2017年8月17日(木)、新刊『生きる稽古 死ぬ稽古』発刊記念イベントが東京・八重洲ブックセンターにて開催されました。こちらでは著者である藤田一照先生と伊東昌美さんが、【生と死の不思議を笑って語ろう】というテーマで、本書のできた成り立ちと、そのなかで見えてきた遠くて近い生と死とどう向かい合えば良いのかについてお話しいただきました。
コ2では、当日の模様を連載でお届けします。また本でも使われている、3年弱の取材の間に撮影された茅山荘でのお写真も紹介していく予定ですのでお楽しみに。
『生きる稽古 死ぬ稽古』(日貿出版社)出版記念
対談/藤田一照×伊東昌美
【生と死の不思議を笑って語ろう】
第2回 分からないことを“分かる”
語り●藤田一照、伊東昌美
構成●コ2編集部
協力●八重洲ブックセンター
「まずブッダの態度を共有する」(藤田)
伊東昌美(以下、伊東) あと、改めて今日皆さんの前で一照さんにお話し頂きたいことがあって。これはこの本の中でも書いているのですが、「分からない」ということについて、「分からないことをそのまま置いておこう」とおっしゃっていることについてお話して頂いてもいいですか。
藤田一生(以下、藤田) 他の本の宣伝になるかもしれないんですけど、帚木蓬生さんっていう小説家の方が『ネガティブ・ケイパビリティ』っていうタイトルの本を書かれているんですね。この「ネガティブ・ケイパビリティ」っていうのは、「分からないという状態、あるいは、答えの出ない事態に踏みとどまる能力」っていうような意味なんです。
そういう「自分の持っている枠組みやカテゴリーの中に入らない状況」っていうのは「分からない」とか「不可解」と僕らは感じるわけですよ。
大抵そういう状態に陥ると僕らは焦って事実や理屈や解答に手を出してしまうんですけど、それをしてしまうと、結局、自分の分かってる「既知」のところに、分からない「未知」のことを無理矢理結び付けて納得してしまうわけですね。それは自分を安心させることには役立っているかもしれないけど、そこからは新しいものは何も生まれてこないわけです。
自分にとって「未知」のものの前で、一刻も早くわかろうと焦って「既知」のものに変えてしまおうとしないで、そこで何が生まれてくるか、辛抱強く待ち続ける。目をそらさないで注意深く待ち続けるっていうのは一つの能力だっていうのが、この「ネガティブ・ケイパビリティ」ですね。
これはジョン・キーツ(John Keats)っていうイギリスのロマン派の詩人の方が1回だけ弟への手紙の中で触れている、文学的な創造性についての洞察だったんです。もちろんこれは文学的創造だけではなくて、例えばそれから後にビオン(Wilfred Ruprecht Bion)っていう精神医学者の方が臨床で大事な能力ということで復活させているんです。
僕は、仏教の修行も、すぐに答えを何か経典なり師匠なりから教わって納得して終わりにするんじゃなくて、「ブッダに学ぶ」とすれば、ブッダの言ったことを権威のある答えとして鵜呑みにするのではなくて、「ブッダが向かい合った大きな謎」、ブッダが向かい合った大きな実存的問題に共感することが大事ではないかと思うんです。
ブッダ自身、それまであった既成の答に満足しなかったからこそ、仏教をそれまでになかった革新的な生きる道として創造できたわけです。既成の答えを受け入れることで済んでいれば、既にあったバラモン教でよかったわけですけど、それでは満足できなくて、自分独自の新しい道を切り開いたわけですから。
ブッダのそういう態度みたいなものをまず共有しないことには、「そこから出てきた答えというのは借りものにしかならないんじゃないか」っていうのが僕の思っていることで。
縁があって踏み入れることになった禅でも「出来合いの答を鵜呑みにするのではなくて、存在のまるごとをあげて問い続ける」っていう態度を大事にしているんですね。ですので、師匠の問いに借りものの答えを出した途端にぶん殴られたり、鼻をねじ上げられたり、怒鳴られたりするわけで。僕はこれを非常に大事なポイントだと思い続けています。
こういう態度じゃないと死っていうものに対しても「借りもの答え」では間に合わないわけでしょう? 借りものじゃなくて、自分が紡ぎ出していくような態度じゃないと多分、「自分の死には間に合わないんじゃないか」っていうように思っているので、その辺を伊東さんに伝えたかったということですね。
伊東さんがされているジブツタも、多分そういう態度で書けば面白いんじゃないですかね。「どこかに正解があるんじゃないか」「こう書かなければいけないんじゃないか」とかを思いながら自分に対して、他人行儀で水臭く書くのではなくて、もっと別な、ハートから出てくる自分の声を繊細に聞いていくような親密な態度で、ジブツタ、エンディングノートが書けるようになるとまた違ってくるんじゃないかな。
この対談も、「そもそもエンディングノートを買ったんだけど、書けない人が多くて、どうしたらいいんでしょうか」みたいな問いかけが最初にありましたよね。
伊東 そうですね。エンディングノートっていうのは、自分が死ぬ前に今のうちに書いておいたほうがいいであろうことを書いてもらうものなんですけど、私が作った「ジブツタノート」は、どっちかというとライフノートとして、生きている皆さんに使って頂くためのものなんです。それでも「書けない」っていう人が多いんです。それに対して、何かヒントがないかということで一照さんに色々質問をしたんです。
でも、その時一照さんから、「それはですね」という答えが返ってくるかと思っていたら、「そんなこと分かんないよ」っていうのが結構あって(笑)。「分かんないよでいいんだ!」っていうのが驚きでした。
それはその後もお話しの中で何度も何度も聞いているんですけど、「それは分からないんだからね」って言われて。だけど、その「分からない」というところを明確にして頂くことによって、「じゃあ分かるところを積み上げていくにはどうしたらいいか」っていう話になっていったりしたんです。
だから、分からないものを明確にしてもらったり、分からないことを「分からないとはっきり自分が分かる」っていう姿勢が大事だということも、私が一照さんに学んだ大きなところですね。
藤田 自分が生きてることなんて、絶対分かりっこない。分からなくても安心して生きてるわけですよ。僕らができるのは、「分からなさをきめ細かく分かる」というんですかね、「分からないっていうことが分かる」っていうことですよね。
ソクラテスも「私に分かっていることは、私が知らないということだ」と言っていて、「無知の知」ってやつですけど、それはまさに「分からないことが分かっている」っていうことですよね。それも、浅い意味の「どうせ人生なんか分かんないよ」っていうんじゃなくて、「なるほど、それほどまでに分からないんだ!」っていう深い洞察としての分からなさです。
だから、「分からなさの分かり方をずっと深めていく」っていうことが必要なわけです。そういう分からなさの点で死は万人に平等なんですよ。
伊東 確かに。
「(死は)皆さんの都合がまったく関係ない世界」(藤田)
藤田 むしろ、「なまじ頭が良い人ってハンディがあるんじゃないかな?」って僕は思います。僕の場合は、学歴が全く通用しないどころか、むしろ学歴のせいでいじめられるみたいな世界に入りましたからね。
例えば畑で野菜を育てるとか、それから十分な道具がないところで何か作業をやらなきゃいけないというときに、学歴が高いとそういうシチュエーションって滅多にないわけですけど、俺の輝かしい(笑)学歴を山に向かっていくら大声で怒鳴っても何の返事もない(笑)。
むしろ「そんな暇があったら草を抜け」みたいな感じですからね。そういうのをずっとやってきたので。世間で言う頭がいいくらいのことでは、全く通用しない世界がある。人間の都合なんてものが、一切問題にならない次元があるんです。
死っていうのはまさにそれなんですよ。
皆さんが積み上げてきたものが全部意味をなくすような、そういうものですよね。それは自然もまさにそうですね。人間社会の約束事が全く通用しない局面なわけで。
死っていうのは、自然の営みの一つの側面なんです。
生まれるのもそうですけど、死ぬのも自然の営みなので、皆さんの都合が全く関係ない世界なんですよ。これは、こうやって文明を築いてきたような人間にとっては、自分を謙虚にしてくれるっていうよりは、自分の高慢な鼻をへし折られるような出来事なので、できたら見たくない、分かりたくない、知りたくない、避けたいことで、あるいは他のなにか手なずけられるようなものに変えてしまいたいようなものなんですけど、そういう中途半端でいい加減なごまかしをしないっていうところから仏教が始まってるんです。
仏教は人は必ず死ぬという絶対の事実を前提にするところから始まっているので、幸いなことに学歴はあってもなくても関係ないんです。
伊東 ありがたいです(笑)。
藤田 逆に言えば小学生でもその辺の大人なんかよりもっと深い洞察を持っている人があり得るというようなことです。もしかしたら、学校に行くことで大事な洞察を失ってしまってるっていうようなことすらあり得る。
何か深い洞察を持つような人たちっていうのは、子供のときに「え? 人は死ぬんだ。そして、そこには自分も含まれている。」みたいなことを知ったときのショックを割と新鮮な形で持ち続けて大人になるような人なんでしょうね。
その感じを打ち消すんじゃなくて、そのハートが受けたショックを大事に持ち続けながら、マインドをフルに使ってきちんと理解しようという、そういう努力をしている人たちの言ってることとか書いてることっていうのは、僕は参考になるんじゃないかなと思いますけどね。
ブッダはまさにそうだった。非常に深いレベルでそれをやった人たちの一人じゃないかと思います。だから、今でも学ぶべきことが多いんですよ。
(第二回 了)
新刊情報『生きる稽古 死ぬ稽古』(藤田一照・伊東昌美著)
「絶対に分からない“死”を語ることは、 同じく不思議な、“生”を語ることでした」
私たちはいつか死ぬことをわかって今を生きています。
でも、普段から自分が死ぬことを考えて生きている方は少ないでしょう。
“あらためて、死ぬってどういうことなんだろう?”
この本は、そんな素朴な疑問をエンディングノートプランナーでイラストレーターをされている伊東昌美さんが、禅僧・藤田一照先生に伺う対話となっています。
人生の旅の果てに待っているイメージの死。
ですが藤田先生は、
「生と死は紙の裏表みたいなもの」で、
「生の中にすでに死は忍び込んでいる」と仰います。
そんな身近な死を語るお二人は、不思議なほど“愉しい”様子でした。
それは、得体の知れない死を語ることが、
“今この瞬間を生きている奇跡”を感じるからだったのかもしれません。
そう、死を語ることは生を語ることであったのです。
“どうして私は生きているのだろう?”
一度でもそんなことを考えたことがある方へお薦めします。
単行本(ソフトカバー): 255ページ
出版社: 株式会社 日貿出版社
ISBN-13:978-4817082398
発売日: 2017/8/22
全国書店、アマゾンで好評発売中です。
藤田一緒先生が登場する、セミナーのお知らせ!
来る11月5日(日)、藤田一照先生と刀禅創始者・小用茂夫先生によるコ2企画・コラボレーションセミナー「静中の動を身体に問う」が開催されます。藤田先生ならではの禅へのアプローチと、日本発のボディーワーク・刀禅とを一緒に学べる貴重な機会となっています。お見逃しなく!
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–Profile–
●藤田一照(Issho Fujita)写真右
1954年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。曹洞宗紫竹林安泰寺で得度し、1987年からアメリカ・マサチューセッツ州のヴァレー禅堂住持を務め、そのかたわら近隣の大学や瞑想センターで禅の指導を行う。現在、曹洞宗国際センター所長。著書に『現代座禅講義』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(山下良道との共著、幻冬舎)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』(春秋社)、鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド2』(サンガ)など多数。
Web site 藤田一照公式サイト
オンライン禅コミュニティ磨塼寺