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生きるということの中には、様々な英知が凝縮されています。
誰もが持っている「身体」と「生命」を通して、
その見えざるものを掘り起こし、共通言語に変えていくことで、
ヒトはヒトを超えた何かへと変容できるかもしれません。
大きな夢と希望を持ち、明日の世界へと進むための生命学講座、
超人になる!
第三回「脳より前にうごめくもの」
文●長沼敬憲
脳は司令塔ではない!?
考える前に身体は動いている。筋肉は反応している。
前号の連載で紹介した、ロボット工学の第一人者前野隆司氏(慶応大学大学院教授)のこうした指摘が正しいとすると、「脳が認識する前に行為は始まっている」ことになります。
初めに行為ありき。――これは、大正時代のアナーキスト・大杉栄(1885〜1923年)の遺した言葉ですが、こんな異端者の言葉が生物的に「正しい」と言われる時代が来るとは……(笑)。
まあ、自己の直観や本能に従って生きている人は、これに近い実感を持っているのかもしれませんが、もちろんそれは世の中一般の常識などではないでしょう。
この点について、前野氏は次のように語っています。
「人の『意識』とは、心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなくて、人の心の『無意識』の部分がやったことを、錯覚のように、あとで把握するための装置に過ぎない。
自分で決断したと思っていた充実した意思決定も、自然の美しさや幸せを実感するかけがえのない『意識』の働きも、みんなあとで感じている錯覚に過ぎない。そしてその目的は、エピソードを記憶するためである」
(前出、前野隆司氏のホームページより)
こんな言い方をされるとショックを受ける人も多いかもしれませんが、考えてみると当たり前のことのようにも思えます。
僕がよく例に挙げるのは、サッカーのスーパープレイです。
世界のトップクラスの選手の動きを見ていると、どこに目がついているのかと思うような角度にパスを放ったり、それを以心伝心で受けとってボレーシュートを放ったり……。認識の前に身体が動いていなければ、こんなプレイ、とてもできるものではありません。
これは、第1回の連載で取り上げた甲野善紀氏の「先を占わない」話にもつながってくるでしょう。
小柄で非力なおばあさんが、火事場でタンスを担ぎ上げて逃げる――そうした「火事場の力」が可能になるのは、「こんな重いものが持てるわけがない」という概念から解き放たれてしまうため。
頭で考えて不可能だと感じたことでも、頭で考えることをやめた途端、いとも容易く実現できてしまう。それは、スポーツをやっている人にかぎらず、誰もが少なからず感じていることでしょう。
逆に言えば、「○○さんは運動神経が鈍い」という言い方がされることがありますが、そういう人は行為の際に「つい考えてしまう」わけです。
「大丈夫かな」と思うだけで、ほんの一瞬でも躊躇が生まれてしまうため、意思と行為の間にズレが生じる。このズレが「絶妙なスルーパス」をできなくさせている原因ということなのでしょう。
(2014ワールドカップ 【スーパープレー】スルーパス編)
頭で考えないほうがすぐれた身のこなしができるのだとしたら、脳が司令塔であるという常識はいったい何なのか?
我々が日常の中で何となく思っている脳を中心にした身体観は、まさに日常の切羽詰まった場面のなかで呆気なく崩壊します。
安穏とした日常が、観念と行為の間のズレを作り、行為が何によって成り立っているかを見えなくさせてしまっている――そういう観念優先の生き方が「頭でっかち」を呼ばれているのではないでしょうか?
ニーチェよろしく、「超人になる」ことを「人類の目標」にした場合、ここに突破すべき障壁があるはずなのです。
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