対談 横山和正×小野美由紀 沖縄空手を巡る対話 02

| 横山和正、小野美由紀

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本サイトで「沖縄空手の基本」を連載されている横山和正師範と、この連載を読んだのを切っ掛けに沖縄空手に入門した作家・小野美由紀さんの異色の対談を、数回に渡ってお届けします。

二回目の今回は、演武や試合などを含め、空手を学ぶ意味についてお話しは進みます。

対談/横山和正(空手家)×小野美由紀(作家)

第二回  何故、空手を学ぶのか

語り横山和正、小野美由紀
構成コ2【kotsu】編集部

 

デモンストレーションの意味すること

横山 その後、アメリカに行って色々と演武をするようになったんですが、演武の稽古って一切しないんです。

小野 そうなんですか。

横山 生徒にくわえさせたリンゴをヌンチャクで飛ばすとか、ぶっつけ本番でやってたんです。

予行演習もしないし予備動作とかも何にもないけど、いきなりできてしまう。人が何人見てても関係ない。あるのは「的に当てられる」という絶対的な自信だけ。……ここまで言ってしまうこともあまりないんですが、せっかくの対談なので(笑)

小野 そもそも演武って、どういう目的でやるのでしょうか?

横山 人間って見えるものが全てなわけじゃないじゃないですか。

小野 はい。

横山 例えば空気って見えないし、普段料理で使ってるガスだって本来無臭だから、あえて臭いをつけてるわけですよね。人間の力もそういうものだと思うんです。武道でもなんでも目に見える技が全てでなくて、目に見えない部分に本当の力が潜んでいる。でも今の人って目に見えるものしか存在しないという考えが主流じゃないですか。だから武道の目に見えないものをそのまま見えないままにしておいたら、誰にも存在が分からない。

小野 そうですね。

横山 目に見えないものを明確にするには、形にできるものが必要になってくるんです。ブルース・リーなんかは「水になれ」と言うんですけれども、水と言ったって、こぼしたら低い方に流れるだけじゃないですか。形のある器に入ることで初めて意味が出てくる。ダムを作ったりすることで初めて水が限りない力を発揮できる。生命だって目に見えないけれども、人間が動くことで生命があるってことがわかる。

昔ならゆっくり突いて、型をやるくらいの演武で良かったのかも知れませんが、いまは特に欧米に行くと、自分の目で見て体験して凄さを確かめないと認めてくれませんから。自分の持てる能力をいかに率直に相手に伝達するか、という一つの方法。演武とはそういうものだと思うんです。

小野 実際に人を倒すわけではないんですよね。あくまでもパフォーマンスなんですか?

横山 海外だとすぐにコピーされちゃうんですよ。表面的な演武だと簡単に真似されて、「俺たちの方が日本人よりすごいよ」と言われてしまう。だから「ここまでできるか?」という自分のギリギリ限界の技を見せる。リンゴをヌンチャクで飛ばすのだって、一歩間違えれば鼻なんて簡単に飛んじゃうんですよね。鎌も使うし、自分にできるギリギリの範疇で見せる。

そういうのはただ技術があるだけでは無理で、「ゾーン」に入らなくてはいけません。例え二千人、三千人が観てようと、試合も含めて自分の最高のパフォーマンスを出せる。試合もそうですし、指導もそう。

指導って、どれだけ生徒の気持ちをバーンと掴むか、心から「学びたい」と思わせるかという勝負でもありますしね。だから空手をやっている時は全力投球という感じで取り組んで。でも今みたいに総合格闘技とか出てくると「空手の技はこうすれば防げる」とか言われがちなんですよね。で、「マーシャルアーツエキスポ」というイベントに出た時は総合格闘技も人達も来てたんですが、自分みたいな演武をやっていると彼らは入って来られない。「住む世界が違う」という感じで。「あんな風に刃物を使うのは自分たちの『格闘技』という枠から外に出てしまっている」と。それでいてそれだけの覚悟という部分において心の通じ合いがあって、それが尊敬心にも繋がるんですね。

 

「実戦」への疑問

小野 以前、格闘技経験のある男性に「空手をやっている」と言ったら「そんな実戦の役に立たないことをやって楽しいの?」って言われたんですよ。なんでそんなこと言われちゃうのかな、ってすごく不思議に思うんです。

横山 それでどう思われます?

小野美由紀さん
作家・小野美由紀さん

 

小野 逆になんでそんな実戦を必要としているんだろうと思います。「戦える能力を身につけたい」とその人は言っていたんですけど……。でも今の世の中にそれって本当に必要かな、なんで、実戦の役に立つほうがエラいみたいな感覚とか考え方があるのだろう、と。

横山 世の中全体が、目に見えて評価できるもの、つまり「第3者がみてどう思うか」ということに偏っていますからね。今、空手をやってて試合とか出ようと思わないでしょう?

小野 出てみたいとは思いますけど、そもそも試合って何をやるのかよくわかってなくて。

横山 試合って結局、個人の能力よりも第三者にいかに評価されて、ポイントをもらうかということですから。型も含めて。だから自分がすごいと思ってても、第三者がダメと言ったらそれはダメ。

小野 あー。

横山 自分があまり試合に興味ないのは、第三者の目が間違ってたとしたら、間違った目に評価されてそれがなんなの? って話だからなんです。だいたい「なんでそんなのやるの?」って言われても、やってる人間の気持ちは分からないじゃないですか。人の評価なんて色々ですし、その時の状況に流されてコロコロ変わります。昔は最強と言われたものが今ではそうではなかったりするでしょう。だから自分としてはヨーロッパなんかでのセミナーでも総合格闘技とか色々あるけれども、やっぱり空手が一番だよと言うんですよ。空手の強さについて色々言われるけど、やっぱり空手が一番だよ、と。「なんでですか?」って参加者たちは聞いてくるけど、「当たり前だろ。おれが言ってるんだから」で済ませちゃいますね。

自分が「空手が一番だ」と思ったら、それが一番なんです。「なんで空手なんてやってるんだ?」と言われても、「自分が良いと思ってるからやってる」って返しちゃえば、それで終わっちゃう気がしません? それが一番強いってことです。自分はそう思うんです。シンプルに考えてしまうと。「実戦の役に立たないじゃないか」と言われても「でもやっぱり空手おもしろいよ」って答えていれば、案外相手が興味持つかも知れません。それを自信持って言えるかどうかだと思うんですよ。色々やっている人たちは迷いもあると思うんです。「これで良いのかな」「こんなことやってて上手くなるのかな」って。そういうものも「自分が楽しい」という思いさえあれば良いわけですよね。そこには強い、弱いは関係なくて、自分が「良い」と思ったことってやっぱり良いんですよ。

小野 それが強さになりますもんね。自分が「良い」と思えるって。

横山 そうでしょう。

 

空手のオリンピック進出について

小野 じゃあオリンピックで点数をつけるというのは、沖縄空手の本質とはずいぶん違うものになるのでしょうか?

横山 型って本来、評価されるものではないと思うんですよ。空手を身につけるための道具ですから。能力を身につけるための道具それが型の本質だと思うんです。

小野 道具なんですね。

横山 色んな考え方があるとは思いますが、私はそう思いますね。家を建てるには土台の上に色々組み立てるわけじゃないですか。どれだけ良い土台があっても、建築材があってもそれだけじゃ家が建たない。それらを使ってどう家を組み立てるかが大切なはずでしょう。型を評価するというのは、材料だけを見て建った家を見ないような感じがするんです。

小野 オリンピックは「材料」だけを判断するものになりそうなんですか?

横山 評価って分かりやすくないといけないわけじゃないですか。どんなにすごい動きをしても地味だったら分からない人には分からないですし。説明しないと分からないようなものはスポーツとして成り立ちませんよね。

小野 そうですね。

横山 それこそ解説を聞くだけで終わっちゃうような競技になるかも知れない。だから限りなく単純で、分かりやすくしていくことが、競技として成り立たせるための要素になるんじゃないかと。そうしないと審判の判定基準も曖昧になっていっちゃいますし。そこは仕方ないことだと思いますね。

小野 オリンピックで正式種目になったってニュースを聞いても、うちの道場では全然盛り上がらなかったんです。それが沖縄空手をやっている方の自然な態度なのかなって、勝手に思ってたんですけれども。

横山 先日、ヨーロッパに行った時に聞いたんですけれども、国ぐるみで本腰を入れる国もあるんですよね。でも沖縄空手でなくても、オリンピック反対派というのもいるんです。四大流派の空手をやっている人の中にも。そういう人たちはオリンピックの空手ではなく何に興味を持つようになるのかというと、沖縄の空手なんです。空手の里帰りのような現象が起こるようになってきているんですよね。

小野 里帰り……。源流に戻るってことですか?

横山 そうですね、と言うよりスポーツ以前の空手と言うかな。ただアメリカなんかでは全くオリンピックの情報はありませんね。空手がオリンピック種目になるかどうかも全く興味がない。

小野 そうなんですか。もっと盛り上がっているのかと思ってました。

横山 アメリカって国は独特で、なんでも自分の国のものにしちゃうんですよ。日本空手も沖縄空手もぜんぶ一緒くたにアメリカンカラテにしちゃう。自分の国が世界一だと思ってますから、大リーグだってアメリカ国内でやっているはずなのに、「ワールドシリーズ」になる。だからよその文化に興味はない。もちろん興味を持っている人もいるんでしょうけれども、全体的には大して興味ないように見えますよね。

ただ興味深いのは現在オリンピックに採用される空手の内容が、かつて70~80年代にアメリカで盛んであったオープントーナメントと酷似しているんですよね。足に着けるプロテクターから試合内容まで。それを見るとアメリカと言う国は経過を飛び越し結論へ達する能力が想像以上に優れているのかな。と不思議に感じてしまいます。

横山和正先生
横山和正先生

 

トランクスから道着へ

小野 アメリカの方が空手に興味を持つきっかけってなんなのでしょう?

横山 子どもの場合は、教育目的が大きいですね。アメリカって日本の運動会みたいなイベントも朝礼もありませんから。だから団体生活に馴染みにくい。それに対して親がどういう教育をしていいか分からないという事情もあるので、空手の道場できっちり教えていくと親も喜びますよね。あとは精神的なもの。自信をつけるとか。

小野 礼儀作法とか?

横山 それも含まれますよね。でも礼儀作法の場合、アメリカでそのままやるわけにいかないという難しさもあります。宗教的な問題もあるので、空気を読みながらやっていかないと。

小野 先生が伝えたい空手の魅力ってなんでしょう? やっぱり自信ですか?

横山 空手って「洗練されているか、されていないか」という枠の中にあるものだと思うのです。空手のすごいところは洗練されていない初心者から洗練されている熟練者まで等しくカバーできるという、懐の深さだと思いますよね。エクササイズとしてやりたい人でも楽しめちゃうわけじゃないですか。そうやって色々覚えていって感性が拓かれてくる度に、次から次へと違うものが見えてくる。空手にはそういうものすごく広いキャパシティがある。それがプラスにもマイナスにもなります。自分は昇段システムがあまり好きじゃありません。それってみんなの気持ちが帯の色の方に向いてしまうから。
そういう評価がなければ、自分の置かれているレベルというのが曖昧になりますよね。そういう曖昧な中で練習していくことで、純粋に勉強できることというのがあると思うんです。変に帯のシステムがあると、空手の練習が昇段や昇級目的に流れてしまって、自分の能力に対する誤解が生まれてしまうのではないかと。

小野 自分はこの帯だから、このくらいのレベルのはずだ、という基準になってしまうと。

横山 それもあります。それと帯に振り回されてしまうという弊害。帯の色によって自分がすごいと慢心してしまったりとか。自分は子供の頃から空手をやっていたのですが、高校生くらいになると道場の中で一番強くなるわけですよ。でもその強さに全く納得できなかったんです。

小野 そうなんですか。

横山 試合に出ても勝てるし、道場対抗でも負けないんですけど「こんなものが空手の強さなのかな」と。自分の求めているものとは違う、という感じがしてたんですよ。子供の頃、空手というのはもっとすごいものだと思って始めて、ずっとそれを追いかけて来たので。周囲から「あいつはすごい」と言われるようになっても、全然納得できなかったんです。「こんなものなのか」と。もちろんそこそこできるってことも分かるんですけど、自分の強さがただ若さと体力でやってるという実感があって、30歳過ぎても通用するのかな、と。結局、そういうので決まるなら空手をやめてボクシングでもやってチャンピオンでも目指した方が良いのかな、という思うようになったんです。でも実際にやってみると違うんです。

小野 記事でも「自分にはトランクスじゃなくて道着が合った」と書かれてましたよね。

横山 自分は公式戦に出る前にやめちゃいましたが、スパーリングは結構やったんです。当て勘は良いから結構当たるし、ダメージを与えられるんです。そうやって相手がクラクラってなったところに、もう一発打ち込むのが好きじゃなかった。もしかしたら相手が死んじゃうかも知れないじゃないですか。最初はわけも分からず、グロッキー状態の相手にボコボコ打ち込んでいたこともありました。でも、ある時ふと冷静になってしまって手加減してしまったんです。その時に「自分の求めているものとは違うな」と。ダメージを負った人間に強打を打ち込むのはボクサーとしては喜ぶべきシーンなんでしょうけれども、自分としては”スポーツと言う枠内”でそれをやるには熱くなれなかった。そこが武道と違うところですよね。それで武道に戻ろうと思ったんです。

武道にも色々あるし、強さにも色々あるけど、弱った相手をメチャクチャにやっつけるだけじゃない部分が、この時初めて見えて来たんです。だからちょっと矛盾してますよね。武道って。強くなるものでありながら、相手をただやっつけるものではない、という

極端な話、相手をやっつけるだけならナイフでひと刺しすれば良いだけじゃないですか。だから今の総合格闘技みたいに、相手に馬乗りになって殴るのってなんなんだろうと。ナイフで刺しちゃえばおしまいなんですから。それをあえてルールの中で顔面にパンチを打ち込んで倒すということへの違和感をボクシングをやりながら感じたんですよね。それとは違う側面が、武道にあるんじゃないかと。子供の頃には柔道もやってたんですが、あれはスパッと投げが決まった時って気分がいいんですよね。殺すわけじゃないし、血まみれにするわけでもない。技が切れた瞬間の爽やかさがあって、そういう部分を武道に求めたのもあったのかも知れないですね。その爽快感。ボクシングで感じた弱った相手をさらに痛めつける残忍性よりは、余計に痛めつけることなく一瞬で決める。その辺の違いがあって空手に戻って来たんです。

(第二回 了)

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–Profile–

横山和正(Kazumasa Yokoyama
本名・英信。昭和33年、神奈川県出身。幼少の頃から柔道・剣道・空手道に親しみつつ水泳・体操 等のスポーツで活躍する。高校時代にはレスリング部に所属し、柔道・空手道・ボクシングなどの活動・稽古を積む。

高校卒業の年、早くから進学が決まった事を利用し、台湾へ空手道の源泉ともいえる中国拳法の修行に出かけ、八歩蟷螂拳の名手・衛笑堂老師、他の指導を受ける。その後、糸東流系の全国大会団体戦で3位、以降も台湾への数回渡る中で、型と実用性の接点を感じ取り、東京にて当時はめずらし沖縄小林流の師範を探しあて沖縄首里空手の修行を開始する。帯昇段を期に沖縄へ渡り、かねてから希望していた先生の一人、仲里周五郎師に師事し専門指導を受ける。

沖縄滞在期間に米国人空手家の目に留まり、米国人の招待、及び仲里師の薦めもあり1981年にサンフランシスコへと渡る。見知らぬ異国の地で悪戦苦闘しながらも1984年にはテキサス州を中心としたカラテ大会で活躍し”閃光の鷹””見えない手”と異名を取り同州のマーシャルアーツ協会のMVPを受賞する。
1988年にテキサス州を拠点として研心国際空手道(沖縄小林流)を発足する。以後、米国AAUの空手道ガルフ地区の会長、全米オフィースの技術部に役員に籍を置く。
これまでにも雑誌・DVD・セミナー・ラジオ・TV 等で独自の人生体験と古典空手同理論他を紹介して今日に至り。その年齢を感じさせない身体のキレは瞬撃手と呼ばれている。近年、沖縄の空手道=首里手が広く日本国内に紹介され様々な技法や身体操作が紹介される一方で、今一度沖縄空手の源泉的実体を掘り下げ、より現実的にその優秀性を解明して行く事を説く。

全ては基本の中から生まれ応用に行き着くものでなくてはならない。
本来の空手のあり方は基本→型→応用全てが深い繋がりのあるものなのだ。
そうした見解から沖縄空手に伝えられる基本を説いて行こうと試みる。

書籍『瞬撃手・横山和正の空手の原理原則』

ビデオ「沖縄小林流空手道 夫婦手を使う」・「沖縄小林流空手 ナイファンチをつかう」

web site 「研心会館 沖縄小林流空手道
blog「瞬撃手 横山和正のオフィシャルブログ

 

小野 美由紀(Miyuki Ono
文筆家。1985年生まれ。慶応義塾大学フランス文学専攻卒。恋愛や対人関係、家族についてのブログやコラムが人気。デビュー作エッセイ集「傷口から人生。〜メンヘラが就活して失敗したら生きるのが面白くなった」(幻冬舎)を発売。著作に、自身のスペイン巡礼の旅を記した『人生に疲れたらスペイン巡礼~飲み、食べ、歩く800キロの旅~』(光文社新書)、原子力エネルギーの歴史について描いた絵本「ひかりのりゅう」(絵本塾出版)がある。

Twitter:@MiUKi_None
ブログ:http://onomiyuki.com/