たちは不自然と感じてしまうのだが、その感覚そのものが既存の社会的慣習から造られた不自然な環境の中で自然と身に付けた感覚であるが故にその感受性の自然さは問われる。そこで、今の私達より先人の生活様式の方が自然に近かったかもしれない可能性を見込んで、先師達の遺した『型』を規範に《身体的ジェネレーション・ギャップ》を克服することを型稽古として試みるのである。
近代に至って武術に限って言うなら、この『型』の定義は崩壊しており “型なき式” である『仕組みの捉え方、観方が分からない形式や方法』が更なる形骸化を招いている。よって、どれだけ伝統武術や古流の技術技法を『型』を通じて稽古しても一向に近代武道に後れを取らないだけの技量を身に付けられる者が皆無に等しく、古流や伝統武術を稽古している当人たちも其の価値を実感できないのである。
近代化した身体観で古典的な技法を理解しようとして擦りもしないことは確かである。それよりは近代化した身体観には近代的な武道や武術の方が分かりやすいし、入りやすい。そして何よりも私たちの近代化した身体や感受性が現代武道/武術の方に実用性を感じてしまうので致し方ないところも多々ある。
ただし、その場合には昔の名人/達人が出来たであろう古の技や術を復興することも諦めておいた方がいいだろう。ソフトである古の技術技法には古典的身体というソフトをインストールするハードがないと再生は不可能である。
近代化した武術/武道の世界ではモダン・アート的に“自分は自由自在であり無形である〜”的なことを言い、『自身の型に対する無自覚さ』と“有形無形の無形”を取り違えている人も少なくない。多くの場合にオリジナルを主張する人は自分の出処の流儀の否定と型や式に対する無自覚さと探究の不十分さが同居している。しかし、自分の出処の流派流儀の否定は大枠において未だその流儀の価値観に拘束されており習気(じっけ)として根強く残っている。自分のやっていた流儀の形跡である習気は、その経験が無自覚に当人の基本基礎になっている場合が殆んどである。
まずは自分のやっていた流派流儀を等身大で見直し、それが自身であることを体認し、そこを一度は離れるにも別の『型』を身に付けながら脱構築する必要がある。
そのように根強く身に付いた習気や“思い込みのオリジナル”からの癒着を剥がすにも『型』を通じての稽古は武術家/武道家として必要不可欠な要素となる。
この程度の型、形、式の理解で至らないところは多々あるのだが、現状において此の文字数のなかで語ることはこの程度に止めておきたい。
この度は『型』について少しだけ解説することになったが、以上の内容も踏まえて今後も型、形、式への理解を皆様と共に深めて行ければと思います。
光岡 英稔
(了)
連載を含む記事の更新情報は、メルマガとFacebook、Twitter(しもあつ@コ2編集部)でお知らせしています。
更新情報やイベント情報などのお知らせもありますので、
ぜひご登録または「いいね!」、フォローをお願いします。
–Profile–