2017年8月17日(木)、新刊『生きる稽古 死ぬ稽古』発刊記念イベントが東京・八重洲ブックセンターにて開催されました。こちらでは著者である藤田一照先生と伊東昌美さんが、【生と死の不思議を笑って語ろう】というテーマで、本書のできた成り立ちと、そのなかで見えてきた遠くて近い生と死とどう向かい合えば良いのかについてお話しいただきました。
『生きる稽古 死ぬ稽古』(日貿出版社)出版記念
対談/藤田一照×伊東昌美
【生と死の不思議を笑って語ろう】
第8回(最終回) ブッダが取り組んだ問題を自分の問題として引き受ける
語り●藤田一照、伊東昌美
構成●コ2編集部
協力●八重洲ブックセンター
「マインドとハートの役割を区別している」(藤田)
Bさん 今日はありがとうございました。一つどうしても気になることがあって、質問させていただきたいと思います。
11年前の誕生日に、私は初めて人を看取りました。それは母でした。ただ亡くなる前に1秒でも長く、1週間でも長くと、現代医学にとって一日でも長生きできることが最善だということで、延命装置が勝手に付けられました。私には兄弟が5人いるんですけれども、全員の意見が揃ったら延命装置を止めることができるということだったのですが、兄3人がみんな逃げちゃって。やっぱり自分が(延命装置を止めてください)と言うのは嫌なんです。私はその頃仕事をしていたので毎晩母についていていたのですが、最後は私が幕を下ろしました。
藤田 延命装置を外してくださいと言われたわけですか。
Bさん はい。「外してください」と。他の兄弟は怖くて言えなくて、だから私が首絞めたみたいな感じで。その時に、「人間が死を操作してる」ということに非常に違和感を覚えて、そういう医学の在り方というのをどのようにお思いになるのか、伺いたいと思います。
藤田 ブッダの時代にはそんな心配はなかったわけで、その意味では僕らは前例のない時代に今入ってきているわけです。死もそうですが、誕生にしても遺伝子を操作して「デザイナーベビー」って言うのですか、そういうことすら可能になっているようですね。だから、仏典の中にそういう問題への解答を探しても、多分カテキズム的な答えはないわけです。
そうしたことを含めて、ブッダが全てを知っているわけではないんじゃないか。もしブッダが今生きていて、そういう問題に直面したら、たぶんまっさらなところから考えていかなければならないと思うんです。ブッダもきっと悩むんじゃないですか(笑)。
でも、もしブッダがこの時代にいたら、この時代・状況でベストなことはないかをフレッシュに考えると思います。でも、その考える前提、パラダイムが僕らとは違うんじゃないかというふうに思ってるんです。やはり、凡夫のパラダイムではなく、目覚めた人のパラダイムで考えるわけです。
だから、今その問題について僕が何か言うとしても、仏教ではこうだと仏教を代表して答えるわけにはいかなくて、それはあくまでも僕個人の考えで、僕の経験に基づいて答えることにしかならないと思います。
一つ言えるとすると、明快な答えや「こうするべきである」というようなはっきりしたことは言えないですけど、そういう状況を作り出したのは、「われわれ自身」なわけですよね。必ずしもそうじゃなくてもいいんだけど、何か僕らの意識のあり方とか、無意識的な願望とか願いとかっていうものが、そういうことを可能にするようなテクノロジーみたいなものを長い時間をかけてつくり出してきたわけです。
自分たちが作り出したわけですから、「私はそんなことには関わっていないから、全然知らない」と言うのはある意味、責任逃れではないか。僕ら人間という大きな家族が、種が作り出してきた状況の中に僕らはいるわけです。だから、「そういう状況を僕らはどうして作り出してきたのか」っていうところから見ていかないといけないと思うんですね。その上で「じゃあ、それをどうするか」っていうことを考えるべきじゃないか。それはここ(頭・マインド)で考えても多分駄目なんですよ。
僕はマインドとハートの役割を区別してるんですよ。ハートっていうのは「○○したい」っていう、パッション、情熱みたいなもの。これには理屈ないんですよ。そういう理屈ではないものが湧きあがってきて、マインドは、「そういう願いをどうやったらうまく実現していけるか」っていうことを塩梅するマネジャー的な役割なんですね。多分そういうことはこの本の中にも書いてあると思うんですけど。
でも、僕らは「ハートの声を聴く」っていうことをほとんど知らないで、全部マインドでやっているわけですよ。ハートの仕事までマインドでやるように教えられたり、条件付けられてしているので、スパッと決められないわけです。
マインドは「こういうオプションがありますよ」っていうのは出せるけど、そのうちどれを選択するかという決定は、マインドにはできない。そういうのはハートがやることなんです。色々あるオプションからどれを選択するかという時に、「これだ!」っていう決め手はハートからくるもので、マインドしか知らないと損得勘定で決めるしかない。それだと、心(ハート)が喜ばないというようなことが起きてしまいます。
だから、心底から決められない、決まらないんです。そうすると、最終決定を多分他の人に預けることになります。だから、やっぱり「本人がこう死にたい」「こう生きたい」みたいなのをちゃんと常日頃から周りに表現しておいて、他の人にもきちんとシェアしとかないといけないのでしょうね。
「元気なうちに「こうして欲しい」と書いておくことが大事」(伊東)
Bさん 実はそういうことが遺言と一緒に後から出てきたんです。「延命装置をしないでくれ」と。それを身内が開けていなかったという。
藤田 「こう生きたい」「こう死にたい」の「~たい」っていうようなところはやっぱり本人と身近な人とが共有できるような時を過ごすということが大事なんでしょうね。ハートから出てくるものっていうのは、それは人それぞれで、答えは一つじゃないです。Bさんの「~たい」と私の「~たい」はきっと違うかもしれない。その辺はやっぱり日頃から私の「~たい」を代弁してくれるような人に向かって書いたり、お話したりして表明しておく。やっぱりそういうことも生きざまの一部に入ってくる。
Bさん そうなんです。本当にそのとおりです。
藤田 そういうことがやっぱり死ぬ段階に入って反映されてくることになるので、そういう意味で「生きてきたようにしか死ねないな」っていう感じはしてます。生きる稽古をちゃんとしてないと、いざ死が近づいてからじゃ間に合わないということがけっこうあるんですね。
Bさん 大丈夫です。稽古だから。
司会 伊東さん、いかがですか。
伊東 私も一照さんと同じで、「これが正しい」とか「これが間違い」とかは言えません。ただジブツタのノートで書いてるように、元気なうちに「自分は少なくともこういうふうにしてください」っていうことを書いておくことが大事ですね。
あと男女差ってあんまり言えないと思うんですけど、最後に「こうやっちゃうと死にますよ、どうしますか?」って聞かれたときに、「じゃあそうしてください」って言えないのは男の人の方が圧倒的に多いようです。それは皆さん覚えておいたほうがいいと思います。
もう一つ、自分の配偶者が亡くなってしまうということを、受け入れられず執着してしまう人はやっぱり多いですね。これは終末医療をやっている先生が仰っていたことですが。
Bさん それも男性の方が多いのですか?
伊東 それは男女ともにで、受け入れることができず「延命(処置を)してください」って言っちゃう人が多いそうですね。ですからやっぱり夫婦でも親子でも執着で「死なせない」っていう状態を作ってしまうのは両者にとって辛い状態になるので、どこかで踏ん切りがつけれるように「生きる稽古」をされたほうがいいかなっていうのは思います。
藤田 「どうぞ逝ってください」って言うのはなかなか難しいでしょうね。
伊東 難しいですね。ただ、「いつまでも、いつまでも」となってずっと意識もないままに延命治療のままで過ごすということも結構現実的にはあるようなので。
藤田 それは「死につつある人ではなくて、私の執着がそれをさせているんだ」っていうことですよね。
伊東 はい、そこをはっきりさせたほうがいいなっていうところですね。
藤田 「私が嫌だから生かし続けてる」っていうようなことになりますよね。それはなかなか内省力っていうか、自分をちゃんとそういう風にありのままに見る稽古をしていないと難しいでしょうね。どうしても「旦那さんのために」「奥さんのために」と思ってとなって、知らないうちにすり替えが起きてしまう。
伊東 すり替えてしまいますね。
藤田 人間は自己正当化が極めて上手ですからね(笑)。本人がそう思わないでやっている。
伊東 難しい問題ですけど、そこはもう「稽古をする」という言い方でしかできないかなと思います。
「死があるからこそ深い“生”が生きられるんだ」(藤田)
藤田 この本の中でも出てくるのですが、本当の死っていうのは「私の死」しかなくて、それは一回きりですからね。だから他の人と比べないほうがいいと思います。他の人にとやかく言う権利はない。だって、誰も代わってくれないんだから。私の死は私の死で唯一絶対のものなので、いいも悪いも、他の人が判断するようなことじゃない。
たとえ言われても「別に全然気にしなくてもいい」と思っていればいいんじゃないですかね。そのくらい真剣に考えたほうがいいという、逆に言えば一回しかないんで、やり直し効かないことなんだから。
でもそういうのは、実はこの瞬間もそうなんですよ。一回きりで、やり直しがきかないという点では死と同じです。一回きりの厳粛なチョイスで、毎瞬間生きているわけですよ。「今日ここに来るか、あるいはなにか別なことをやるか」みたいな小さなチョイスの積み重ねが人生を作っている。その結果、運悪く途中で交通事故に遭って死んだりもするわけで、「今の何気ないチョイスが人生を終わらせるか、明日を迎えるかぐらいの重要な意味をになっている」っていうことは覚えておいたほうがいい。
そういう意味で「生の裏側に死が常にある」わけです。遠いものじゃなくて、今、足元にあるっていうことですね。そう考えれば、多分「今を生きるスタンス」っていうのが少しもうちょっと真剣になるかもしれない。後に持ち越して、「後で後で」、「そのうち」っていうような、浅い、腰の入らない姿勢が少しですけど改まるかもしれないですね。
司会 いまこの瞬間を生きる、生き尽くすということですね。
藤田 人間だけですからね、自分が死ぬっていうか、それを想像できるのは。だから、何で神様はそういうやっかいな生き物をつくったのかなっていうことを思うんですけど、多分、それを嫌がってもしようがないので。これはブッダの切実な問題でもあったと思いますね。そこで嫌がって、そんなことがあたかもないかのようにしたり、そうしたことを知ることができる能力を持った人間として「がたがた恐怖に震えながら(死を)迎える」のでもなく、もっと積極的に、建設的に、「限りある人生を有意義に生きる方法はないのか?」っていうのがブッダの大きな問題意識だったんです。
むしろ、「死があるからこそ深い“生”が生きられるんだ」と、「そうしたらこういう生き方になるよ」っていうのがブッダの結論だったんだと思うんです。
それはブッダだけができるわけじゃなくて、オープンに「誰にもできる」というか「可能性としてはあり得るし、そうしてもらいたい」というのがブッダのメッセージなのじゃないかなと思います。「じゃあ、他の人にもシェアしてみるか」と坐禅から立ち上がったわけです。
ブッダが取り組んだ問題を自分の問題として引き受ける人が増えていけば、どうでもいいようなことに心を悩ませないで、その人なりに意義深いというのか、「死ぬ稽古としての人生」というのが展開するんじゃないかなと思っていますけどね。
ちょっと法話っぽくなってきたんで(笑)、喋りながら、「どうやってこれ締めようかな」と思いました(笑)。
司会 ありがとうございました。大変貴重な質問をありがとうございました。
お時間が近いので、最後にこの本をどんな人に読んで欲しいかをそれぞれに一言いただければと思っています。
伊東 まず、今日来ていただいた皆さんに感謝とともに「ぜひ読んでいただきたい」ということですね。それから、皆さんからもし他のお知り合いの方、お友達に伝えていただければありがたいです。そうやって広がっていってくれたら嬉しいなというのが私の気持ちです。よろしくお願いします。(拍手)
藤田 そうですね。あっけらかんと死について、自分の死についてですけどね、人の死をあっけらかんと語るっていうのは失礼だと思うので(笑)。
伊東 それはちょっとですね(笑)。
藤田 自分の死についてあっけらかんと語るっていう事に興味のある人が、そういう感じで自分の死について考えてみたい人のための本。それは死を分かるためじゃなくて、今、生きてるってことの奥深さっていうか、不思議さみたいなことにいき当たるためのいい試金石になると思うので、そういう関心を持っている人が読んでいただければと思います。
何か教養を深めるとかそういう本ではないので、結論はありませんけど、こういう仕方で「愉しく」というか、愉快に自分の死について探求していく一つのモデルみたいになって欲しいなというように思います。
司会 本日はありがとうございました。
(第八回(最終回) 了)
新刊情報『生きる稽古 死ぬ稽古』(藤田一照・伊東昌美著)
「絶対に分からない“死”を語ることは、 同じく不思議な、“生”を語ることでした」
私たちはいつか死ぬことをわかって今を生きています。
でも、普段から自分が死ぬことを考えて生きている方は少ないでしょう。
“あらためて、死ぬってどういうことなんだろう?”
この本は、そんな素朴な疑問をエンディングノートプランナーでイラストレーターをされている伊東昌美さんが、禅僧・藤田一照先生に伺う対話となっています。
人生の旅の果てに待っているイメージの死。
ですが藤田先生は、
「生と死は紙の裏表みたいなもの」で、
「生の中にすでに死は忍び込んでいる」と仰います。
そんな身近な死を語るお二人は、不思議なほど“愉しい”様子でした。
それは、得体の知れない死を語ることが、
“今この瞬間を生きている奇跡”を感じるからだったのかもしれません。
そう、死を語ることは生を語ることであったのです。
“どうして私は生きているのだろう?”
一度でもそんなことを考えたことがある方へお薦めします。
単行本(ソフトカバー): 255ページ
出版社: 株式会社 日貿出版社
ISBN-13:978-4817082398
発売日: 2017/8/22
全国書店、アマゾンで好評発売中です。
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–Profile–
●藤田一照(Issho Fujita)写真右
1954年、愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程中退。曹洞宗紫竹林安泰寺で得度し、1987年からアメリカ・マサチューセッツ州のヴァレー禅堂住持を務め、そのかたわら近隣の大学や瞑想センターで禅の指導を行う。現在、曹洞宗国際センター所長。著書に『現代座禅講義』(佼成出版社)、『アップデートする仏教』(山下良道との共著、幻冬舎)、訳書にティク・ナット・ハン『禅への鍵』(春秋社)、鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド2』(サンガ)など多数。
Web site 藤田一照公式サイト
オンライン禅コミュニティ磨塼寺